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【1】
胸元に交差する腕をそっと掴む。
掌から余る逞しい腕は自分のそれとは全く異なって、とてもではないが片手で持ち上げる事など出来ない。
もう片方の手を添えて、両手で静かに持ち上げようとしても、囲み込む重みはどうにも動かす事はどうしても出来なかった。
どうしよう。起こしてしまうわ。
クリスティナは暫し逡巡してから、もう一度動かせないか試みるも、益々重さを増した様にびくともしない腕にクリスティナの方が疲れてしまった。
クリスティナは意を決して言葉を発した。
「ローレン様」
男の瞼がふるりと僅かに震える。
「ローレン様、申し訳ございません。」
二言目で漸く意識が浮上したらい男が、ううんと小さく唸って、それから薄く瞼を開いた。
「起こしてしまい申し訳ございません。出ても宜しいでしょうか。」
出来るだけ声を抑えている為か、殆ど溜息の様な囁き声となってしまう。
クリスティナを自身の腕が拘束しているのに気付いたらしい男が、ああと小さく言ってからその腕を緩めた。
「申し訳ございません。」
背中に感じていた熱が離れる。そちらを振り返ること無く、クリスティナは小さく詫びて寝台を出た。
身体に掛けられていた薄い毛布が絡み付いて、少しもたついてしまった。
どうにかそれからも逃れて、漸く自由になった身体を滑らす様に床まで降りた。
落ちていた衣類を拾って纏う。下着はポケットにねじ込んだ。ここで履いている時間も無ければ、そんな姿を晒したくもない。
お仕着せのロングワンピースを頭から被り、最低限肌が見えない程度にボタンを止めて、あとは後ろを振り返らずに扉まで歩く。
部屋を出て扉を閉める隙間から、一瞬男と目が合った様に思ったが、視線を合わせていないのでそれも定かでは無い。
どうやら未だ夜は明けていないらしい。
小夜啼鳥の鳴き声が聴こえているから、夜明けまでには間がある様だ。
「良かった」
小さな呟きを思わず漏らして、いけないと周りを見回す。
紙一枚落ちても響くのではないかと思うほど、辺りは夜の闇に静まり返っている。
それからクリスティナは、足音を立てぬように靴を脱ぎ、それを片手に裸足のまま部屋まで戻った。
クリスティナはルース子爵家の二番目の娘として生を受けた。
兄が一人、姉が一人いる。
ルース子爵家は何代か前に領地を手放し、今は爵位があるだけの貴族で、父も兄も王城に出仕し文官として禄を得ている。二人の禄のお蔭で暮らしぶりに不足はない。
クリスティナの三つ年上の姉は、同じ子爵家の嫡男の下に嫁いでいて、既に子を儲けている。
その姉よりも更に一つ年上である兄は、婚約者も得ておらず、未だ独身を貫いている。
後継についても、姉の二番目の子を養子に貰えたら爵位を譲れる、それくらいに考えている様であった。
クリスティナも四年前に学園を卒業してからは、父や兄と同じ様に王城に出仕していた。文官ではなく侍女として勤めている。
クリスティナは、王国の第二王女であるテレーゼ王女殿下に仕えていた。
王族に仕えられるのは名誉な事であるからと、父も兄もそれを誇りに勤めに励みなさいと常よりクリスティナに言うのであった。
侍女の朝は早い。
交代の勤務ではあるが、早番の時には東の空が薄桃色に染まる頃には勤めが始まる。
朝が早いのは、クリスティナは苦ではなかった。
貴族令嬢の朝は大抵ゆっくりとしているものだが、学園時代も高位貴族の子女達よりも早く登校せねばならなかったし、元よりクリスティナは眠りが浅く短くて、夜どんなに遅く床に入っても早朝には自然と目が覚める。
だから今夜の様に明けの鳥よりも早く目覚められる自分の体質に、クリスティナは感謝するのであった。
クリスティナは王城に部屋を与えられている。王女付きであるからか詳しい事は分からないが、一人部屋を与えられていて本当に助かった。
でなければ、こんな夜更けに部屋に戻るなんて事は許されないだろう。
部屋に戻ってお仕着せを脱げば、男の香りが微かに薫って鼻腔を擽った。
ローレンの香り。
深い森を思わせる僅かに麝香の混ざった官能的な香りは、数刻前の交わりを思い出させる。
前回会ったのはいつであったか。
もうお止め下さいと願っても、男は執拗であった。こんな逢瀬の相手は自分だけではないだろうから、一人一人にあれだけしつこく絡むのだとしたら、彼の体力は底なしなのだろう。
ローレンと身体を合わせるのはこれが初めてではない。
クリスティナの初めての相手は間違いなくローレンであり、男が思い出した頃に呼ばれて戯れに交わるのであった。
ローレンはクリスティナの恋人ではない。
勿論、婚約を交わしている間柄でもない。
二人の間に愛は無く、ローレンには戯れる相手が他にもいて、クリスティナは玩具の様に欲の捌け口になっている。ただそれだけの関係なのだ。
いつからなのかというと、まだ王城に出仕する前、学園に通っていた頃まで遡る。
学生のクリスティナの固い身体を割ったのはローレンで、彼は同じ学園に通う同じ学年の学生であった。
掌から余る逞しい腕は自分のそれとは全く異なって、とてもではないが片手で持ち上げる事など出来ない。
もう片方の手を添えて、両手で静かに持ち上げようとしても、囲み込む重みはどうにも動かす事はどうしても出来なかった。
どうしよう。起こしてしまうわ。
クリスティナは暫し逡巡してから、もう一度動かせないか試みるも、益々重さを増した様にびくともしない腕にクリスティナの方が疲れてしまった。
クリスティナは意を決して言葉を発した。
「ローレン様」
男の瞼がふるりと僅かに震える。
「ローレン様、申し訳ございません。」
二言目で漸く意識が浮上したらい男が、ううんと小さく唸って、それから薄く瞼を開いた。
「起こしてしまい申し訳ございません。出ても宜しいでしょうか。」
出来るだけ声を抑えている為か、殆ど溜息の様な囁き声となってしまう。
クリスティナを自身の腕が拘束しているのに気付いたらしい男が、ああと小さく言ってからその腕を緩めた。
「申し訳ございません。」
背中に感じていた熱が離れる。そちらを振り返ること無く、クリスティナは小さく詫びて寝台を出た。
身体に掛けられていた薄い毛布が絡み付いて、少しもたついてしまった。
どうにかそれからも逃れて、漸く自由になった身体を滑らす様に床まで降りた。
落ちていた衣類を拾って纏う。下着はポケットにねじ込んだ。ここで履いている時間も無ければ、そんな姿を晒したくもない。
お仕着せのロングワンピースを頭から被り、最低限肌が見えない程度にボタンを止めて、あとは後ろを振り返らずに扉まで歩く。
部屋を出て扉を閉める隙間から、一瞬男と目が合った様に思ったが、視線を合わせていないのでそれも定かでは無い。
どうやら未だ夜は明けていないらしい。
小夜啼鳥の鳴き声が聴こえているから、夜明けまでには間がある様だ。
「良かった」
小さな呟きを思わず漏らして、いけないと周りを見回す。
紙一枚落ちても響くのではないかと思うほど、辺りは夜の闇に静まり返っている。
それからクリスティナは、足音を立てぬように靴を脱ぎ、それを片手に裸足のまま部屋まで戻った。
クリスティナはルース子爵家の二番目の娘として生を受けた。
兄が一人、姉が一人いる。
ルース子爵家は何代か前に領地を手放し、今は爵位があるだけの貴族で、父も兄も王城に出仕し文官として禄を得ている。二人の禄のお蔭で暮らしぶりに不足はない。
クリスティナの三つ年上の姉は、同じ子爵家の嫡男の下に嫁いでいて、既に子を儲けている。
その姉よりも更に一つ年上である兄は、婚約者も得ておらず、未だ独身を貫いている。
後継についても、姉の二番目の子を養子に貰えたら爵位を譲れる、それくらいに考えている様であった。
クリスティナも四年前に学園を卒業してからは、父や兄と同じ様に王城に出仕していた。文官ではなく侍女として勤めている。
クリスティナは、王国の第二王女であるテレーゼ王女殿下に仕えていた。
王族に仕えられるのは名誉な事であるからと、父も兄もそれを誇りに勤めに励みなさいと常よりクリスティナに言うのであった。
侍女の朝は早い。
交代の勤務ではあるが、早番の時には東の空が薄桃色に染まる頃には勤めが始まる。
朝が早いのは、クリスティナは苦ではなかった。
貴族令嬢の朝は大抵ゆっくりとしているものだが、学園時代も高位貴族の子女達よりも早く登校せねばならなかったし、元よりクリスティナは眠りが浅く短くて、夜どんなに遅く床に入っても早朝には自然と目が覚める。
だから今夜の様に明けの鳥よりも早く目覚められる自分の体質に、クリスティナは感謝するのであった。
クリスティナは王城に部屋を与えられている。王女付きであるからか詳しい事は分からないが、一人部屋を与えられていて本当に助かった。
でなければ、こんな夜更けに部屋に戻るなんて事は許されないだろう。
部屋に戻ってお仕着せを脱げば、男の香りが微かに薫って鼻腔を擽った。
ローレンの香り。
深い森を思わせる僅かに麝香の混ざった官能的な香りは、数刻前の交わりを思い出させる。
前回会ったのはいつであったか。
もうお止め下さいと願っても、男は執拗であった。こんな逢瀬の相手は自分だけではないだろうから、一人一人にあれだけしつこく絡むのだとしたら、彼の体力は底なしなのだろう。
ローレンと身体を合わせるのはこれが初めてではない。
クリスティナの初めての相手は間違いなくローレンであり、男が思い出した頃に呼ばれて戯れに交わるのであった。
ローレンはクリスティナの恋人ではない。
勿論、婚約を交わしている間柄でもない。
二人の間に愛は無く、ローレンには戯れる相手が他にもいて、クリスティナは玩具の様に欲の捌け口になっている。ただそれだけの関係なのだ。
いつからなのかというと、まだ王城に出仕する前、学園に通っていた頃まで遡る。
学生のクリスティナの固い身体を割ったのはローレンで、彼は同じ学園に通う同じ学年の学生であった。
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