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第1章:ワルシャワの記憶
しおりを挟むここはアイドル事務所スターエンターテイメントの練習室。
僕は窓際のグランドピアノに腰掛け、鍵盤に向き合っていた。窓から差し込む柔らかな木漏れ日が、若葉を通して影を落とす。
小さな部屋の中央に置かれたこのピアノは、少し古びてはいるが、艶やかで漆黒の表面に光を反射し、まるで生きているかのように輝く。窓からそよ風が吹き、レースのカーテンが揺れている。僕の指先はショパンのノクターン第3番 ロ長調の旋律を奏で始めた。
この曲を弾くとき、いつもワルシャワの風景が鮮やかに蘇る。
僕の名前は水沢玲音。英語で「雨」を意味する「レイン」という名だ。芸術高校ピアノ科の三年生。日本人だけど、ワルシャワ生まれ。両親が音楽家で、子供の頃からクラシックに囲まれて育った。父は現代音楽の作曲家、母はコンサートピアニスト。ポーランドの地で、家はいつも音符と和音で満ちていた。
鍵盤を押さえる指先に力を込めると、ショパンの調べが練習室に満ちていく。閉じた瞼の裏に、幼い頃の記憶が映し出される。ワルシャワの冬の朝、窓から見える旧市街の尖塔に降り積もる雪。暖炉の温もりと、母のピアノの音色が満ちた小さなアパートメント。
物心ついた時から、ショパンの音楽が身近に溢れていた事もあり、僕はショパンンの音楽が大好きだ。東欧らしさを感じる、もの悲しさ、センチメンタルな音、胸に突き刺さる繊細な旋律は、僕をピアノの魅力に取りつかせた理由だろう。
僕が五歳になる頃には、ショパン音楽アカデミーの付属音楽学校に入学していた。「絶対音感」と呼ばれる能力が僕にはあったらしい。どんな音も一度聴けば再現でき、曲の構造を直感的に理解できる。先生たちは僕のことを「奇跡の子」と呼び、特別なレッスンを施してくれた。
十歳の冬、国際ジュニアピアノコンクールに出場したあの日。会場は大きな拍手に包まれ、母は舞台袖で涙を拭いていた。父は誇らしげな笑顔で、「レインは音楽の神に愛されている」と言った。僕はただ、ピアノを弾くことが楽しかっただけなのに。
感情が高ぶり指に力が入りすぎて、音色が一瞬鋭くなる。窓の外を見ると、グレーの雲が広がり、白夜のようだ。昼間なのに太陽が昇らない空。
十六歳で日本へ戻り、今はスターエンターテイメントの練習生として二年目。かつてワルシャワで「次世代のショパン」と呼ばれた少年が、今は東京でアイドルを目指している。親たちはどう思っているのだろう。きっと失望しているに違いない。そう思っても、自分の夢を諦める勇気は持てなかった。
あの転機は十三歳の夏、音楽研修でプラハに行った時、突然訪れた。カレル橋を歩いていたあの朝、霧に包まれたヴルタヴァ川の上で、僕の人生を変える決意が芽生えた。
前夜にホテルのテレビで偶然流れたK-POPのパフォーマンスが心を揺さぶり、「僕はアイドルになるんだ」という思いが生まれる。クラシックの伝統と現代的な表現の融合—それを自分の音楽で実現したいという強い願いが、あの朝の霧の中で形になったのだ。
その決意を胸に、僕は両親との激しい口論の末、単身日本へ渡った。ショパン音楽アカデミーの奨学金を返上し、ピアノ科のある芸術高校に入学。そして今、事前オーディションに合格していた、スターエンターテイメントの練習生として事務所に所属し、デビューの夢を追いかけている。
ショパンの調べが最後の小節を迎え、優しく消えていく。指を鍵盤から離し、深いため息をつく。窓の外は、さっきより雲が増していた。
雨が好きだ。僕の名前だからじゃない。雨粒が地面や窓を叩く音は、世界で一番美しい音だ。
窓の外、急に空が漆黒に染まり、雨粒がガラスを叩き始める。慌てて窓を閉めようと立ち上がると、不思議な感覚が背中を走った。雨の音が、僕の奏でたショパンの旋律と同じリズムで降っているように聞こえる。そんなはずはないのに。
不思議なことに、ここ最近、こういった「偶然の一致」が増えている気がする。特にレオと一緒にいる時だ。二人でカフェでメニューを見ながら、同時に同じ料理を指さしたり。
音楽の話をしていて、頭の中で考えていた曲名を彼が口にしたり。いつも同じ考えを持っているんじゃないかと錯覚する。頭の中が繋がっている?そんな訳ないのに。
それに、彼と接するたびに感じる、あの奇妙な感覚。まるで昔から知っているかのような懐かしさ。二年前からしか知らないはずなのに、初めて会った時から抱いていた、説明のつかない引力。
窓を閉めて、窓枠に両肘をつき、雨景色を眺めていると、ふと雨に話しかけたくなった。
「雨はキレイだから好きだな。僕はレインだしね。雨音は心を落ち着かせてくれる魔法の音だよ」
そう心の中で呟いていると、軽いノックの音が聞こえた。
「レイン、いる?」
聞き慣れた声に、振り返る。
「レオ?」
ドアが開き、すらりとした長身の青年が顔を覗かせた。風間玲央、レオだ。芸術大学二年の舞踏科に通い、僕と同じくスターエンタの練習生。二年目の仲間。僕より2つ年上で、公開練習生の彼は高校時代からすでに小さなファン層を持っていた。
彼のダンスはアイドルのレベルを超え、プロのダンサーでも通用する技術を持っている。それに、容姿もデビュー済みのアイドルと並んでも見劣りしないだろう。高校内にファンクラブがあるほどで、他校にも支部があったと記憶している。
「やっぱりここにいたか。自主練、行こう」
レオは優しく微笑んだ。その甘い笑顔に、僕の鼓動が少しだけ速くなる。
「レオ~誘いに来てくれたの?ありがとう」
窓から離れ、彼に向き直る。レオは僕より頭1つ背が高く、手足が長い。彼のダンスは本当に凄い。まるで躍るために生まれてきたような才能の持ち主で、踊っている姿は天から舞い降りた存在のようだ。
練習生の月末評価ではいつも一位を取り、デビューに最も近い練習生だと言われている。非公開練習生の僕とは違い、彼はすでに多くのファンを持ち、マスター(専属のカメラマン)までいるほどの人気者だ。
彼の姿を確認して、ふと気づく。今日も僕たちはライトブルーの似た色のパーカーを着ている。示し合わせたわけでもないのに、よく服が被るから、この不思議な一致は、練習生たちの間でも話題になっていた。
「外、雨降ってきたね」レオが窓の方に視線を向ける。
「うん。綺麗な音が聞こえるんだ。今日の雨の音、特別綺麗だと思わない?」
レオは小さく頷く。彼の横顔を見つめていると、胸の奥で名もなき感情の花が開いていく。
「レインと雨か。運命みたいだな。お前の音、今日も綺麗だよ」
「えっ、運命……なのかな?」その言葉にときめく。雨はスコールのように強く窓を叩き、その音が部屋中に響く。
いつも僕のピアノを褒めてくれるレオ。その言葉を聞くたびに、心臓が暴れ出す。僕が求める言葉を不思議と投げかけてくれる。彼の言葉こそが魔法なのに、本人はそれに気づいていないのだろう。
彼は自分がどれほど魅力的か、まったく自覚していない。その美しく整った顔も身体にも無頓着で、ストレートに僕を褒める言葉も……飾り気のない性格も……。
「ね、レイン。自主練の後、何か予定ある?」
レオが僕に近づき、ふと尋ねた。彼の体温が近くに感じられて、僕の頬が熱くなる。
「え?ない、けど...どうして?」
僕は視線を彼から逸らした。彼と目が合うと、落ち着かなくなるから。
「今日、リリースされたばかりのアルバムがあってさ。一緒に聴きたいなって」
彼の声は少し低く、ためらいがちだった。
「俺の部屋で……」
僕は思わず彼の目を見た。レオの瞳には、いつもとは違う何かが浮かんでいるように見えた。それは何か分からないけど……。たまに見せる遠くを見ている視線。彼は何を考えているんだろう?僕には掴めないんだ。
「うん、行きたい」
僕は即答した。鼓動が早まる。レオと二人きりで過ごす時間。それは練習室で踊るのとはまったく違う。何度か彼の部屋に呼んでもらった事があるけど、いつも少しずつだけど、彼に近づけている気がするんだ。
僕はレオに憧れている。紛れもない事実だ。アイドルとしても、人としても。それが恋愛感情かどうかは、考えないようにしている。アイドル練習生には持ってはいけない感情だ……。僕たちは恋よりも夢を叶えるために、ここにいるはずなのだから。
でも、時々彼の近くにいると、制御できない感情が湧き上がる。危険だ。彼の手が偶然触れただけで、体温が上がり、気持ちは舞い上がる。彼の目を見つめると、まるで魂が磁石のように引き寄せられる。これは純粋な憧れなのか、それとも……持ってはいけない感情なのか。
「さあ、行こう。皆もう集まってるぞ」
レオの言葉で我に返り、ピアノの蓋を閉めた。彼が差し出した手を見つめ、一瞬ためらった後、その手を取る。彼の手のひらは僕よりも大きく、少し粗い。ダンスで鍛えられた手だ。
「うん、行こう!」
僕が立ち上がると、レオが突然僕の前髪に触れる。
「寝ぐせついてるぞ」
優しい笑みを浮かべ、ささっと直してくれた。その指が僕の額に軽く触れた瞬間、電流が走る。
「鏡みてないだろ?」
彼はそう言って僕の顔を覗き込む。近すぎる。彼の美しい顔が至近距離に迫る。美の暴力だ。僕は息を止めて硬直する。
「あ、ありがとう...」
僕は声が震えないよう必死だった。
練習室を出て、廊下を歩き始めた。レオと肩が触れ合うたびに、血流が熱を帯びる。彼の香りが風に乗って僕の鼻をくすぐる。森のような香り。爽やかで、でもどこか甘い。
「ねえ、レイン」
歩きながらレオが言った。
「夢、叶うかな?」
「夢?」
「俺たち、絶対デビューできると思うんだ。特にレインは」
レオが真剣な表情で僕を見つめる。
「レインのピアノを聴いてると、何かに導かれるような、素敵な場所に連れて行ってくれるような気分になる。レインの音は、水みたいだ。澄んでいて、透明で時に荒々しく、時に甘いホットミルクのように温かくて...どこまでも深い海底のような時も」
その言葉に心臓が甘く溶かされる……。僕はレオの踊りにそれを感じていた。様々な表情を持ち、風のように自由で、天使の羽のように空を軽やかに飛び、どこまでも高く舞い上がる。誰にも止められない解放感。
「レオの踊りも、そう感じるよ」
勇気を出して言った。
「風みたいだ。見てると、僕も一緒に自由に舞えるのかも?なんて思っちゃうんだ」
レオは立ち止まり、僕の目を注意深く見つめた。廊下には誰もいない。窓にぶつかる雨音だけが静寂の中で音を奏でる。
「俺たちって、なんか特別なのかも」
彼はそう言って、僕の肩に手を置く。その手の温もりが、僕の身体に伝わっていく。
「一緒にいると、何か不思議な事が起こるんだ。説明できないけど...」
彼の言葉が途切れた瞬間、どこからか練習生の話声が聞こえてきた。二人は我に返ったように少し離れる。
「急ごう、遅れちゃう」
僕は慌てて言った。でも心の中では、あのまま時間が止まったらどうなっていたのかな?と考えていた。
廊下を歩きながら、僕は窓の外を見た。雨は少し弱まりつつあるが、まだ降り続けている。雨音に癒されながら、次はどんな曲を練習しようかと思案する振りをしていた。でも実際は、レオのことばかりが頭を占領する。
彼と並んで歩く今、この瞬間が愛おしい。レオの隣に立っているだけで、自分が特別な存在になれたような気がして。まるで二人だけの世界が存在するかのように。
今夜、彼の部屋で音楽を聴く約束。また、レオの新しい一面を見られるのだろうか?年下だから優しくしてくれているだけかもしれない。僕に特別な感情はないのかもしれない。僕の気持ちはともかく……。
アイドルになるという夢と、レオへの感情。2つを同時に抱えることはできるのだろうか。不器用な僕には難しいだろう。この想いは心の奥に閉まってある小さな箱に閉じ込めておこう。
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