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「くしゅん」
「まあ、ジョージ。風邪を引いてしまったの?」
「ええご心配なくアウローラ様。舞踏会の度に星空のもと馬車の外に追いやられるものですから、少しばかり風邪気味でして。」
「ロマンティックな事ではないか。星は冬空が最も澄んで見える。」
「旦那様。そのお言葉、お忘れなき様に。」
「主を脅すとは。ふむ、一層お前を冬の間門番見習いにしようかな。彼等はひと晩外に立って、それで文句なぞ一言も言わないが?」
「とんだ暴君ですね。」
馬車の中では気安い会話が続いている。
侍従のジョージは勤勉で、アストリウスの為によく仕えている。けれども時折こんな風に馴れ合う様な会話が出るのは、彼等が幼馴染であり学友であるからだろう。
アストリウスが二人きりになりたいと言ったのは、退城の口実ではなく本心であったようで、伯爵邸に着いてからも馬車の中でアウローラを離さなかった。
結局ジョージは凍てつく星空の下、馬車の扉の前で許しが出るまで待たされた。彼は既に妻子がいるから、最近匂い立つ色香を漂わせ始めた可憐な婚約者を前に、むらむゲフン唆られてしまう気持ちも良く解かる。
けれども、毎回外に追い出されて待ちぼうけを食らわされると、しれっとなんにもしてませんって顔で馬車から出て来る主の向こう脛を、思いっきり蹴り飛ばしたくなるのは仕方の無いことだろう。
風邪気味のジョージを馬車に残して、アストリウスにエスコートされながらアウローラは劇場に入った。劇場の煌びやかな照明に、いつか母と観劇に来たことを思い出した。
母は外出を好まない。執務が多忙であるのも理由の一つであるが、昼間の茶会は別にして、父と揃って出掛けるのも招待された夜会くらいである。二人が連れ立って観劇に出掛ける姿など、アウローラは見たことが無かった。
実のところ、母は観劇が好きである。
それはアウローラと一緒に観劇をした際に、母が目を輝かせて演劇に見入っていたことで分かった。集中しているのが横顔で解ったから、アウローラは声を掛けようとして思い留まったのである。
当時はミネットが学園に入った頃で、アウローラはミネットとトーマスの近過ぎる距離に悩まされていた。
そんなアウローラをある日、母は観劇に誘ってくれて、そうして母にしては珍しく、帰り道では貴婦人達に人気の老舗カフェで二人でお茶を楽しんだのである。
演目は確か、巷で流行りの恋愛小説を元にしたものであった。母が恋愛小説を読んでいるとは思えなかったが、読書好きであるのは知っていた。執務で疲れた目を読書で癒すという人である。結局母は一日中目を酷使していた。
そんな事を思い出しながら、アウローラはアストリウスに誘われるまま席に着く。
眼前の光景を見渡せば、後ろ姿で解かるほど皆美しく装っている。貴婦人達が身につける香油の薫りが漂って、その甘い薫りに酔いそうになった。
この日の演目は、最近話題の小説で悲恋がテーマであった。その粗筋を知っているアウローラは、もう絶対泣けてしまうと自信があったから、ハンカチなら二枚用意して来た。
物語の起承転結、「起」の場面で、既に涙が溢れだす。行き成り泣き出したアウローラに、「え!」とアストリウスが驚いた。ここ泣くとこ?と殿方は思うらしい。泣けるんですよ、悲恋には予兆というものがあるんです。
「ああ、だ、大丈夫か、アウローラ。」
「大丈夫でしゅ。ぐすっ。」
「全然大丈夫じゃないだろう、」
「全然大丈夫でしゅ、ぐすっ。」
アストリウスを好いているのに煩わしく思う。相容れない感情は、今が演劇のチョ~いいところであるからだ。少し黙っていて欲しい。全身全霊で集中したい。
物語はクライマックスを迎えており、アウローラの感情も極まっていた。涙腺ダムなら随分前から決壊している。
涙は不思議な効力を持つ。溢れる思いを涙で流す内に、現実は何も変わらないのに心が癒える。
不器用なアウローラはあまり泣けない。泣いてしまいたい事なら幾つもあったが、嫡女であると律する心が涙を堰き止めていた。
小説や観劇は、そんな頑固で不器用なアウローラが、素直に感情を味わい吐露出来るツールの一つであった。
そこで気が付いたのは、母にとっても小説に読むことが、物語に没頭することが慰めであったのかもしれないという事だった。
父がトーマスの様に叔母に惹かれていたのだとしたら、妹に心を寄せる婚約者を夫に迎えた母の心情とはどんなものであったのか。そう考えて、それがアウローラ自身にもあったもう一つの未来であるのを思い出す。
『貴女の為になる事と、為にならない事とが並んでいたら、どちらを選択するかは解るでしょう?』
アストリウスとの縁談を明かされた際の母の言葉を思い出す。
アウローラの知る父とは、母を愛する夫である。母も父を信頼して見えたし、伯爵家の執務でも外回りの全てを任せていた。
それが、愛する心を閉じ込めて母との婚姻に囚われた父を解放しようと、敢えて外出をさせているのだとしたら。
窮屈な婚姻に、せめて父に自由を与えたいと思う母の気遣いだったとしたら、母こそ何処に逃げるのだろう。
そんな考えに辿り着いて、アウローラは無性に泣きたくなった。既に十分泣いていたのだが、それに加えて涙が溢れた。
アウローラの今ある幸せは、母からの贈り物である。きっかけはクロノスから齎されたのであろうが、母には断る事が出来た。トーマスとの婚姻は半年後の事であったのだから、それを理由に出来ただろう。
母に良く似たアウローラの幸福な未来とは、母の決して幸福なだけではなかった半生から導き出されたものであった。
「まあ、ジョージ。風邪を引いてしまったの?」
「ええご心配なくアウローラ様。舞踏会の度に星空のもと馬車の外に追いやられるものですから、少しばかり風邪気味でして。」
「ロマンティックな事ではないか。星は冬空が最も澄んで見える。」
「旦那様。そのお言葉、お忘れなき様に。」
「主を脅すとは。ふむ、一層お前を冬の間門番見習いにしようかな。彼等はひと晩外に立って、それで文句なぞ一言も言わないが?」
「とんだ暴君ですね。」
馬車の中では気安い会話が続いている。
侍従のジョージは勤勉で、アストリウスの為によく仕えている。けれども時折こんな風に馴れ合う様な会話が出るのは、彼等が幼馴染であり学友であるからだろう。
アストリウスが二人きりになりたいと言ったのは、退城の口実ではなく本心であったようで、伯爵邸に着いてからも馬車の中でアウローラを離さなかった。
結局ジョージは凍てつく星空の下、馬車の扉の前で許しが出るまで待たされた。彼は既に妻子がいるから、最近匂い立つ色香を漂わせ始めた可憐な婚約者を前に、むらむゲフン唆られてしまう気持ちも良く解かる。
けれども、毎回外に追い出されて待ちぼうけを食らわされると、しれっとなんにもしてませんって顔で馬車から出て来る主の向こう脛を、思いっきり蹴り飛ばしたくなるのは仕方の無いことだろう。
風邪気味のジョージを馬車に残して、アストリウスにエスコートされながらアウローラは劇場に入った。劇場の煌びやかな照明に、いつか母と観劇に来たことを思い出した。
母は外出を好まない。執務が多忙であるのも理由の一つであるが、昼間の茶会は別にして、父と揃って出掛けるのも招待された夜会くらいである。二人が連れ立って観劇に出掛ける姿など、アウローラは見たことが無かった。
実のところ、母は観劇が好きである。
それはアウローラと一緒に観劇をした際に、母が目を輝かせて演劇に見入っていたことで分かった。集中しているのが横顔で解ったから、アウローラは声を掛けようとして思い留まったのである。
当時はミネットが学園に入った頃で、アウローラはミネットとトーマスの近過ぎる距離に悩まされていた。
そんなアウローラをある日、母は観劇に誘ってくれて、そうして母にしては珍しく、帰り道では貴婦人達に人気の老舗カフェで二人でお茶を楽しんだのである。
演目は確か、巷で流行りの恋愛小説を元にしたものであった。母が恋愛小説を読んでいるとは思えなかったが、読書好きであるのは知っていた。執務で疲れた目を読書で癒すという人である。結局母は一日中目を酷使していた。
そんな事を思い出しながら、アウローラはアストリウスに誘われるまま席に着く。
眼前の光景を見渡せば、後ろ姿で解かるほど皆美しく装っている。貴婦人達が身につける香油の薫りが漂って、その甘い薫りに酔いそうになった。
この日の演目は、最近話題の小説で悲恋がテーマであった。その粗筋を知っているアウローラは、もう絶対泣けてしまうと自信があったから、ハンカチなら二枚用意して来た。
物語の起承転結、「起」の場面で、既に涙が溢れだす。行き成り泣き出したアウローラに、「え!」とアストリウスが驚いた。ここ泣くとこ?と殿方は思うらしい。泣けるんですよ、悲恋には予兆というものがあるんです。
「ああ、だ、大丈夫か、アウローラ。」
「大丈夫でしゅ。ぐすっ。」
「全然大丈夫じゃないだろう、」
「全然大丈夫でしゅ、ぐすっ。」
アストリウスを好いているのに煩わしく思う。相容れない感情は、今が演劇のチョ~いいところであるからだ。少し黙っていて欲しい。全身全霊で集中したい。
物語はクライマックスを迎えており、アウローラの感情も極まっていた。涙腺ダムなら随分前から決壊している。
涙は不思議な効力を持つ。溢れる思いを涙で流す内に、現実は何も変わらないのに心が癒える。
不器用なアウローラはあまり泣けない。泣いてしまいたい事なら幾つもあったが、嫡女であると律する心が涙を堰き止めていた。
小説や観劇は、そんな頑固で不器用なアウローラが、素直に感情を味わい吐露出来るツールの一つであった。
そこで気が付いたのは、母にとっても小説に読むことが、物語に没頭することが慰めであったのかもしれないという事だった。
父がトーマスの様に叔母に惹かれていたのだとしたら、妹に心を寄せる婚約者を夫に迎えた母の心情とはどんなものであったのか。そう考えて、それがアウローラ自身にもあったもう一つの未来であるのを思い出す。
『貴女の為になる事と、為にならない事とが並んでいたら、どちらを選択するかは解るでしょう?』
アストリウスとの縁談を明かされた際の母の言葉を思い出す。
アウローラの知る父とは、母を愛する夫である。母も父を信頼して見えたし、伯爵家の執務でも外回りの全てを任せていた。
それが、愛する心を閉じ込めて母との婚姻に囚われた父を解放しようと、敢えて外出をさせているのだとしたら。
窮屈な婚姻に、せめて父に自由を与えたいと思う母の気遣いだったとしたら、母こそ何処に逃げるのだろう。
そんな考えに辿り着いて、アウローラは無性に泣きたくなった。既に十分泣いていたのだが、それに加えて涙が溢れた。
アウローラの今ある幸せは、母からの贈り物である。きっかけはクロノスから齎されたのであろうが、母には断る事が出来た。トーマスとの婚姻は半年後の事であったのだから、それを理由に出来ただろう。
母に良く似たアウローラの幸福な未来とは、母の決して幸福なだけではなかった半生から導き出されたものであった。
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