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第1話 窓辺の魔術師と黒猫の契約
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午後の陽光が薄汚れたカーテンを透かして、古びた部屋に弱々しい光を投げ入れていた。埃の粒子がゆっくりと舞い、棚に積まれた分厚い本の背表紙に刻まれた金文字がかすかに輝いている。この部屋の主である青年、橘悠真は窓辺に腰掛け、外を行き交う人々をぼんやりと眺めていた。今日でちょうど失業して三ヶ月。貯金は底をつき、大家からの催促も日に日に厳しくなっていた。
「……もうだめか」
彼が呟くと、背後でガサガサという音がした。振り向くと、一匹の黒猫が本棚の上からこっちを見下ろしている。目は琥珀色で、妙に知性的な光を宿していた。
「お前、いつからいたんだ?」
悠真が問いかけても、黒猫は無反応。ただじっとこちらの様子を窺っている。そのとき、ドアが激しく叩かれた。
「橘さん!今月の家賃はどうなってるんです!約束でしたでしょう!」
大家の婆さんの声だ。悠真は息を殺し、ドアのほうを見つめた。しばらくして、ぶつぶつ文句を言いながら足音が遠ざかっていくのを確認すると、ほっと肩の力を抜いた。
「まずいな……本当に追い出される」
その瞬間、黒猫が軽く鳴いた。ふと見ると、猫の前足の辺りに小さな羊皮紙の巻物が置かれている。さっきまであんなものなかったはずだ。
「何だこれ?」
悠真が近づき、巻物を手に取る。重厚な感じで、端には蝋で封がされている。封蝋には見たことのない紋章-月と星が絡み合ったような模様が刻印されていた。
好奇心に駆られて封を破ると、巻物がするりと広がった。そこには古代文字のようなものがびっしりと書き連ねられている。読めないはずなのに、なぜか意味が直接脳裏に響いてくるようだった。
『この巻物を見つけし者よ。汝に選択の機会を与えよう。平凡なる人生を続けるか、あるいは特別な力を得て新たな運命を歩むか』
悠真は目を疑った。悪戯だろうか。誰かが仕組んだ冗談に違いない。しかし、巻物の質感、文字から放たれる微かな光-どれも現実とは思えない。
「……特別な力、か」
彼はもう一度窓の外を見た。人々はそれぞれの目的に向かって歩き、誰一人として彼の窮状に気づかない。このまま何も変わらなければ、彼は確実に路頭に迷う。
「選ぶまでもない」
そう呟くと、巻物の文字がさらに輝きを増した。次の瞬間、新しい文章が浮かび上がってきた。
『汝の選択を認めよう。契約の証として、この場にいる守護者に触れるがよい』
守護者?悠真がきょとんとすると、本棚の上の黒猫がゆっくりと立ち上がり、しなやかに跳び降りて彼の足元に近づいた。そして、すりすりと体を擦り寄せてくる。
「まさか、お前が……」
ためらいながらも、悠真は黒猫の頭に手を伸ばした。毛並みは思ったより柔らかく、温かかった。すると、猫の額から微かな光が漏れ、それが彼の手のひらに吸い込まれるように流れ込んだ。
その瞬間、部屋中の本が一斉にページをめくり始めた。窓の外の景色が歪み、まるで水面に映った像が揺らぐようにゆがんでいく。風が吹き荒れ、窓ガラスが激しく震えた。
「な、何が起こってる!?」
床に描かれたような光の模様が浮かび上がり、部屋中を覆い尽くした。悠真は目を眩ませ、思わず目を閉じた。熱い、冷たい、重い、軽い-相反する感覚が同時に押し寄せ、彼の意識をかき乱す。
しばらくして、全ての音が消えた。
そっと目を開けると、そこは見知らぬ場所だった。
石造りの広間。高い天井からは色とりどりのステンドグラスを通した光が差し込み、床には複雑な幾何学模様が刻まれている。壁際には背の高い本棚がずらりと並び、そこには先ほどまでの部屋の本とは比べ物にならないほど古そうな分厚い書物が収められている。
「ここは……どこ?」
「我が塔の図書室だよ、契約者よ」
背後から声がした。振り向くと、長い灰色の外套をまとった老人が立っていた。白髪は肩まで伸び、顎ひげは胸元まで豊かに広がっている。しかし、その目は青年のように鋭く、知性に満ちていた。
「あなたは?」
「私はマーリン・アンブローズ。この星見の塔の主であり、七つの世界を旅する魔術師だ」老人は軽く杖を床に突きながら言った。「そして君は、橘悠真。失業中で家賃の滞納が三ヶ月、現在貯金残高は……ええと、1324円だったかな」
「なんでそんなこと知ってるんだ!」
「契約の際に少しだけ記憶を覗かせてもらったよ」マーリンは悪戯っぽく笑った。「失礼だったね。だが、君が絶望的な状況にいたことは確かだ。あのままでは確実に路頭に迷っていた」
悠真は言葉を失った。全てが現実だと認めざるを得なかった。あの巻物、黒猫、そしてこの場所-どれも作り物ではない。
「で、でも、なぜ僕が?特別な力なんて、一体何なんだ?」
マーリンはゆっくりと歩き出し、窓辺に立った。外を見下ろすと、そこには見たこともない街並みが広がっていた。尖塔が林立し、空には二つの月がかすかに浮かんでいる。
「この世界はアーケイディアと呼ばれる。魔法と科学が共存し、幾多の種族が暮らす大地だ」老人は振り返り、悠真を見つめた。「そして今、この世界は大きな危機に瀕している。闇が再び動き始め、均衡が崩れつつある」
「それは……僕と何の関係が?」
「関係がある」マーリンは真剣な表情で言った。「君は『門』を持っている。世界と世界を繋ぐ、稀有な資質の持ち主だ。その力は、この世界の危機を救う鍵となるかもしれない」
悠真は理解できない。昨日まで普通の、むしろ落ちこぼれの人生を送っていた自分が、突然異世界の救世主候補だなんて。
「冗談だろ?僕には何の力もない。特別なことなんて何も……」
言葉を切りかけたその時、図書室のドアが勢いよく開いた。息を切らせて駆け込んできたのは、銀髪の少女だった。尖った耳から、人間ではないことがわかる。彼女はマーリンを見つけると、慌てて報告し始めた。
「師匠!東の森で闇の気配が急増しています!結界が侵食され始めていて、このままでは村まで……」
少女はようやく悠真の存在に気づき、話を切った。緑色の瞳が警戒しながら彼を見つめている。
「あ、あれは?新しい弟子?」
「いや、レイラ。こちらは橘悠真。我らが新しい契約者だ」マーリンは二人を紹介した。「悠真、こちらはレイラ・ウィンドソング。エルフの血を引く、我が塔の一番弟子だ」
レイラは首を傾げた。「契約者?でも、この人、魔力がほとんど感じられませんが……」
「彼の力は別の形で現れる」マーリンは杖を軽く叩いた。「さて、緊急事態のようだな。悠真、君に最初の試練が訪れたよ」
「試練?いや、待ってくれ。僕は何も……」
「できるよ」マーリンは確信に満ちた声で言った。「君はすでに契約を交わした。その時点で、君の内側には力が目覚め始めている。あの黒猫-その名はシャドウ-は君の守護者だ。彼が導いてくれる」
そう言うと、マーリンはレイラに向き直った。「レイラ、君が悠真を東の森へ連れていきなさい。現状を確認し、必要なら初期対応を。私は他の場所の結界を確認してくる」
「え?でも師匠、この人が……」
「大丈夫だ」マーリンは微笑んだ。「彼には君がついている。そしてシャドウも」
その名を呼ばれ、さっきまでの黒猫がどこからともなく現れ、悠真の足元に座り込んだ。琥珀色の瞳が上から彼を見上げている。
レイラは少し不満そうだったが、師匠の命令には逆らえないと悟ったようだ。「……わかりました。でも、危険を感じたらすぐに退却しますからね」
マーリンがうなずくと、レイラは悠真の方に向き直った。「準備はいい?森までは少し距離があるから、馬車で向かうわ」
「馬車?」悠真はまだ状況についていけていなかった。
「そうよ。歩いて行く暇はないもの」レイラはそう言うと、悠真の腕を掴んで図書室から引っ張り出した。
廊下を進み、螺旋階段を下りていく。塔の中は外見以上に広く、何階建てなのか見当もつかない。ところどころで浮遊する光の玉が明かりを提供し、壁には古いタペストリーや奇怪な標本が飾られていた。
「あの、レイラさん……」
「レイラでいいわ」彼女は振り向かずに答えた。「エルフは長寿だから、見た目より年上かもしれないけどね」
「そ、そうなんだ……で、東の森って、どんなところなんだ?」
「塔から東に十里ほどのところにある古い森よ。昔から精霊が棲む聖域だったけど、最近になって闇の気配が漂い始めたの」レイラの声に警戒の色が濃くなった。「最初は小さな歪みだったけど、最近は急速に拡大している。今日の報告では、とうとう結界に亀裂が入り始めたらしい」
一階に降りると、そこは広い玄関ホールだった。大きなアーチ型の扉が外に通じており、その前には二頭立ての馬車が待機していた。馬と言っても、よく見ると角が生えている。鱗のような光沢を持つ皮膚に、目は知性的だった。
「こ、これが馬?」
「ユニコーンの亜種よ」レイラは説明しながら馬車に乗り込んだ。「魔力に敏感で、危険を察知すると素早く逃げるから、こういう任務には最適なの」
悠真もあとから乗り込む。車内は意外と広く、革張りのシートは柔らかく座り心地が良い。シャドウもすっと跳び乗り、悠真の隣に収まった。
レイラが手綱を握ると、馬車が滑るように動き出した。塔を出ると、広大な平原が広がっていた。遠くには山脈が連なり、空には見慣れない鳥が群れをなして飛んでいる。
「すごい……本当に別世界だ」
「あなたの世界とは随分違うでしょ?」レイラが横目で彼を見た。「マーリン師匠はときどき他の世界から人を連れてくるの。でも、契約者として選ばれるのは珍しいわ」
「マーリンって、そんなにすごい人なの?」
レイラは驚いたような顔をした。「あなた、本当に何も知らないのね。マーリン・アンブローズは、千年以上生きていると言われる大魔術師よ。七つの世界を渡り歩き、幾多の危機からこのアーケイディアを守ってきたの。星見の塔は世界の結節点にあって、ここから全ての世界の均衡を見守っているんだ」
悠真は圧倒された。そんな人物と契約してしまったのか。責任の重さに胃が痛み始めた。
「でも、なぜ僕なんだ?僕には何の取り柄もないのに」
「それは私にもわからない」レイラは真っ直ぐ前を見つめた。「でも、師匠が選んだ以上、あなたにはきっと何かあるはずよ。私たちが見抜けない何かを、師匠は見たんでしょう」
馬車は小道を進み、次第に森に近づいていった。空気が変わった。さっきまでの穏やかな風が、冷たく重たい空気に変わる。木々の緑もどこか濁って見え、葉の擦れる音が不気味に響く。
「森の入り口まであと少し」レイラの声が低くなる。「もう気配が感じられるわ。確かに何かが起きている」
馬車が止まると、二人は降りた。レイラは腰の短剣に手をやり、慎重に周囲を見渡した。
「私についてきて。勝手に動いたり、何かに触ったりしないで」
悠真はうなずき、シャドウを抱き上げた。黒猫は異常に大人しく、こちらが何かするのを待っているようだった。
森の中に入ると、気温がさらに下がった。まるで冷蔵庫の中にいるようだ。木々の間を抜ける光も弱々しく、所々で不自然な影が蠢いている。
「ここはおかしい」レイラが呟いた。「精霊の気配が完全に消えている。森が死んでいるのよ」
彼女が立ち止まり、地面に手を当てた。目を閉じて何かを感じ取ろうとしている。すると突然、彼女の顔色が変わった。
「下から何かが上がってくる!離れて!」
レイラが叫んだ瞬間、地面が裂けた。黒い煙のようなものが噴き出し、それが形を成し始める。ゆがんだ手足、無数の目、鋭い牙-見たこともない怪物が二人の前に出現した。
「闇の落とし子!」レイラが短剣を抜いた。「悠真、後ろに下がって!」
怪物が襲いかかる。レイラは軽やかに身をかわし、短剣を振るう。刃が怪物の体を切り裂くが、傷はすぐに黒い煙で塞がってしまう。
「物理攻撃じゃ効かないみたい……魔力を込めないと!」
レイラが短剣に呪文を唱え始めた。刃が淡い光を帯びる。しかし、その間に怪物は分裂し、三体になった。
「まずい、増殖するタイプだ!」
一体がレイラに向かい、残る二体が悠真の方に向かった。彼は凍りついたように動けない。怪物が迫る。腐敗したような臭いが鼻を突く。
その時、胸元が熱くなった。巻物を入れたポケットから光が漏れている。そして、シャドウが突然激しく鳴いた。
次の瞬間、悠真の視界が変わった。
全てがスローモーションのように見える。怪物の動きが予測できる。どこを攻撃すれば効くのか、本能でわかる。そして何より、世界が「糸」で編まれているのが見えた。
無数の光の糸が全てのものに繋がり、絡み合い、一つの巨大な織物を成している。怪物たちはその織物にできたほころび、歪みから生まれたものだと理解できた。
「修復しなければ……」
無意識に、悠真は手を伸ばした。怪物に繋がる歪んだ糸を掴み、引っ張る。すると、怪物が苦悶の叫びを上げた。体が不安定に揺らぎ、煙が薄れていく。
「できる……僕にもできる!」
勇気が湧いてきた。悠真はもう一つの怪物にも手を伸ばし、同じように歪んだ糸を整えようとした。
しかし、その瞬間、鋭い痛みが頭を貫いた。視界が揺らぎ、糸が見えなくなる。力を使いすぎたようだ。
「悠真!」
レイラの声が遠くに聞こえる。彼女は一つの怪物を倒し、残る一体に短剣を突き立てようとしていた。しかし、悠真が手を引いた怪物が再び形を成し始めていた。
「だめだ、まだ完全には……」
地面がさらに揺れる。また裂け目ができ、新たな怪物が現れようとしている。
「撤退するわ!」レイラが叫んだ。「もう数の不利は明らかよ!」
彼女が悠真の腕を掴み、引きずるように森の外へ走り出した。怪物たちは追ってくるが、森の縁で突然止まり、何かを恐れるようにうずくまった。
「結界がまだ完全には壊れていないから、これ以上は出てこられない」レイラは息を切らしながら説明した。「でも、あの亀裂が広がれば……」
二人は馬車まで戻り、急いで乗り込んだ。レイラが手綱を握ると、ユニコーンが全速力で走り出した。
塔に戻る道中、悠真は自分の手を見つめていた。あの光の糸はなんだったのか。あれが彼の力なのか。
「あの時、君は何をしたの?」レイラが尋ねた。「怪物が弱体化したのは明らかだったわ。君があれをやらなかったら、私たちは逃げられなかったかもしれない」
「僕もよくわからない」悠真は正直に答えた。「世界が糸で編まれているのが見えて、その歪みを直そうとしただけだ」
レイラの目が輝いた。「世界の織物……それはマーリン師匠がときどき口にする言葉よ。全ての存在が互いに繋がり、影響し合っているという考え方。あなたはそれを実際に見たのね」
塔が見えてきた。夕日に照らされ、塔は金色に輝いている。しかし、悠真にはその美しさよりも、重い責任の方が強く感じられた。
玄関ホールに戻ると、マーリンが待っていた。彼は二人の様子から全てを察したようだった。
「大変だったようだな」
「師匠、東の森の状況は予想以上に深刻です」レイラが報告を始めた。「闇の落とし子がすでに実体化しており、結界の亀裂から次々と現れます。悠真が一時的にそれを弱体化させましたが……」
「彼が力を発揮したのか」マーリンは満足そうにうなずいた。「よろしい。では契約は正しかったということだ」
「でも、僕にはあれを完全に倒す力はなかった」悠真は悔しそうに言った。「あと少しでまた元に戻ってしまった」
「当然だ」マーリンは穏やかに言った。「君はまだ訓練を受けていない。今日は力を目覚めさせただけでも大進歩だ。これから時間をかけて、君の能力を育てていく」
老人は二人を図書室に連れ戻した。窓の外には、二つの月が昇り始めている。
「レイラ、君は今日の報告を詳細に記録しておきなさい。悠真は私と少し話がある」
レイラがうなずき、別の部屋へ去っていった。マーリンは窓辺に立ち、月明かりに照らされながら語り始めた。
「君が見た『糸』は、世界の根源的な繋がりだ。普通の者には見えず、感じることすらできない。しかし『門』を持つ者だけが、それを認識し、操作することができる」
「操作?」
「そう。世界と世界を繋ぐ者、つまり君は、この糸を紡ぎ、ほつれを繕い、時には切ることもできる」マーリンの声は重々しかった。「それは強大な力であると同時に、計り知れない責任を伴う。間違った糸を引けば、世界の均衡が崩れ、取り返しのつかない結果を招くかもしれない」
悠真は息を飲んだ。自分がそんな力を秘めているなんて。
「なぜ僕が?どうしてそんな力が?」
「それは誰にもわからない」マーリンはゆっくりと振り向いた。「資質は偶然に与えられる。しかし、その資質をどう使うかは本人の選択だ。君は今日、危険にさらされている者を助けるために力を行使した。それは良い選択だった」
老人は近づき、悠真の肩に手を置いた。
「これから君はこの塔で学ぶことになる。魔法の基礎、世界の歴史、そして自分の力の制御法を。長く困難な道のりになるだろう。だが、私は君がやり遂げられると信じている」
悠真は考えた。元の世界に戻る選択肢はあるのか。たぶんあるだろう。でも、そこには何もない。失業、借金、孤独な部屋。一方ここには、不思議な力、学ぶべき知識、そして彼を必要としている世界がある。
「わかりました」悠真は覚悟を決めて言った。「ここに残ります。力を学びます」
マーリンの目が細くなり、微笑んだ。「よろしい。では明日から訓練を始めよう。今夜はゆっくり休むがいい。自分の部屋はレイラが案内してくれるはずだ」
その時、ドアがノックされ、レイラが顔を出した。「師匠、記録を終えました。それと、夕食の準備もできています」
「ありがとう、レイラ」マーリンが言った。「では悠真を客室に案内してくれるか。彼はこれからここで暮らすことになった」
レイラの目が少し驚いたが、すぐに理解したようにうなずいた。「そうですね。ではついてきて」
廊下を歩きながら、レイラが話しかけた。「覚悟は決めたのね」
「ああ。逃げてばかりじゃ何も変わらないから」
「それでいいわ」レイラは微笑んだ。「正直、最初はあなたが役に立つのか疑っていたけど、今日のことで考えが変わった。あなたには確かに何かがある」
彼女はあるドアの前で立ち止まった。「ここがあなたの部屋よ。必要なものは揃っているはず。何か足りないものがあったら言ってね」
ドアを開けると、意外と広い部屋だった。ベッド、机、本棚、そして小さな窓。元の世界のアパートよりずっと立派だ。
「ありがとう、レイラ」
「どういたしまして」彼女は少しためらってから言った。「それと……今日は助けてくれてありがとう。あなたがいてくれたから、無事に戻ってこれた」
そう言うと、レイラは去っていった。悠真は部屋に入り、ベッドに腰掛けた。シャドウがどこからともなく現れ、彼のひざの上に収まった。
「今日は本当にいろんなことがあったな」
窓の外には、二つの月が並んで輝いている。見慣れた月とは違うが、なぜか懐かしい気がした。これから始まる新しい生活への不安と期待が入り混じる。
彼はポケットからあの巻物を取り出した。もう文字は光っていないが、羊皮紙は微かな温もりを保っている。
「特別な力を得て新たな運命を歩むか」
彼はもう選択をしていた。これから先、どんな困難が待ち受けていようと、進むしかない。
遠くから、何かの鳴き声が風に乗って聞こえてきた。異世界の夜は、まだ始まったばかりだった。
(続く)
「……もうだめか」
彼が呟くと、背後でガサガサという音がした。振り向くと、一匹の黒猫が本棚の上からこっちを見下ろしている。目は琥珀色で、妙に知性的な光を宿していた。
「お前、いつからいたんだ?」
悠真が問いかけても、黒猫は無反応。ただじっとこちらの様子を窺っている。そのとき、ドアが激しく叩かれた。
「橘さん!今月の家賃はどうなってるんです!約束でしたでしょう!」
大家の婆さんの声だ。悠真は息を殺し、ドアのほうを見つめた。しばらくして、ぶつぶつ文句を言いながら足音が遠ざかっていくのを確認すると、ほっと肩の力を抜いた。
「まずいな……本当に追い出される」
その瞬間、黒猫が軽く鳴いた。ふと見ると、猫の前足の辺りに小さな羊皮紙の巻物が置かれている。さっきまであんなものなかったはずだ。
「何だこれ?」
悠真が近づき、巻物を手に取る。重厚な感じで、端には蝋で封がされている。封蝋には見たことのない紋章-月と星が絡み合ったような模様が刻印されていた。
好奇心に駆られて封を破ると、巻物がするりと広がった。そこには古代文字のようなものがびっしりと書き連ねられている。読めないはずなのに、なぜか意味が直接脳裏に響いてくるようだった。
『この巻物を見つけし者よ。汝に選択の機会を与えよう。平凡なる人生を続けるか、あるいは特別な力を得て新たな運命を歩むか』
悠真は目を疑った。悪戯だろうか。誰かが仕組んだ冗談に違いない。しかし、巻物の質感、文字から放たれる微かな光-どれも現実とは思えない。
「……特別な力、か」
彼はもう一度窓の外を見た。人々はそれぞれの目的に向かって歩き、誰一人として彼の窮状に気づかない。このまま何も変わらなければ、彼は確実に路頭に迷う。
「選ぶまでもない」
そう呟くと、巻物の文字がさらに輝きを増した。次の瞬間、新しい文章が浮かび上がってきた。
『汝の選択を認めよう。契約の証として、この場にいる守護者に触れるがよい』
守護者?悠真がきょとんとすると、本棚の上の黒猫がゆっくりと立ち上がり、しなやかに跳び降りて彼の足元に近づいた。そして、すりすりと体を擦り寄せてくる。
「まさか、お前が……」
ためらいながらも、悠真は黒猫の頭に手を伸ばした。毛並みは思ったより柔らかく、温かかった。すると、猫の額から微かな光が漏れ、それが彼の手のひらに吸い込まれるように流れ込んだ。
その瞬間、部屋中の本が一斉にページをめくり始めた。窓の外の景色が歪み、まるで水面に映った像が揺らぐようにゆがんでいく。風が吹き荒れ、窓ガラスが激しく震えた。
「な、何が起こってる!?」
床に描かれたような光の模様が浮かび上がり、部屋中を覆い尽くした。悠真は目を眩ませ、思わず目を閉じた。熱い、冷たい、重い、軽い-相反する感覚が同時に押し寄せ、彼の意識をかき乱す。
しばらくして、全ての音が消えた。
そっと目を開けると、そこは見知らぬ場所だった。
石造りの広間。高い天井からは色とりどりのステンドグラスを通した光が差し込み、床には複雑な幾何学模様が刻まれている。壁際には背の高い本棚がずらりと並び、そこには先ほどまでの部屋の本とは比べ物にならないほど古そうな分厚い書物が収められている。
「ここは……どこ?」
「我が塔の図書室だよ、契約者よ」
背後から声がした。振り向くと、長い灰色の外套をまとった老人が立っていた。白髪は肩まで伸び、顎ひげは胸元まで豊かに広がっている。しかし、その目は青年のように鋭く、知性に満ちていた。
「あなたは?」
「私はマーリン・アンブローズ。この星見の塔の主であり、七つの世界を旅する魔術師だ」老人は軽く杖を床に突きながら言った。「そして君は、橘悠真。失業中で家賃の滞納が三ヶ月、現在貯金残高は……ええと、1324円だったかな」
「なんでそんなこと知ってるんだ!」
「契約の際に少しだけ記憶を覗かせてもらったよ」マーリンは悪戯っぽく笑った。「失礼だったね。だが、君が絶望的な状況にいたことは確かだ。あのままでは確実に路頭に迷っていた」
悠真は言葉を失った。全てが現実だと認めざるを得なかった。あの巻物、黒猫、そしてこの場所-どれも作り物ではない。
「で、でも、なぜ僕が?特別な力なんて、一体何なんだ?」
マーリンはゆっくりと歩き出し、窓辺に立った。外を見下ろすと、そこには見たこともない街並みが広がっていた。尖塔が林立し、空には二つの月がかすかに浮かんでいる。
「この世界はアーケイディアと呼ばれる。魔法と科学が共存し、幾多の種族が暮らす大地だ」老人は振り返り、悠真を見つめた。「そして今、この世界は大きな危機に瀕している。闇が再び動き始め、均衡が崩れつつある」
「それは……僕と何の関係が?」
「関係がある」マーリンは真剣な表情で言った。「君は『門』を持っている。世界と世界を繋ぐ、稀有な資質の持ち主だ。その力は、この世界の危機を救う鍵となるかもしれない」
悠真は理解できない。昨日まで普通の、むしろ落ちこぼれの人生を送っていた自分が、突然異世界の救世主候補だなんて。
「冗談だろ?僕には何の力もない。特別なことなんて何も……」
言葉を切りかけたその時、図書室のドアが勢いよく開いた。息を切らせて駆け込んできたのは、銀髪の少女だった。尖った耳から、人間ではないことがわかる。彼女はマーリンを見つけると、慌てて報告し始めた。
「師匠!東の森で闇の気配が急増しています!結界が侵食され始めていて、このままでは村まで……」
少女はようやく悠真の存在に気づき、話を切った。緑色の瞳が警戒しながら彼を見つめている。
「あ、あれは?新しい弟子?」
「いや、レイラ。こちらは橘悠真。我らが新しい契約者だ」マーリンは二人を紹介した。「悠真、こちらはレイラ・ウィンドソング。エルフの血を引く、我が塔の一番弟子だ」
レイラは首を傾げた。「契約者?でも、この人、魔力がほとんど感じられませんが……」
「彼の力は別の形で現れる」マーリンは杖を軽く叩いた。「さて、緊急事態のようだな。悠真、君に最初の試練が訪れたよ」
「試練?いや、待ってくれ。僕は何も……」
「できるよ」マーリンは確信に満ちた声で言った。「君はすでに契約を交わした。その時点で、君の内側には力が目覚め始めている。あの黒猫-その名はシャドウ-は君の守護者だ。彼が導いてくれる」
そう言うと、マーリンはレイラに向き直った。「レイラ、君が悠真を東の森へ連れていきなさい。現状を確認し、必要なら初期対応を。私は他の場所の結界を確認してくる」
「え?でも師匠、この人が……」
「大丈夫だ」マーリンは微笑んだ。「彼には君がついている。そしてシャドウも」
その名を呼ばれ、さっきまでの黒猫がどこからともなく現れ、悠真の足元に座り込んだ。琥珀色の瞳が上から彼を見上げている。
レイラは少し不満そうだったが、師匠の命令には逆らえないと悟ったようだ。「……わかりました。でも、危険を感じたらすぐに退却しますからね」
マーリンがうなずくと、レイラは悠真の方に向き直った。「準備はいい?森までは少し距離があるから、馬車で向かうわ」
「馬車?」悠真はまだ状況についていけていなかった。
「そうよ。歩いて行く暇はないもの」レイラはそう言うと、悠真の腕を掴んで図書室から引っ張り出した。
廊下を進み、螺旋階段を下りていく。塔の中は外見以上に広く、何階建てなのか見当もつかない。ところどころで浮遊する光の玉が明かりを提供し、壁には古いタペストリーや奇怪な標本が飾られていた。
「あの、レイラさん……」
「レイラでいいわ」彼女は振り向かずに答えた。「エルフは長寿だから、見た目より年上かもしれないけどね」
「そ、そうなんだ……で、東の森って、どんなところなんだ?」
「塔から東に十里ほどのところにある古い森よ。昔から精霊が棲む聖域だったけど、最近になって闇の気配が漂い始めたの」レイラの声に警戒の色が濃くなった。「最初は小さな歪みだったけど、最近は急速に拡大している。今日の報告では、とうとう結界に亀裂が入り始めたらしい」
一階に降りると、そこは広い玄関ホールだった。大きなアーチ型の扉が外に通じており、その前には二頭立ての馬車が待機していた。馬と言っても、よく見ると角が生えている。鱗のような光沢を持つ皮膚に、目は知性的だった。
「こ、これが馬?」
「ユニコーンの亜種よ」レイラは説明しながら馬車に乗り込んだ。「魔力に敏感で、危険を察知すると素早く逃げるから、こういう任務には最適なの」
悠真もあとから乗り込む。車内は意外と広く、革張りのシートは柔らかく座り心地が良い。シャドウもすっと跳び乗り、悠真の隣に収まった。
レイラが手綱を握ると、馬車が滑るように動き出した。塔を出ると、広大な平原が広がっていた。遠くには山脈が連なり、空には見慣れない鳥が群れをなして飛んでいる。
「すごい……本当に別世界だ」
「あなたの世界とは随分違うでしょ?」レイラが横目で彼を見た。「マーリン師匠はときどき他の世界から人を連れてくるの。でも、契約者として選ばれるのは珍しいわ」
「マーリンって、そんなにすごい人なの?」
レイラは驚いたような顔をした。「あなた、本当に何も知らないのね。マーリン・アンブローズは、千年以上生きていると言われる大魔術師よ。七つの世界を渡り歩き、幾多の危機からこのアーケイディアを守ってきたの。星見の塔は世界の結節点にあって、ここから全ての世界の均衡を見守っているんだ」
悠真は圧倒された。そんな人物と契約してしまったのか。責任の重さに胃が痛み始めた。
「でも、なぜ僕なんだ?僕には何の取り柄もないのに」
「それは私にもわからない」レイラは真っ直ぐ前を見つめた。「でも、師匠が選んだ以上、あなたにはきっと何かあるはずよ。私たちが見抜けない何かを、師匠は見たんでしょう」
馬車は小道を進み、次第に森に近づいていった。空気が変わった。さっきまでの穏やかな風が、冷たく重たい空気に変わる。木々の緑もどこか濁って見え、葉の擦れる音が不気味に響く。
「森の入り口まであと少し」レイラの声が低くなる。「もう気配が感じられるわ。確かに何かが起きている」
馬車が止まると、二人は降りた。レイラは腰の短剣に手をやり、慎重に周囲を見渡した。
「私についてきて。勝手に動いたり、何かに触ったりしないで」
悠真はうなずき、シャドウを抱き上げた。黒猫は異常に大人しく、こちらが何かするのを待っているようだった。
森の中に入ると、気温がさらに下がった。まるで冷蔵庫の中にいるようだ。木々の間を抜ける光も弱々しく、所々で不自然な影が蠢いている。
「ここはおかしい」レイラが呟いた。「精霊の気配が完全に消えている。森が死んでいるのよ」
彼女が立ち止まり、地面に手を当てた。目を閉じて何かを感じ取ろうとしている。すると突然、彼女の顔色が変わった。
「下から何かが上がってくる!離れて!」
レイラが叫んだ瞬間、地面が裂けた。黒い煙のようなものが噴き出し、それが形を成し始める。ゆがんだ手足、無数の目、鋭い牙-見たこともない怪物が二人の前に出現した。
「闇の落とし子!」レイラが短剣を抜いた。「悠真、後ろに下がって!」
怪物が襲いかかる。レイラは軽やかに身をかわし、短剣を振るう。刃が怪物の体を切り裂くが、傷はすぐに黒い煙で塞がってしまう。
「物理攻撃じゃ効かないみたい……魔力を込めないと!」
レイラが短剣に呪文を唱え始めた。刃が淡い光を帯びる。しかし、その間に怪物は分裂し、三体になった。
「まずい、増殖するタイプだ!」
一体がレイラに向かい、残る二体が悠真の方に向かった。彼は凍りついたように動けない。怪物が迫る。腐敗したような臭いが鼻を突く。
その時、胸元が熱くなった。巻物を入れたポケットから光が漏れている。そして、シャドウが突然激しく鳴いた。
次の瞬間、悠真の視界が変わった。
全てがスローモーションのように見える。怪物の動きが予測できる。どこを攻撃すれば効くのか、本能でわかる。そして何より、世界が「糸」で編まれているのが見えた。
無数の光の糸が全てのものに繋がり、絡み合い、一つの巨大な織物を成している。怪物たちはその織物にできたほころび、歪みから生まれたものだと理解できた。
「修復しなければ……」
無意識に、悠真は手を伸ばした。怪物に繋がる歪んだ糸を掴み、引っ張る。すると、怪物が苦悶の叫びを上げた。体が不安定に揺らぎ、煙が薄れていく。
「できる……僕にもできる!」
勇気が湧いてきた。悠真はもう一つの怪物にも手を伸ばし、同じように歪んだ糸を整えようとした。
しかし、その瞬間、鋭い痛みが頭を貫いた。視界が揺らぎ、糸が見えなくなる。力を使いすぎたようだ。
「悠真!」
レイラの声が遠くに聞こえる。彼女は一つの怪物を倒し、残る一体に短剣を突き立てようとしていた。しかし、悠真が手を引いた怪物が再び形を成し始めていた。
「だめだ、まだ完全には……」
地面がさらに揺れる。また裂け目ができ、新たな怪物が現れようとしている。
「撤退するわ!」レイラが叫んだ。「もう数の不利は明らかよ!」
彼女が悠真の腕を掴み、引きずるように森の外へ走り出した。怪物たちは追ってくるが、森の縁で突然止まり、何かを恐れるようにうずくまった。
「結界がまだ完全には壊れていないから、これ以上は出てこられない」レイラは息を切らしながら説明した。「でも、あの亀裂が広がれば……」
二人は馬車まで戻り、急いで乗り込んだ。レイラが手綱を握ると、ユニコーンが全速力で走り出した。
塔に戻る道中、悠真は自分の手を見つめていた。あの光の糸はなんだったのか。あれが彼の力なのか。
「あの時、君は何をしたの?」レイラが尋ねた。「怪物が弱体化したのは明らかだったわ。君があれをやらなかったら、私たちは逃げられなかったかもしれない」
「僕もよくわからない」悠真は正直に答えた。「世界が糸で編まれているのが見えて、その歪みを直そうとしただけだ」
レイラの目が輝いた。「世界の織物……それはマーリン師匠がときどき口にする言葉よ。全ての存在が互いに繋がり、影響し合っているという考え方。あなたはそれを実際に見たのね」
塔が見えてきた。夕日に照らされ、塔は金色に輝いている。しかし、悠真にはその美しさよりも、重い責任の方が強く感じられた。
玄関ホールに戻ると、マーリンが待っていた。彼は二人の様子から全てを察したようだった。
「大変だったようだな」
「師匠、東の森の状況は予想以上に深刻です」レイラが報告を始めた。「闇の落とし子がすでに実体化しており、結界の亀裂から次々と現れます。悠真が一時的にそれを弱体化させましたが……」
「彼が力を発揮したのか」マーリンは満足そうにうなずいた。「よろしい。では契約は正しかったということだ」
「でも、僕にはあれを完全に倒す力はなかった」悠真は悔しそうに言った。「あと少しでまた元に戻ってしまった」
「当然だ」マーリンは穏やかに言った。「君はまだ訓練を受けていない。今日は力を目覚めさせただけでも大進歩だ。これから時間をかけて、君の能力を育てていく」
老人は二人を図書室に連れ戻した。窓の外には、二つの月が昇り始めている。
「レイラ、君は今日の報告を詳細に記録しておきなさい。悠真は私と少し話がある」
レイラがうなずき、別の部屋へ去っていった。マーリンは窓辺に立ち、月明かりに照らされながら語り始めた。
「君が見た『糸』は、世界の根源的な繋がりだ。普通の者には見えず、感じることすらできない。しかし『門』を持つ者だけが、それを認識し、操作することができる」
「操作?」
「そう。世界と世界を繋ぐ者、つまり君は、この糸を紡ぎ、ほつれを繕い、時には切ることもできる」マーリンの声は重々しかった。「それは強大な力であると同時に、計り知れない責任を伴う。間違った糸を引けば、世界の均衡が崩れ、取り返しのつかない結果を招くかもしれない」
悠真は息を飲んだ。自分がそんな力を秘めているなんて。
「なぜ僕が?どうしてそんな力が?」
「それは誰にもわからない」マーリンはゆっくりと振り向いた。「資質は偶然に与えられる。しかし、その資質をどう使うかは本人の選択だ。君は今日、危険にさらされている者を助けるために力を行使した。それは良い選択だった」
老人は近づき、悠真の肩に手を置いた。
「これから君はこの塔で学ぶことになる。魔法の基礎、世界の歴史、そして自分の力の制御法を。長く困難な道のりになるだろう。だが、私は君がやり遂げられると信じている」
悠真は考えた。元の世界に戻る選択肢はあるのか。たぶんあるだろう。でも、そこには何もない。失業、借金、孤独な部屋。一方ここには、不思議な力、学ぶべき知識、そして彼を必要としている世界がある。
「わかりました」悠真は覚悟を決めて言った。「ここに残ります。力を学びます」
マーリンの目が細くなり、微笑んだ。「よろしい。では明日から訓練を始めよう。今夜はゆっくり休むがいい。自分の部屋はレイラが案内してくれるはずだ」
その時、ドアがノックされ、レイラが顔を出した。「師匠、記録を終えました。それと、夕食の準備もできています」
「ありがとう、レイラ」マーリンが言った。「では悠真を客室に案内してくれるか。彼はこれからここで暮らすことになった」
レイラの目が少し驚いたが、すぐに理解したようにうなずいた。「そうですね。ではついてきて」
廊下を歩きながら、レイラが話しかけた。「覚悟は決めたのね」
「ああ。逃げてばかりじゃ何も変わらないから」
「それでいいわ」レイラは微笑んだ。「正直、最初はあなたが役に立つのか疑っていたけど、今日のことで考えが変わった。あなたには確かに何かがある」
彼女はあるドアの前で立ち止まった。「ここがあなたの部屋よ。必要なものは揃っているはず。何か足りないものがあったら言ってね」
ドアを開けると、意外と広い部屋だった。ベッド、机、本棚、そして小さな窓。元の世界のアパートよりずっと立派だ。
「ありがとう、レイラ」
「どういたしまして」彼女は少しためらってから言った。「それと……今日は助けてくれてありがとう。あなたがいてくれたから、無事に戻ってこれた」
そう言うと、レイラは去っていった。悠真は部屋に入り、ベッドに腰掛けた。シャドウがどこからともなく現れ、彼のひざの上に収まった。
「今日は本当にいろんなことがあったな」
窓の外には、二つの月が並んで輝いている。見慣れた月とは違うが、なぜか懐かしい気がした。これから始まる新しい生活への不安と期待が入り混じる。
彼はポケットからあの巻物を取り出した。もう文字は光っていないが、羊皮紙は微かな温もりを保っている。
「特別な力を得て新たな運命を歩むか」
彼はもう選択をしていた。これから先、どんな困難が待ち受けていようと、進むしかない。
遠くから、何かの鳴き声が風に乗って聞こえてきた。異世界の夜は、まだ始まったばかりだった。
(続く)
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