名前が強いアテーシア

桃井すもも

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楽しい時間が過ぎるのは、あっという間の事である。愈々いよいよ明後日には王都へ戻らねばならない。

「シア、王都へ帰るんだろう?」

朝の稽古を終えて、汗を拭うアテーシアにミカエルが尋ねた。

「ええ。帰らなくてはいけないわね。夢の時間は御仕舞だわ。」

「ふ、ここが夢の世界だと?」

「現実逃避するくらいには。」

「帰りたくないのか?」

「ここに残りたい気持ちと、待っている家族や友人に会いたい気持ちと、どちらが重いのか自分でもよく分からないの。貴方はどうするの?」

「私は帰るよ。」
「そう。ミカエル貴方、」

ミカエルが何処に住んでいるのかを尋ねようとして、アテーシアは思い留まった。
ミカエルはアテーシアと同年代と思われた。けれど、アテーシアの通う学園でミカエルらしき学生と会った事はなかったから、彼は王都とは違う街の学園に通っているのだろう。

ミカエルが貴族の子息であるのは確かだろう。家名も互いに明かさぬままに、ただ、シア、ミカエルと呼び合うだけの関係である。

「また、また夏が来たら、貴方とここで会えると良いわ。」
「来年の夏?」
「ええ。夏が来る度にここで貴方と剣の稽古が出来たら良いのに。」
「それなら夏じゃなくても良いだろう。」
「冬は多分、家族が許してくれないと思うの。ここは雪が深いから、馬も馬車も危険だと反対されてしまうわ。」
「大切にされているんだな。」
「ええ。私、とても恵まれているの。与えられた責任を果たさずに、生涯誰にも嫁がず独り身を通しても、きっとそれが私の幸せなら両親は私の我が儘を許してくれると思うわ。」
「君は、誰とも婚姻を結ばないのか?」
「ええ。お相手もいないし。」
「相手がいない?婚約者は、」
「もうすぐ解消されるの。破棄かも知れない。王都に帰ったら向き合わなくてはならないわ。学園も。」
「学園?」
「ええ。今通っている学園から別の学校へ移る予定なの。その方がお互い良いと思うわ。」
「何故。」
「...。私の婚約者とは、同じ学園に私ではない恋人がいるのよ。私がいては駄目でしょう。」
「何故、君が移る必要があるんだ。」

「ミカエル、貴方は婚約者がいるの?」
「ああ、いるよ。」

何故だろう。アテーシアはちょっとばかり寂しく思った。自分が婚約を解消されるからと、ミカエルに婚約者がいるのを寂しく思うだなんて。

「私ね。」

互いに住まう土地も関わる人も交わらないミカエルに、アテーシアはつい誰にも明かさなかった胸の内を話してみる。

「私、婚約者と全然上手く行っていないの。初めて会ったのは六年も前だけれど、多分、その時から好かれていなかったのだわ。半年に一度会うだけで、後はこちらから月に一度文を出す、それだけの交流しか出来なかったの。
幼い頃は名前の所為かと思ったの。私、軍神の名を貰っているのよ。そんな戦女神いくさめがみの様な名前の娘だから、嫌われてしまったのだと思ったの。でも、大きくなって解ったわ。好いてもらうのも嫌われるのも、理由なんて無いわよね。心がそう思ってしまうのを、誰も責めることなど出来ないわ。彼は全然悪くない。正直に言えない立場だったのよ。
彼はとても頑張り屋さんなの。だから、私も頑張った。頑張って、彼に恥ずかしくないように勉強したのだけれど、それで益々彼とは疎遠になってしまった。
同じ学園に通って漸く、彼に想い人がいるのに気が付いたの。ねえ、ミカエル。貴方ならどうする?婚約者が可憐なご令嬢と肩を寄せ合い顔がくっ付きそうなほど近付いて、私が見たことも無い優しい笑みを浮かべていたなら、彼を自由にしてあげたいと思わない?」

「何故そんな風に思うんだ。確かめたのか?本当に彼は他の令嬢を慕っているのか?」

「聞かなくても解るわ。あんな優しい微笑みを私は向けられたことが無いもの。それに、」

アテーシアは言って良いのか思い留まる。言葉に出してしまうと途端に情けなくなりそうで、逡巡する。

「それに?」

ミカエルに促されて、噤んだ口が解れてしまう。

「私ね、誕生日を迎えたの。成人の年齢を迎えたの。そのお祝いに彼から花束を頂いたわ。それは希少な花だったのだけれど、こんな言い方いけないかしら、その、なんと言うか、それは紛い物だったの。」

「紛い物?」

「ええ。例えるなら、真実愛する女性に渡す前の試作品、とでも言うのかしら。そうして花の色は彼が思いを寄せる女性の瞳の色だった。紛い物の上に、枯れて朽ちて消えてしまう。きっと彼は、私への思い遣りを一欠片も残したくはなかったのね。
今なら解るわ。私、心底がっかりしてしまったんだわ。私の成人を祝うのに、彼がそんな事をするだなんて。それがとてもショックだったんだわ。
頑張り屋さんの彼が、せめて望んだ女性ひとと添い遂る幸せを得られて良いのだと思いながら、本心では心底がっかりしたのだわ。疎んじられて粗末に扱われるのが、ほとほと嫌になってしまった。
それでも彼は責任があるから、私を伴侶に選ぶでしょう。そんなの御免蒙ごめんこうむるわ。彼は彼女と幸せになって、私は私で幸せになろうって、そう決めたの。」

誰にも言えなかった心のつかえを、ミカエルにすっかり全てを打ち明けて、アテーシアは晴れ晴れとした気持ちになった。殿下、御免なさい、貴方の悪口を言っちゃったわ。だけど、これくらい勘弁してね。そうして貴方はどうか幸せになってね。

間もなく解消される婚約者の、清廉な姿を思い浮かべた。



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