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身を清める間も無かった。
先に浴室へ向かおうとするグレースの手を取ったかと思うと、リシャールにそのまま強い力で寝室まで手を引かれた。
先を歩くリシャールは、部屋に入る前に侍女も下がらせてしまった。
グレースが部屋に入った途端、音を立てて扉を閉めるものだから、温厚なリシャールらしくない荒々しい行動に、グレースは思わず肩を竦めてしまった。
扉に気を取られていた視線を前に戻せば、すかさず唇を奪われた。
いつになく強引で性急な口付けに思わず背中をタップする。
漸く唇を離されて、大きく息を吸い込んだ。
リシャールが常に無い強い視線を向けるのを、グレースも鼻先がぶつかる程の距離から見つめる。
「どうなさったの?旦那様。」
そう問いかけても、リシャールは答えない。相変わらず睨み付けてくる。残念ながらあまり怖くはないが。
「言葉で仰って頂かないと分からないわ。」
グレースは根気強く促す。
「君は僕の事を何だと思ってるの?」
そのまま返したい質問であるが、ここで言っても通用しないのがリシャールである。
「貴方は私の旦那様よ。」
「そんな当たり前の事では無くて!」
不貞腐れた子供が癇癪を起こす様なものである。
「旦那様、何かお飲みになる?」
ワインかブランデーをと聞いてみても、
「いらない。」
今日はどこまでも頑なな夫が答える。
「きゃっ、」
リシャールを見上げていたグレースを縦抱きに抱き上げて、リシャールは乱暴にもそのままグレースを寝台に放り投げた。
そうして目を回すグレースに徐ろに伸し掛かる。
急に浮遊し落下した視界に軽く目眩を起こしたグレースは、そのまま唇ごと飲み込まれた。
口付けは執拗で、頬へ瞼へ耳元からそのまま耳朶を喰む。
熱い掌に太腿を撫で上げられて、その手を迎え入れた。
リシャールは体躯が大きい。手の平も大きくて熱くて、その手で背を撫でられ腰を掴まれると小柄なグレースはその熱に浮かされて為すがままになってしまう。
「グレース、グレース、」
低く唸る様に名を呼ばれる。
何が夫を苛立たせるのか。多分、ロバートにイザベルの事を突かれたのが面白くなかったのだとは分かるものの、それはもう今更である。
寧ろ、グレースの方が不快感を示して許されるのに、この男の常識はそうではない。
求められるまま委ねて受け入れた。
昼間の余韻どころでなく、夫の意味不明な苛立ちに巻き込まれて、折角の一日が残念な終わり方をした様に思う自分は冷たい妻なのだろうか。
そんな事を考えながら、荒波が鎮まるのを待った。
「グレース、君が僕の子を産んでくれたら、」
それを言うのは反則である。
週に一度か十日に一度、邸に戻ってその時ばかりは閨を共にしたとして、月に数日の交わりで身籠れるのならグレースとて悩みはしない。
グレースが子を成したなら、婚姻の義務を果たしたからと、それからはイザベルとの暮らしに没頭するのだろうか。
そんな都合の良い事を妻を前に口にする夫の狡猾さが、グレースを傷付けているのだと分からない。
もしリシャールとの間に子が得られたなら、この愛しくも小憎らしい夫の事を忘れて、グレースも漸く家族を得られたと喜べるのだろうか。仮にグレースはそれで報われるとして、果たして子は幸せだろうか。
多忙であっても家族を大切にする両親の元で育ったグレースには、歪な家族の姿が想像出来ない。けれどもグレース自身が、独りぼっちのこの家で真の家族を望んでいるのもまた事実であった。
「グレース、」
グレースに伸し掛かったまま、今なおきつく抱き締めてくるリシャールが名を呼ぶのを、何も答える事が出来ずにいると、
「グレースは僕の事が嫌いになったの?」
夫が情けない事を言い出す。
婚姻前からの恋人を最愛として邸にも戻らず、家政も夫人の責任も何もかもをグレースに背負わせて、それでどうして嫌われないと思えるのか。
確かにグレースは、リシャールに愛を覚えてそんな我が儘を受け入れて来た。けれどもそれはグレースの心の内に思うことで、リシャールが妻はそれで平気でいると決めつけるのは間違いである。
妻の心を慮ることの出来ないリシャールに、最近グレースはこうして心が冷えてしまう事が増えたように思う。
覚悟が足りなかったのだろうか。
昼間に見た、青空へ向かい大輪の花を咲かせる薔薇に心を奮い立たせた気持ちまでもが揺らぐのだった。
どうしようもない夫である。
愛は誰からもふんだんに向けられて、我が儘は容易く通ると信じている。
貴族の矜持も役割も放棄している夫に、微妙な按配で張られた糸がキリキリと限界まで引き攣って、今にもぷつんと切れてしまうのではないかと思われた。
父に相談すべき時が来たのだろうか。いや、最初からそう云う契約の婚姻であった。
迷い無くここまで来たつもりでいたのに心が移ろい揺らぐのは、この婚姻がもうすぐ三年を迎えるからだろうか。子を成せない妻に後は無い。
思えばこの三年も、この邸でずっと独りで生きて来た。今更独り身になったとして、現実は何も変わらないのかもしれない。
先の見えないこの先の未来に、夫の熱い体温を感じながらどこか心が醒めるのを覚えて、グレースは荒い息を整えていた。
先に浴室へ向かおうとするグレースの手を取ったかと思うと、リシャールにそのまま強い力で寝室まで手を引かれた。
先を歩くリシャールは、部屋に入る前に侍女も下がらせてしまった。
グレースが部屋に入った途端、音を立てて扉を閉めるものだから、温厚なリシャールらしくない荒々しい行動に、グレースは思わず肩を竦めてしまった。
扉に気を取られていた視線を前に戻せば、すかさず唇を奪われた。
いつになく強引で性急な口付けに思わず背中をタップする。
漸く唇を離されて、大きく息を吸い込んだ。
リシャールが常に無い強い視線を向けるのを、グレースも鼻先がぶつかる程の距離から見つめる。
「どうなさったの?旦那様。」
そう問いかけても、リシャールは答えない。相変わらず睨み付けてくる。残念ながらあまり怖くはないが。
「言葉で仰って頂かないと分からないわ。」
グレースは根気強く促す。
「君は僕の事を何だと思ってるの?」
そのまま返したい質問であるが、ここで言っても通用しないのがリシャールである。
「貴方は私の旦那様よ。」
「そんな当たり前の事では無くて!」
不貞腐れた子供が癇癪を起こす様なものである。
「旦那様、何かお飲みになる?」
ワインかブランデーをと聞いてみても、
「いらない。」
今日はどこまでも頑なな夫が答える。
「きゃっ、」
リシャールを見上げていたグレースを縦抱きに抱き上げて、リシャールは乱暴にもそのままグレースを寝台に放り投げた。
そうして目を回すグレースに徐ろに伸し掛かる。
急に浮遊し落下した視界に軽く目眩を起こしたグレースは、そのまま唇ごと飲み込まれた。
口付けは執拗で、頬へ瞼へ耳元からそのまま耳朶を喰む。
熱い掌に太腿を撫で上げられて、その手を迎え入れた。
リシャールは体躯が大きい。手の平も大きくて熱くて、その手で背を撫でられ腰を掴まれると小柄なグレースはその熱に浮かされて為すがままになってしまう。
「グレース、グレース、」
低く唸る様に名を呼ばれる。
何が夫を苛立たせるのか。多分、ロバートにイザベルの事を突かれたのが面白くなかったのだとは分かるものの、それはもう今更である。
寧ろ、グレースの方が不快感を示して許されるのに、この男の常識はそうではない。
求められるまま委ねて受け入れた。
昼間の余韻どころでなく、夫の意味不明な苛立ちに巻き込まれて、折角の一日が残念な終わり方をした様に思う自分は冷たい妻なのだろうか。
そんな事を考えながら、荒波が鎮まるのを待った。
「グレース、君が僕の子を産んでくれたら、」
それを言うのは反則である。
週に一度か十日に一度、邸に戻ってその時ばかりは閨を共にしたとして、月に数日の交わりで身籠れるのならグレースとて悩みはしない。
グレースが子を成したなら、婚姻の義務を果たしたからと、それからはイザベルとの暮らしに没頭するのだろうか。
そんな都合の良い事を妻を前に口にする夫の狡猾さが、グレースを傷付けているのだと分からない。
もしリシャールとの間に子が得られたなら、この愛しくも小憎らしい夫の事を忘れて、グレースも漸く家族を得られたと喜べるのだろうか。仮にグレースはそれで報われるとして、果たして子は幸せだろうか。
多忙であっても家族を大切にする両親の元で育ったグレースには、歪な家族の姿が想像出来ない。けれどもグレース自身が、独りぼっちのこの家で真の家族を望んでいるのもまた事実であった。
「グレース、」
グレースに伸し掛かったまま、今なおきつく抱き締めてくるリシャールが名を呼ぶのを、何も答える事が出来ずにいると、
「グレースは僕の事が嫌いになったの?」
夫が情けない事を言い出す。
婚姻前からの恋人を最愛として邸にも戻らず、家政も夫人の責任も何もかもをグレースに背負わせて、それでどうして嫌われないと思えるのか。
確かにグレースは、リシャールに愛を覚えてそんな我が儘を受け入れて来た。けれどもそれはグレースの心の内に思うことで、リシャールが妻はそれで平気でいると決めつけるのは間違いである。
妻の心を慮ることの出来ないリシャールに、最近グレースはこうして心が冷えてしまう事が増えたように思う。
覚悟が足りなかったのだろうか。
昼間に見た、青空へ向かい大輪の花を咲かせる薔薇に心を奮い立たせた気持ちまでもが揺らぐのだった。
どうしようもない夫である。
愛は誰からもふんだんに向けられて、我が儘は容易く通ると信じている。
貴族の矜持も役割も放棄している夫に、微妙な按配で張られた糸がキリキリと限界まで引き攣って、今にもぷつんと切れてしまうのではないかと思われた。
父に相談すべき時が来たのだろうか。いや、最初からそう云う契約の婚姻であった。
迷い無くここまで来たつもりでいたのに心が移ろい揺らぐのは、この婚姻がもうすぐ三年を迎えるからだろうか。子を成せない妻に後は無い。
思えばこの三年も、この邸でずっと独りで生きて来た。今更独り身になったとして、現実は何も変わらないのかもしれない。
先の見えないこの先の未来に、夫の熱い体温を感じながらどこか心が醒めるのを覚えて、グレースは荒い息を整えていた。
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