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第三十七章
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『ククク』
そこでラィードは笑い声を漏らした。
どこに笑えることがある?
ルドヴィカに、得体の知れないものと出会ったような、言いようのない不安が湧いてくる。
『なあ、マクシミリアン殿下。ルドヴィカはクセになるな、可愛くて』
ラィードはマクシミリアンにそう言って、また小さくクククと笑った。
ルドヴィカはマクシミリアンを見上げた。その冷たい表情に、本能的な寒さを覚えてふるりと震えた。
だが、厚顔なラィードは、凍えるようなマクシミリアンを気にすることはなかった。
『初めて君を見たときに、何かに似てると思ったんだ。なんだろうなと考えて、ああ、子供の頃に飼っていた子猿に似ていると思い出した』
途端に、ルドヴィカが反応する前にアーチボルトが剣の柄を握った。ルドヴィカの背後から聞こえたその音に、思わず振り返りそうになる。
だがルドヴィカは、子猿呼ばわりされたことは全く気にしていなかった。
自分が美人でないことは知っている。パーツがちょっと素朴なだけだ。それでもマクシミリアンは言ってくれた。
「君が私を見上げると、胸が温かになる」
あれはいつだったか、まだ婚約したばかりの頃だと思う。王都の庭園をマクシミリアンにエスコートされて歩いていたときに、ぶわりと風が吹き抜けた。
その頃はまだ髪を降ろしていたから、風に舞い上がる髪が空まで伸びて、ルドヴィカはそれが面白くて笑ってしまった。
「マクシミリアン様、見て?髪が立ち上がっているわ」
そう言って見上げたマクシミリアンは、ルドヴィカを見つめて先ほどの言葉を言ったのだ。
甘やかな記憶を思い出して、ルドヴィカは鋼のメンタルを取り戻した。お前に子猿呼ばわりされても、へっちゃらである。
そんなことより、ルドヴィカが引っ掛かったのはそこではない。
『貴様、んっん、貴方、どこで私を見たというの?教会で会ったのが初めてではないのでしょう?でも私は貴方を知らないわ』
ルドヴィカが、南の大国の人間に会ったことは、これまで一度だけだった。隣国王太子の婚姻式で挨拶を交わした王太子と妹姫、その一度きりである。
『貴様、あの時の護衛騎士か』
そこで言葉を発したのは、アーチボルトだった。その言葉にルドヴィカも記憶を辿った。
ルドヴィカとマクシミリアンにはアーチボルトが護衛として就いていた。そしてあの場、王太子たちと挨拶を交わしたあの時には、背後に護衛騎士がいた。
褐色の肌に亜麻色の髪を背中に結わえて、騎士の正装である帽子を目深に被り、琥珀色の瞳は隠れていた。
『貴方、あの時の護衛……』
言われてみればそれも当然のことで、こちらも第二王子であり軍部の参謀であるアーチボルトを護衛に連れていた。ラィードも、同じような立場にある。
隣国の婚礼の場で、ルドヴィカはすでにラィードと出会っていた。
『別に君が子猿に似ていたから気に入ったわけではない』
可愛いと言ったわりに、散々な言いようである。
だが、マクシミリアンの言葉を疑わないルドヴィカは鋼のメンタルであるから傷つかない。
『その子猿になんの御用?』
ふんっ、と顎が上がっていた。
『君、そんな無害な顔をして、あんなことをするからさ、ククク』
あろうことかラィードは、ルドヴィカを見ながら三度笑い声を漏らした。見えないはずなのに、背後でアーチボルトが気の毒そうにする様子が見えた気がした。
『あの時、会場に鼠が紛れ込んだ。正真正銘、屋敷鼠だ。慌ただしい婚礼会場で、人々が出入りする隙から入り込んだんだろうな』
ああ、とルドヴィカは思い出した。
それほど大きな鼠ではなかった。だが、あれをご婦人が目にしたら、忽ち悲鳴があがっただろう。各国の王族や要人たちが集う祝儀の場に、ご婦人たちの悲鳴が伝播することになりかねない。
遠目に鼠を見つけて、ルドヴィカはどうしたものかと思っていた。せめて、壁伝いに会場から出ていってくれればよい。
そう思って見ていた鼠は、そこで身を起こして辺りを確かめた。
そうそう、そこで周りを確かめたら、さっさと外へ出て行きなさい。ルドヴィカの送った想念は、どうやら鼠に通じたらしい。
鼠は立ち上がったままルドヴィカを見つけて、二人は一瞬、見つめ合った。
あの時、鼠は一体なにを考えていたのだろう。なにも考えていなかったのだろう。
奴は床に前足をつくと、真っ直ぐこちらに向かって走りだした。
人々の靴の間をするする通り抜けて、まるでルドヴィカをチーズか何かと思うように、確かな意志をもって駆けてきた。
ルドヴィカは思わずマクシミリアンの腕に掛けた手をぎゅっと握った。マクシミリアンはそれで、突進してくる鼠に気づき、同じくアーチボルトも気がついた。
小さな鼠が疾風のようにやって来る。ルドヴィカ目指して駆けてくる。
とうとう鼠と目が合うほどに距離が縮まったその時に、ルドヴィカはマクシミリアンの腕から手を離した。
ドレスの裾を両手で持ち上げた。
それから右足を後ろに浮かせた時には、もう鼠は目の前まで来ていた。
ルドヴィカはそこで右足を振り下ろすと、鼠をポーンと蹴り返した。
憐れな鼠は低い軌道を描いて向こう側に飛ばされた。一瞬なにが起こったかわからないようだった。だが、危険人物ルドヴィカから退避することを第一目標に選んだらしく、壁際に向かって一目散に逃げていった。幸い、歓談する招待客の目に触れることはなかった。
その後、彼(鼠)がどうなったかは、ルドヴィカは知らない。
『君ってさ、それからなんにもしていないような顔をして、夫君の腕に手を掛けたよね。あの澄ました顔が、クク、ああ思い出してしまったじゃないか』
鼠をすっ飛ばしたルドヴィカを、ラィードは目撃したようだった。その後、南の大国の王太子たちに挨拶をしたルドヴィカを、どうやら彼は笑いを堪えて見ていたらしい。
『き、貴様、し、失敬だぞ。義姉上はあの場の混乱を予期して、ふっ、あんなことを』
アーチボルトがフォローに回ったが、彼自身も笑ってしまったから、全然フォローになっていなかった。
そこでラィードは笑い声を漏らした。
どこに笑えることがある?
ルドヴィカに、得体の知れないものと出会ったような、言いようのない不安が湧いてくる。
『なあ、マクシミリアン殿下。ルドヴィカはクセになるな、可愛くて』
ラィードはマクシミリアンにそう言って、また小さくクククと笑った。
ルドヴィカはマクシミリアンを見上げた。その冷たい表情に、本能的な寒さを覚えてふるりと震えた。
だが、厚顔なラィードは、凍えるようなマクシミリアンを気にすることはなかった。
『初めて君を見たときに、何かに似てると思ったんだ。なんだろうなと考えて、ああ、子供の頃に飼っていた子猿に似ていると思い出した』
途端に、ルドヴィカが反応する前にアーチボルトが剣の柄を握った。ルドヴィカの背後から聞こえたその音に、思わず振り返りそうになる。
だがルドヴィカは、子猿呼ばわりされたことは全く気にしていなかった。
自分が美人でないことは知っている。パーツがちょっと素朴なだけだ。それでもマクシミリアンは言ってくれた。
「君が私を見上げると、胸が温かになる」
あれはいつだったか、まだ婚約したばかりの頃だと思う。王都の庭園をマクシミリアンにエスコートされて歩いていたときに、ぶわりと風が吹き抜けた。
その頃はまだ髪を降ろしていたから、風に舞い上がる髪が空まで伸びて、ルドヴィカはそれが面白くて笑ってしまった。
「マクシミリアン様、見て?髪が立ち上がっているわ」
そう言って見上げたマクシミリアンは、ルドヴィカを見つめて先ほどの言葉を言ったのだ。
甘やかな記憶を思い出して、ルドヴィカは鋼のメンタルを取り戻した。お前に子猿呼ばわりされても、へっちゃらである。
そんなことより、ルドヴィカが引っ掛かったのはそこではない。
『貴様、んっん、貴方、どこで私を見たというの?教会で会ったのが初めてではないのでしょう?でも私は貴方を知らないわ』
ルドヴィカが、南の大国の人間に会ったことは、これまで一度だけだった。隣国王太子の婚姻式で挨拶を交わした王太子と妹姫、その一度きりである。
『貴様、あの時の護衛騎士か』
そこで言葉を発したのは、アーチボルトだった。その言葉にルドヴィカも記憶を辿った。
ルドヴィカとマクシミリアンにはアーチボルトが護衛として就いていた。そしてあの場、王太子たちと挨拶を交わしたあの時には、背後に護衛騎士がいた。
褐色の肌に亜麻色の髪を背中に結わえて、騎士の正装である帽子を目深に被り、琥珀色の瞳は隠れていた。
『貴方、あの時の護衛……』
言われてみればそれも当然のことで、こちらも第二王子であり軍部の参謀であるアーチボルトを護衛に連れていた。ラィードも、同じような立場にある。
隣国の婚礼の場で、ルドヴィカはすでにラィードと出会っていた。
『別に君が子猿に似ていたから気に入ったわけではない』
可愛いと言ったわりに、散々な言いようである。
だが、マクシミリアンの言葉を疑わないルドヴィカは鋼のメンタルであるから傷つかない。
『その子猿になんの御用?』
ふんっ、と顎が上がっていた。
『君、そんな無害な顔をして、あんなことをするからさ、ククク』
あろうことかラィードは、ルドヴィカを見ながら三度笑い声を漏らした。見えないはずなのに、背後でアーチボルトが気の毒そうにする様子が見えた気がした。
『あの時、会場に鼠が紛れ込んだ。正真正銘、屋敷鼠だ。慌ただしい婚礼会場で、人々が出入りする隙から入り込んだんだろうな』
ああ、とルドヴィカは思い出した。
それほど大きな鼠ではなかった。だが、あれをご婦人が目にしたら、忽ち悲鳴があがっただろう。各国の王族や要人たちが集う祝儀の場に、ご婦人たちの悲鳴が伝播することになりかねない。
遠目に鼠を見つけて、ルドヴィカはどうしたものかと思っていた。せめて、壁伝いに会場から出ていってくれればよい。
そう思って見ていた鼠は、そこで身を起こして辺りを確かめた。
そうそう、そこで周りを確かめたら、さっさと外へ出て行きなさい。ルドヴィカの送った想念は、どうやら鼠に通じたらしい。
鼠は立ち上がったままルドヴィカを見つけて、二人は一瞬、見つめ合った。
あの時、鼠は一体なにを考えていたのだろう。なにも考えていなかったのだろう。
奴は床に前足をつくと、真っ直ぐこちらに向かって走りだした。
人々の靴の間をするする通り抜けて、まるでルドヴィカをチーズか何かと思うように、確かな意志をもって駆けてきた。
ルドヴィカは思わずマクシミリアンの腕に掛けた手をぎゅっと握った。マクシミリアンはそれで、突進してくる鼠に気づき、同じくアーチボルトも気がついた。
小さな鼠が疾風のようにやって来る。ルドヴィカ目指して駆けてくる。
とうとう鼠と目が合うほどに距離が縮まったその時に、ルドヴィカはマクシミリアンの腕から手を離した。
ドレスの裾を両手で持ち上げた。
それから右足を後ろに浮かせた時には、もう鼠は目の前まで来ていた。
ルドヴィカはそこで右足を振り下ろすと、鼠をポーンと蹴り返した。
憐れな鼠は低い軌道を描いて向こう側に飛ばされた。一瞬なにが起こったかわからないようだった。だが、危険人物ルドヴィカから退避することを第一目標に選んだらしく、壁際に向かって一目散に逃げていった。幸い、歓談する招待客の目に触れることはなかった。
その後、彼(鼠)がどうなったかは、ルドヴィカは知らない。
『君ってさ、それからなんにもしていないような顔をして、夫君の腕に手を掛けたよね。あの澄ました顔が、クク、ああ思い出してしまったじゃないか』
鼠をすっ飛ばしたルドヴィカを、ラィードは目撃したようだった。その後、南の大国の王太子たちに挨拶をしたルドヴィカを、どうやら彼は笑いを堪えて見ていたらしい。
『き、貴様、し、失敬だぞ。義姉上はあの場の混乱を予期して、ふっ、あんなことを』
アーチボルトがフォローに回ったが、彼自身も笑ってしまったから、全然フォローになっていなかった。
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