16 / 60
【16】
しおりを挟む
公爵令嬢ともなれば、その誕生祝いとは、家を挙げて有力貴族家の子女等を招き盛大に祝うものなのだろう。
その身が王太子殿下の婚約者であり、未来の国母となるのであれば尚の事である。
しかし、アテーシアの場合はそうはならなかった。
モールバラ公爵家は王家の傍系で、筆頭公爵家として既に国政の場で揺るがない地位と権勢を誇っていた。向かい合う双子星の様に王家と共にあり続ける公爵家は、その邸には容易く人を招かない。天秤の主軸の様に、芯をずらすこと無く中庸を守りバランスを取る。
だから、息子も娘もその生誕は家族で集い祝うのが常であった。
十六歳の誕生日の早朝、寮には小振りな花束と焼菓子が届けられた。焼菓子には日持ちするバタークリームが添えられていた。
週末には邸に戻るから、その夜の晩餐が家族との祝いの席となる。
生まれて初めてたった一人で迎える誕生日である。初夏の気配を感じさせる、春の終わりと夏の始まり。そんな季節の狭間に生まれたのがアテーシアであった。
何故、女軍神の名を授けたのだろう。
十二歳のあの日に気付いたことを、これまで両親に尋ねた事はなかった。
女神は女神でも、戦神などではなくて、アフロディーテやヴィーナスなど美や愛の女神から名を得たならば、違う今があったのだろうか。
それでも家族がアテーシアの幸福な人生を願って付けた名であるのだろう。
母の美しい筆致で綴られたメッセージカードの自身の名は、確かな愛が込められているのだと感じられた。
こんな温かな感情を、アンドリューの文から得られた記憶は残念ながら覚えが無い。
月に一度の手紙が、先にアンドリューから齎された事は無かった。王妃との茶会に合わせてアテーシアがご機嫌伺いの文を出し、それに返信と言う形でその月に会えない理由が添えられる。
そんな形骸的な不毛なやりとりを、この先三年続けなければならない。これより三年後、二人の卒業を待って婚礼の儀が執り行われるのは、十歳の婚約の時には既に定められた事であった。
好物のレモンケーキは料理長が焼いてくれたのだろう。菓子を造る専門のパティシエはいるが、アテーシアの誕生日ケーキは毎年料理長が焼いてくれた。
「甘い。甘くてほんのり酸っぱくて美味しいわ。」
朝食もまだであるのに端なく菓子を頬張るも、一人住まいの室内でそれを窘める侍女はいない。
お嬢様は朝日と共にお生まれになったのだと、そう教えてくれたのは侍女頭である。この世を照らす姫君なのだと、そう言って誕生の祝いの言葉をくれたのは、アンドリューとの婚約が整う前だったと思う。
一人きりの誕生日の朝に、アテーシアは自分に向けて言ってみた。
「お誕生日、おめでとう。」
「何を読んでいるの?神話?」
授業が始まる前の図書室で、書物に触れるのは既に日常となっていた。それはパトリシアも同様で、どちらともなく向かい合わせに席に着き、時には隣に座ってみたりする。
アテーシアはこの日、神話を読んでいた。
これは邸から持ち出したもので、十二歳のあの日に自身の名の由来を教えてくれたのもこの本である。
「神話は好きなのです。」
「確かに面白いわよね。神様も案外人間らしくて。」
「パトリシア様もそう思われますか?」
「そうね。一層愚かなほど人間くさいと思えるわ。よく怒るし泣くし戦うし。それから案外色欲強めよね。」
「全く以って同感です。何故にあれほど気が多いのやら。貴族令嬢の方が余程自身を律しております。」
「アテーナがお好きなの?」
パトリシアの視線の先は、父王ゼウスの頭頂部より武装して鎧を纏った姿で産まれたアテーナの挿絵である。
「知恵と勇気の女神よね。」
「え?」
「彼女が誕生した時は、大地も海も揺れ動いて太陽すら止まったと言うじゃない。それって凄い事よね。」
「凄いのでしょうか。」
「凄いわよ。強いし賢いし美しい。」
「強くて厭われる事もあるのではないでしょうか。」
「ふふ、そんな事を思うのは、きっと自分が弱いからよ。」
「弱い?」
欠けるところの無い満月の様なアンドリューがアテーシアを厭うのは、決して自身が弱かったからではないだろう。けれどもこの日、アテーシアはアテーナ神に尊敬を覚えた。アテーナの名をもらった自身の名前が誇らしく思えた。
「シア、まるで貴女の様ね。」
「え?」
「強くて賢くて、それから小さくて眼鏡も前髪も可愛いわ。」
「それって、全然アテーナではありませんね。」
「良いじゃない。可愛いは正義よ。」
「それって、先週読んだ『週刊貴婦人』の見出し文句ですよね。」
「バレた?」
誕生を疎まれたパトリシアに、名前の由来を褒められた。アテーシアこそ、この世に生を受けたパトリシアを祝ってあげたい。聞くとは無しに誕生日を聞いて見れば、それは四月のうちに終わっていた。
「パトリシア様、いつか、いつか二人だけのお誕生会を致しませんか?二人でお互いが生まれた事をお祝いしてみませんか。」
そう言うとパトリシアは、
「素敵だわ。シア、貴女と一緒なら自分が生まれた事を喜ばしいと思えるかも知れない。」
翠の瞳に薄っすらと透明な膜が張り、それは清水を湛えた泉の様に見えた。
なんて美しい瞳なのだろうと、アテーシアはその瞳に見入った。
その身が王太子殿下の婚約者であり、未来の国母となるのであれば尚の事である。
しかし、アテーシアの場合はそうはならなかった。
モールバラ公爵家は王家の傍系で、筆頭公爵家として既に国政の場で揺るがない地位と権勢を誇っていた。向かい合う双子星の様に王家と共にあり続ける公爵家は、その邸には容易く人を招かない。天秤の主軸の様に、芯をずらすこと無く中庸を守りバランスを取る。
だから、息子も娘もその生誕は家族で集い祝うのが常であった。
十六歳の誕生日の早朝、寮には小振りな花束と焼菓子が届けられた。焼菓子には日持ちするバタークリームが添えられていた。
週末には邸に戻るから、その夜の晩餐が家族との祝いの席となる。
生まれて初めてたった一人で迎える誕生日である。初夏の気配を感じさせる、春の終わりと夏の始まり。そんな季節の狭間に生まれたのがアテーシアであった。
何故、女軍神の名を授けたのだろう。
十二歳のあの日に気付いたことを、これまで両親に尋ねた事はなかった。
女神は女神でも、戦神などではなくて、アフロディーテやヴィーナスなど美や愛の女神から名を得たならば、違う今があったのだろうか。
それでも家族がアテーシアの幸福な人生を願って付けた名であるのだろう。
母の美しい筆致で綴られたメッセージカードの自身の名は、確かな愛が込められているのだと感じられた。
こんな温かな感情を、アンドリューの文から得られた記憶は残念ながら覚えが無い。
月に一度の手紙が、先にアンドリューから齎された事は無かった。王妃との茶会に合わせてアテーシアがご機嫌伺いの文を出し、それに返信と言う形でその月に会えない理由が添えられる。
そんな形骸的な不毛なやりとりを、この先三年続けなければならない。これより三年後、二人の卒業を待って婚礼の儀が執り行われるのは、十歳の婚約の時には既に定められた事であった。
好物のレモンケーキは料理長が焼いてくれたのだろう。菓子を造る専門のパティシエはいるが、アテーシアの誕生日ケーキは毎年料理長が焼いてくれた。
「甘い。甘くてほんのり酸っぱくて美味しいわ。」
朝食もまだであるのに端なく菓子を頬張るも、一人住まいの室内でそれを窘める侍女はいない。
お嬢様は朝日と共にお生まれになったのだと、そう教えてくれたのは侍女頭である。この世を照らす姫君なのだと、そう言って誕生の祝いの言葉をくれたのは、アンドリューとの婚約が整う前だったと思う。
一人きりの誕生日の朝に、アテーシアは自分に向けて言ってみた。
「お誕生日、おめでとう。」
「何を読んでいるの?神話?」
授業が始まる前の図書室で、書物に触れるのは既に日常となっていた。それはパトリシアも同様で、どちらともなく向かい合わせに席に着き、時には隣に座ってみたりする。
アテーシアはこの日、神話を読んでいた。
これは邸から持ち出したもので、十二歳のあの日に自身の名の由来を教えてくれたのもこの本である。
「神話は好きなのです。」
「確かに面白いわよね。神様も案外人間らしくて。」
「パトリシア様もそう思われますか?」
「そうね。一層愚かなほど人間くさいと思えるわ。よく怒るし泣くし戦うし。それから案外色欲強めよね。」
「全く以って同感です。何故にあれほど気が多いのやら。貴族令嬢の方が余程自身を律しております。」
「アテーナがお好きなの?」
パトリシアの視線の先は、父王ゼウスの頭頂部より武装して鎧を纏った姿で産まれたアテーナの挿絵である。
「知恵と勇気の女神よね。」
「え?」
「彼女が誕生した時は、大地も海も揺れ動いて太陽すら止まったと言うじゃない。それって凄い事よね。」
「凄いのでしょうか。」
「凄いわよ。強いし賢いし美しい。」
「強くて厭われる事もあるのではないでしょうか。」
「ふふ、そんな事を思うのは、きっと自分が弱いからよ。」
「弱い?」
欠けるところの無い満月の様なアンドリューがアテーシアを厭うのは、決して自身が弱かったからではないだろう。けれどもこの日、アテーシアはアテーナ神に尊敬を覚えた。アテーナの名をもらった自身の名前が誇らしく思えた。
「シア、まるで貴女の様ね。」
「え?」
「強くて賢くて、それから小さくて眼鏡も前髪も可愛いわ。」
「それって、全然アテーナではありませんね。」
「良いじゃない。可愛いは正義よ。」
「それって、先週読んだ『週刊貴婦人』の見出し文句ですよね。」
「バレた?」
誕生を疎まれたパトリシアに、名前の由来を褒められた。アテーシアこそ、この世に生を受けたパトリシアを祝ってあげたい。聞くとは無しに誕生日を聞いて見れば、それは四月のうちに終わっていた。
「パトリシア様、いつか、いつか二人だけのお誕生会を致しませんか?二人でお互いが生まれた事をお祝いしてみませんか。」
そう言うとパトリシアは、
「素敵だわ。シア、貴女と一緒なら自分が生まれた事を喜ばしいと思えるかも知れない。」
翠の瞳に薄っすらと透明な膜が張り、それは清水を湛えた泉の様に見えた。
なんて美しい瞳なのだろうと、アテーシアはその瞳に見入った。
4,105
あなたにおすすめの小説
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
【完結】え、別れましょう?
須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」
「は?え?別れましょう?」
何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。
ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?
だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。
※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。
ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。
筆頭婚約者候補は「一抜け」を叫んでさっさと逃げ出した
基本二度寝
恋愛
王太子には婚約者候補が二十名ほどいた。
その中でも筆頭にいたのは、顔よし頭良し、すべての条件を持っていた公爵家の令嬢。
王太子を立てることも忘れない彼女に、ひとつだけ不満があった。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
過去に戻った筈の王
基本二度寝
恋愛
王太子は後悔した。
婚約者に婚約破棄を突きつけ、子爵令嬢と結ばれた。
しかし、甘い恋人の時間は終わる。
子爵令嬢は妃という重圧に耐えられなかった。
彼女だったなら、こうはならなかった。
婚約者と結婚し、子爵令嬢を側妃にしていれば。
後悔の日々だった。
【完結】夫は私に精霊の泉に身を投げろと言った
冬馬亮
恋愛
クロイセフ王国の王ジョーセフは、妻である正妃アリアドネに「精霊の泉に身を投げろ」と言った。
「そこまで頑なに無実を主張するのなら、精霊王の裁きに身を委ね、己の無実を証明してみせよ」と。
※精霊の泉での罪の判定方法は、魔女狩りで行われていた水審『水に沈めて生きていたら魔女として処刑、死んだら普通の人間とみなす』という逸話をモチーフにしています。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる