エバーシェリンは百舌鳥の巣に入る

桃井すもも

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第四十章

 エバーシェリンを乗せた馬車が、門扉に向かって走っていく。

 馬車が見えなくなると、マリールイーズはまた一人になって残された。だがそれも、ほんの十日前と変わらない、マリールイーズの日常だった。

 何かが変わってしまったとするなら、それは願い事が一つなくなったことだろう。
 父がいつかどこからか、ひょっこり姿を現して「マリールイーズ」と名前を呼んでくれるかもしれない。そんな願いも希望も、もう二度と叶うことはない。

「マリールイーズ様」

 リチャードの大きな手が肩に置かれて、その温もりがマリールイーズを勇気づけた。

「デイジーがお茶を用意しているでしょう」

 戻りましょう、とリチャードに言われて、見送りに出ていた玄関ポーチで我に返った。とっくに馬車は見えなくなって、マリールイーズは何もない道路の向こうを見つめたままだった。

「ええ」

 そう応えて屋敷の方へ振り返ると、馴染んだいつもの暮らしに戻ったのだと思った。

 玄関ホールには、まだエバーシェリンの香りが残っているようだった。食堂室から続く廊下も二階へ延びる大階段も、至る所に彼女の気配が漂っているように感じられた。

 私室の隣の部屋は、今朝までエバーシェリンが過ごしていた。そこから彼女は毎日、マリールイーズを訪ねてくれた。

 眠れない夜にも、哀しみに溺れる時も。
 抱き締めてくれた柔らかな身体も、涙をぬぐってくれた指先も、励ます声もどこか母に似ている面影も、全て懐かしく思い出された。

 誰かと秘密を打ち明け合うことも、真夜中の寝台で毛布にくるまりひそひそと内緒の話を囁き合うのも、エバーシェリンが教えてくれたことだった。

 ジェーンもリチャードも下がった部屋で、マリールイーズは一人きりになると、エバーシェリンと過ごした数日間を思い出した。

 彼女との出来事を一つ一つ思い浮かべるうちに、思考はいつしか二人の父へと移った。

 ギルバートとの思い出はあまりに多くて、一度に思い出せるものではない。たった一度だけ会った実の父との思い出も、朧げながら忘れずにいたことだった。

 思い出の中のフェルナンドは、マリールイーズを見つめて涙を滲ませた。『マリールイーズ』と名を呼んだその声を、今もうっすらと憶えている。

『君は、パトリシアによく似ている』と言った彼は、まるでマリールイーズに亡き母を探すようだった。
 父とは違う大きな手で両頬を撫でた後に、フェルナンドはマリールイーズを抱き上げると、高い高いをしてくれた。

 ロバートソンは、王国のどこにいてもフェルナンドはマリールイーズを守ると言った。それが彼の愛し方なのだとも言っていた。

 十六歳になったらマリールイーズは王都に上がる。フェルナンドと再び会うとしたらデヴュタントのときだろう。

 そう思ったときに、胸の奥から温かなものが湧いてきて、それは臣下の忠心とは別のもののように思えた。

 フェルナンドはこのあと間もなく、弟であるヒュースコート公爵の長子を養子に迎え入れて立太子させる。
 彼がこの世で得られた実子は、結果的にはマリールイーズただ一人となるのだが、この時の彼女には、そんなことなど思い至らないことだった。


 それは真夜中のことだった。
 灯りを絞った宵闇の中、マリールイーズの耳に声が届いた。

『マリールイーズ』

 名前を呼ばれた気がした。懐かしい父の声だった。

「お父様?」

『マリールイーズ』ともう一度声がして、そこで瞼を開いた。

 薄闇の中に父がいた。
 真っ赤な実をたわわに実らせる、ひと抱えもある山査子の束を胸に抱いて笑っていた。

 マリールイーズは父に伝えたいことがあった。まだお礼を言えずにいたから。

「お父様、お誕生日の贈り物をありがとうごさいます」

 山査子をかたどったブローチは、鮮やかなピジョンブラッドのガーネットで、父はいつも贈り物にはガーネットを選んでいた。

 気に入ったかい?と父が言ったように思った。

「ええ、とても。だって、お父様からいただいたものは、全部、宝物なんですもの。大切に仕舞ってあるわ。それからチョコレートトリュフのトリュフも。ジョージアナとジェーンも一緒に食べたんです」

 侍女頭と侍女と分け合って食べたと伝えた。

「それから、お父様のお言葉どおり、リチャード様と婚約しました。それから私、お友だちができたんです。エバーシェリン様と仰るの。それからエバーシェリン様にはお嬢様がいらして、お名前をマリーローズ様というのですって。レヴィルス伯爵様もマリルーとお呼びになっているのよ」

 エバーシェリ様は、なんとなくお母様に似ていらしたわ。お母様のことは肖像画でしか知らないけれど、お父様がお会いになったら、きっと同じことを思うわ。

 それから、それからと続けて、マリールイーズは父に色んなことを話した。父はいつでもマリールイーズの話すことを楽しそうに聞いてくれたから、会えずにいた間に起こった出来事を、一つ残らず聞かせたかった。

 父は目を細めて、あれもこれもと話すマリールイーズを見つめていた。
 尽きることのないマリールイーズのおしゃべりに頷いていた。

『マリールイーズ』

 まだ話し足りない。まだまだ父と話していたい。けれどもそんなマリールイーズを、父はやんわりと遮った。

『幸せになるんだ』

 そう言うと、山査子の束をこちらに差し出すような仕草をして、父はそのまま宵闇に滲むように消えていった。

 目の前には、夜の静寂に暗がりが広がっているだけだった。マリールイーズはどうやら夢を見ていたようだ。

「お、お父様……」

 涙をぬぐってくれた温かな手の持ち主は、夫とともに去ってしまった。
 マリールイーズは彼女の指先を懐かしく思い出しながら、たった今までそばにいた父の温もりをもう一度感じたくて、再び瞼を閉じた。












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