パンでつながる街と魔法~下町ベーカリーと不器用な恋のスローライフ~

たまごころ

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第8話 「美味しい」って呪文みたいだ

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朝四時半。いつもより一時間早く目が覚めた。昨日の夜、地下室で見つけたパン神の祭壇と、金色に光る酵母のイメージが頭から離れなくて、ほとんど眠れなかった。  
天井を見つめながら、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。あの瞬間、祠の石板と父さんのノートの言葉が、全部一本の線で繋がった気がした。

「好きな味を焼け。街の光になれ」

父さんの字で書かれていた、あの走り書き。子どもの頃は、ただの格好つけた言葉だと思っていた。けれど今は、ほんの少しだけ、その意味が分かる気がする。

布団から起き上がり、顔を洗ってエプロンを身に着ける。階段を下り、一階の「ほしのベーカリー」に入ると、薄暗い店内には昨日の名残りのような、ほんのかすかな蜂蜜と小麦の匂いが残っていた。  
カウンターの端には、咲良が置いていった小さな花瓶。ピンクの花が一輪、まだ元気に咲いている。その隣には、ルミナが落としていった小さな羽根。光を受けて、うっすらと虹色にきらめいている。

「さて、と」

オーブンのスイッチを入れる。低い唸りとともに、中で火が育っていく音がする。  
昨日、地下から持ち帰った小さな瓶を、そっと棚の奥から取り出した。透明なガラスの中で、金色の酵母がゆっくりと泡を立てている。見ているだけで、胸の奥が温かくなるような、不思議な気配だった。

「おはよう、パン神様……ってとこか?」

誰もいない店内で、思わず独り言が漏れる。自分で言っておいて、少しだけ笑ってしまった。  
ステンレスのボウルに強力粉、砂糖、塩、バター、ぬるま湯。そこに、いつものドライイーストの代わりに、そっと金色の酵母をひとさじ。まるで、何かの儀式みたいだ。

手を突っ込んで、生地をこねる。最初はぽろぽろだった粉が、徐々にまとまり、すべすべした塊になっていく。  
いつもと同じはずの作業なのに、今日は指先から腕の奥まで、じんわりと熱が伝わってくる気がした。生地の方から、こちらに寄り添ってきているみたいな、そんな感覚。

「……なんだこれ」

思わず呟く。  
生地を持ち上げると、ほんのりと金色の光が混じって見えた。気のせいなのか、本当に光っているのか、自分でもよく分からない。けれど、鼻を近づけると、小麦と蜂蜜の香りに混じって、どこか懐かしい匂いがした。

それは、まだ父さんがこの店でパンを焼いていた頃、カウンターの下で丸くなってうとうとしていた俺の鼻を、ふわりとくすぐっていった、あの匂いだった。

「……父さん」

胸の奥が少しきゅっとなる。  
あの頃、父さんはいつも言っていた。

『パンはな、魔法みたいなもんだ。腹を満たすだけじゃなくて、心も満たす。だから、作る時はちゃんと“好きだ”って気持ち、入れてやれよ』

“好きだ”って気持ち。  
今なら、その意味が前よりずっと重く感じられる。

ふと、咲良の笑顔が頭に浮かんだ。  
花屋の前で、腕まくりをして水やりをしている姿。  
カウンター越しに、焼きたてのクロワッサンにかぶりついて「遥のパン、やっぱり一番好き」と笑った顔。  
昨日、地下室で抱きついてきた時の、少し震えていた手の感触。

――彼女が、今日も笑っていられるように。

そう願いながら、生地をもう一度、ぐっと押し込んだ。

発酵のためにボウルを温かい場所に置き、布をかぶせる。その時、小さなノック音が聞こえた。  
まだ開店時間にはだいぶ早い。誰だろうと思いながら扉を開けると、そこには、見慣れた顔が立っていた。

「……遥、おはよ」

早朝の薄明かりの中で、咲良が少しだけ眠そうな目をして笑った。髪はまだ軽く乱れていて、いつもの花屋のエプロンの代わりに、ゆったりとしたパーカーにジーンズという格好だ。  
そのラフな姿が、妙に新鮮に見えた。

「お前、こんな時間からどうしたんだよ。花屋は?」

「まだ閉まってるよ。仕入れの前に、ちょっとだけ寄り道」

咲良はそう言って、小さな紙袋を差し出してきた。  
中には、ラッピングされた小さな花束。白と黄色の小さな花が組み合わされている。

「昨日の、探検のお礼。あと……その、新しい酵母さんにご挨拶」

「酵母に花って、お前くらいだよ」

呆れたように言いながらも、胸の中がじんわり暖かくなるのを感じた。  
咲良は店の中をぐるりと見回し、鼻をくすぐる匂いに気づいたように、目を輝かせる。

「ねえ、今日の匂い、いつもとちょっと違わない? なんか……甘くて、安心する感じ」

「ああ、新しいやつを試してる。昨日の地下の酵母、少しだけ混ぜてみた」

俺がそう言うと、咲良は「わあ」と子どもみたいに目を輝かせた。

「試食、させて?」

「開店準備手伝うならな」

「もちろん!」

咲良はカウンターの中に入ると、慣れた手つきでトレーを並べ、ショーケースのガラスを拭き始めた。  
小さい頃から何度も手伝ってもらっているから、動きがまったく無駄がない。俺が何も言わなくても、必要なものを勝手に用意してくれる。

「ねえ、遥」

ショーケースを拭きながら、咲良がふいに口を開いた。  
その声に、俺は天板に並べる前の生地を持った手を止める。

「ん?」

「昨日さ、“好きな味”の話、したでしょ?」

「ああ」

地下室で、父さんのノートを見ながら、そんな話をした。  
人それぞれ “好きな味” があって、それはその人の生き方とか、思い出とか、今の気持ちと深くつながっている――って、ルミナが得意げに解説していた。

「私ね、ずっと分かんなかったの。『好きな味って何?』って聞かれても、上手く答えられなくてさ」

咲良はクロスを握ったまま、少しだけ寂しそうに笑う。

「お客さんにも、『どんなお花が好き?』って聞かれるじゃない? でも私、自分の“それ”をちゃんと言葉にしたことなかったなって。なんとなく、みんなが選ぶものを薦めてただけで」

「咲良らしいけどな。相手に合わせるの、得意だし」

「それ、褒めてる?」

「褒めてるよ」

本心からそう言うと、咲良は少しだけ頬を赤らめた。

「でもね、昨日、蜂蜜パン食べながら考えたの。私の好きな味って、たぶん“安心する味”なんだなって」

「安心する味?」

「うん。帰る場所みたいな。疲れたときに食べたら、『ああ、ここでいいんだ』って思える味」

そう言って、咲良はカウンター越しに俺を見つめた。  
その目は、いつものいたずらっぽいきらめきとは違って、どこか真剣だった。

「でね。気づいたの。私の“好きな味”、ずっと昔からここにあったんだって」

心臓が一瞬止まった気がした。  
咲良は、ほんの少しだけ照れたように、でも逃げずに続ける。

「遥のパンの味。たぶん、私の好きな味って、これなんだと思う」

わずかな沈黙が落ちる。  
オーブンの予熱完了の電子音が、場違いなほど間の抜けた音を立てた。

「……そうか」

それくらいしか、言葉が出てこなかった。  
でも、胸の奥があったかい何かでいっぱいになっていくのを感じた。

「ありがとな」

やっと絞り出した声に、咲良はぱっと笑顔になった。

「うん。だから、これからも、いっぱい“好きな味”焼いてよね。私が、ちゃんと食べるから」

「太るぞ」

「太らないように、花屋で動くもん」

そんな他愛もないやりとりをしながらも、どこか空気が少しだけ変わった気がした。  
幼なじみとして、ずっと隣で笑っていたはずなのに。  
今、目の前で笑っている咲良が、少しだけ違う存在に見える。

一次発酵を終えた生地を分割し、丸めていく。  
その間に、扉が勢いよく開いた。

「おはよー! お兄さん、お姉さん!」

ルミナが、いつものように元気よく店に飛び込んできた。  
今日のルミナは、いつもの白いワンピースに、咲良の花屋のロゴが入った小さなエプロンを身につけている。首元には、小さなパン型のペンダントまで下がっていた。

「それ、どうしたんだ?」

「咲良お姉さんがくれたの! 天使の正装、バージョン『ベーカリー仕様』!」

ルミナはくるりと一回転して、ふわっとスカートを揺らす。小さな羽根も一緒にひらひらと揺れた。

「どう? 似合う?」

「うん、めちゃくちゃ可愛いよ」

咲良が即答する。俺も素直に頷いた。

「似合ってる。完全にうちのマスコットだな」

「えへへー。じゃあ今日は、“美味しい”の呪文伝道師として、がんばるね!」

ルミナは胸を張ってそう言うと、カウンターの端っこに立って、にっこり笑った。

「『いらっしゃいませ! 美味しいは、幸せの呪文ですよー!』ってね!」

「お前、それどこで覚えたんだよ」

「昨日、天使界の図書館で。人間界の名言集に書いてあった!」

そんな本があるのか、とツッコミかけてやめる。天使界の常識はよく分からない。

開店時間になる頃には、金色の酵母を使った食パンと蜂蜜ロールが、次々と焼き上がっていった。  
オーブンを開けた瞬間、店内いっぱいに広がる香り。  
いつもの焼きたての匂いに、さらにもう一段階、柔らかくて甘い層が重なったみたいな香りだ。

「わあ……これ、やばいね」

咲良が、トングを持ったまま、うっとりと目を細める。  
ルミナも、鼻をくんくんさせながら、カウンターの上でぴょんぴょん跳ねた。

「この香り、言葉だけで人癒せるよ! 空腹じゃなくても、お腹いっぱいになる!」

「表現が相変わらず大げさだな」

そう言いながらも、俺も内心では同意していた。  
これは、明らかに“いつものパン”とは違う。  
でも、それは味や香りだけじゃない。  
オーブンの中で膨らんでいく生地を見ていると、なぜか胸の奥がじんわりしてくるのだ。

八時を過ぎる頃には、客がぽつぽつ入り始めた。  
最初に入ってきたのは、いつもの佐藤おじいさん。今日はなんだか足取りがやけに軽い。

「おはよう遥くん。昨日の蜂蜜パン、夢に出てきたよ。あれは反則だなあ」

「おはようございます。今日も焼きましたよ。ちょっと改良版ですけど」

蜂蜜ロールを紙袋に入れ、手渡す。  
おじいさんはその場で一口かじり、目を潤ませた。

「……うん。これはもう、食べる祈りだな」

「そんな大げさな」

「いや、本当にそうなんだよ。『美味しい』って言葉が、自然と出てきた瞬間にな……なんか、胸のつかえが、ふっと軽くなるんだ」

そう言うおじいさんの声は、どこか柔らかくなっていた。  
いつもは腰が痛いだの、畑が大変だのとぼやいていたのに、今日はそういう愚痴がひとつも出てこない。

「昨日ね、孫とちょっと喧嘩してたんだ。勉強しろだの、ゲームやめろだの言いすぎたかなって思ってたんだが……このパン食べながら話してたら、向こうから『ごめんね』って言ってきてな」

おじいさんは、くしゃりと笑った。

「『おじいちゃんの買ってくるパン、美味しいから一緒に食べたい』ってさ。……それ聞いたらさ、もうな、どうでもよくなっちまって」

袋をそっと撫でながら、

「美味しいって、すごいな。言葉ひとつで、こんなに心がほぐれるんだから」

その言葉に、俺は一瞬、胸を突かれた。

「美味しいって、呪文みたいですよね!」

横からルミナが元気よく割り込む。

「口に出した瞬間、心がぽかんって開いて、謝りたい気持ちとか、ありがとうって気持ちとか、全部出てくるんです!」

「おお、天使ちゃんの名言だ」

佐藤さんは笑いながら、ルミナの頭をわしゃわしゃ撫でた。

「そうか、これは呪文か。そりゃあ効くわけだ」

「はい! 遥お兄さんのパンは、その“呪文”を強くする魔法です!」

「おいおい」

頭を掻きながらも、悪い気はしなかった。  
“美味しい”という、たった四文字の言葉。  
それを、こんなにも大事そうに口にしてくれる人がいるという事実が、心の奥にじんわり染みこんでくる。

その後も、お客さんたちの口から、何度も同じ言葉がこぼれた。

「わあ、美味しい!」

「朝から幸せになる味だね」

「なんか、昨日までの悩みがちょっと薄くなった気がするわ」

そのたびに、ルミナは「はい、“呪文”一回発動~!」とカウントを取り、咲良は「じゃあ花の呪文も追加しよっか」と言って、小さな一輪挿しをすすめる。  
パンと花と天使――店の中が、小さな魔法で溢れているみたいだった。

午前のピークが一段落した頃、喫茶店の田中マスターが入ってきた。  
腕にパン用のバスケットを抱え、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。

「よう、遥くん。コーヒーとのコラボ、評判上々だぞ。うちの常連さん、セット頼んだ後にみんな同じこと言うんだ」

「なんてです?」

「『ああ、美味しい』って。それだけなんだけどな。でも、その後の顔が、みんなちょっと柔らかくなるんだよ」

マスターはゆっくりとウインクした。

「“美味しい”は、喫茶店でも立派な呪文さ。いい魔法を仕込んでくれたね」

その言葉に、俺は思わず頭を下げた。

「いえ、こちらこそ。マスターのコーヒーがあってこそですよ」

「謙遜するなよ。……そうだな」

ふと、マスターは俺と咲良を交互に見た。

「君たちも、ちゃんと言葉にしておくといい。パンみたいに、気持ちも焼き損ねることがあるからね」

唐突な言葉に、咲良の肩がぴくりと揺れた。  
俺も、胸の奥がひやりとする。

「焼き損ね、ですか?」

「そう。タイミング逃して、伝えそびれた“美味しい”とか、“好きだ”とか。冷めたあとに出しても、なかなか元には戻らないからね」

マスターはそう言って、軽く笑った。

「ま、パンと違って、気持ちは温め直せることもあるけどね」

その一言に、すぐ隣から小さな視線を感じる。  
横を見ると、咲良がほんのりと頬を赤くして、こちらをちらりと見上げていた。  
目が合うと、慌てて視線を逸らす。

「……ねえ、遥」

「なんだよ」

「私も、“美味しい”ってちゃんと言うからさ。遥も、たまには言葉で教えてよ?」

「言葉で?」

「うん。パン焼いてくれるだけでも嬉しいけど、それがどんな気持ちで焼かれたのか、ちょっとだけ知りたいとき、あるから」

そう言って、咲良は照れ笑いした。  
心臓が、どくんと跳ねる。

言葉にする。  
それは、パンを焼くよりもずっと難しい作業かもしれない。

でも――。

「……そのうち、な」

やっとのことで、そう答えた。  
咲良は「ずるい」と小さく呟いて、それでもどこか満足そうに笑った。

昼過ぎ、ひと段落した頃。  
ルミナがカウンターの上で、ごろりと寝転がりながら言った。

「ねえ、お兄さん」

「ん?」

「“美味しい”って言ってもらうの、やっぱり嬉しい?」

「当たり前だろ。パン屋のやりがいだし」

「そっか。でもね、天使的には、それプラスもう一個、大事な呪文があるんだよ」

「もう一個?」

「うん。“美味しい”の次に強い、最強クラスの言葉」

ルミナは、ごろんと寝返りを打って、こちらを真剣な目で見た。

「『ありがとう』ってやつ」

一瞬、言葉を失った。

「だってさ、“美味しい”って、パンに向けての気持ちでしょ? 『ありがとう』は、そのパンを焼いた人に向けての気持ちなんだよ」

ルミナは、ちょこんと起き上がり、両手を胸に当てた。

「だから、お兄さんが一番聞いてほしい呪文は、きっとそっちなんじゃないかなって」

胸の奥が、じんわりと熱くなった。  
今まで、“美味しい”って言ってもらえるだけで十分だと思っていた。  
でも、あの日、父さんが最後に俺に言ってくれた言葉は――。

『ありがとうな、遥。店を守ってくれて』

それが、こんなにも長く心に残っている理由が、少し分かった気がした。

「……そうだな」

気づけば、自然と口から言葉がこぼれていた。

「“ありがとう”って、確かに、特別だ」

ふと、視線を感じて振り向くと、咲良がこちらを見ていた。  
その手には、さっき焼き上がったばかりの蜂蜜ロール。

「じゃあ、言うね」

咲良は、蜂蜜ロールを一口かじって、目を閉じ、それからゆっくりと笑った。

「美味しい。それから――」

一瞬、間を置いてから、はっきりと、こちらを見て言った。

「ありがとう、遥」

その一言が、胸の真ん中に、まっすぐに届いた気がした。  
思わず、笑ってしまう。

「……どういたしまして」

それだけじゃ足りない気もしたけれど、今はこれが精一杯だった。

店の外では、昼下がりの柔らかな陽射しが商店街を照らしている。  
祠の方角から、ほんの一瞬だけ、金色の光がまたちらりと瞬いた気がした。

“美味しい”と“ありがとう”。

きっとその二つの呪文が、この街と、この店と――そして、俺たちの関係を、少しずつ変えていくのだろう。

明日も、焼こう。  
誰かの「美味しい」と、「ありがとう」のために。  
そして、いつか自分の気持ちも、ちゃんと言葉で焼き上げられるようになるために。
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