16 / 16
第16話 旧友の影と都市からの干渉
しおりを挟む
その日、リステル村の朝は不思議なほど静かだった。
昨夜から降った細かな雨はもう止み、空は薄曇りの灰色に覆われている。
強い風もないのに、薬草園の葉が時おりざわりと揺れるたび、村全体が何かを待っているような気配を纏っていた。
リオネルは工房の前で銀葉草の葉先を確かめていた。
朝の湿り気を含んだ葉は柔らかく、香りも十分。今日は調合用に少し多めに収穫しておこう――そう考えた、そのときだった。
村の入口のほうから、馬の蹄の音がした。
この辺境では滅多に聞かれない、硬い石を叩くような規則的な音。
ルナとピルカが同時に顔を上げ、耳を立てる。
「……また旅人か?」
リオネルが顔を上げると、井戸の方からガルドが走ってきた。
息を弾ませながら、珍しく真面目な顔をしている。
「リオネル! 村の入り口に、見慣れねぇ連中が来てる。
王都の……役人か、ギルドの人間かもしれねぇ」
「王都……?」
胸がわずかに冷たくなる。
村は最近、輝果や精霊の加護で目立ち始めている。
それに加え、行商人ハーグや獣人カイル、そして昨夜のエルネ――
外からの縁が重なり合えば、王都の誰かが気づくのも時間の問題だろう。
「わかった。行こう」
リオネルは杖を手に取り、ガルドとともに村の入口へ向かった。
ルナとピルカも後を追う。
村の入口に着くと、そこには二頭立ての馬車が停まっていた。
馬車の側面には、王都の紋章と似た意匠が描かれているが、微妙に異なる。
(王家ではない。となると……商会か、ギルドか)
御者台から軽やかに降り立ったのは、紺の外套をまとった男と、護衛らしき武装兵が二人。
そして、その陰から一歩遅れて姿を見せたのは――
「……アドルフ?」
思わず、その名が口からこぼれた。
年の頃はリオネルと同じ四十代半ば。
栗色の髪を後ろで束ね、細身の眼鏡をかけた男。
王都の錬金術師ギルドで共に学び、かつては同じ研究室で肩を並べた旧友だった。
「やあ、リオネル。まさかこんな辺境で再会するとはね」
アドルフは微笑みながら近づいてきた。
口元には柔らかな笑みが浮かんでいるが、その瞳は冷静で、どこか計算高い光を宿している。
「アドルフ……君がなぜここに?」
「仕事だよ。王都からの依頼でね」
アドルフは軽く外套を払うと、背後の兵たちに目配せをした。
彼らは一歩下がり、一定の距離を保つ。
モルドが杖をつきながら前へ出た。
「ここはリステル村だよ。遠いところ、よくまあこんな寂れた村まで来たもんだねぇ」
「ご挨拶が遅れました、村長殿。
王都錬金術師ギルド所属、アドルフ・クレインと申します。
そしてこちらは、都市商会〈青の環〉の連絡役。王都と辺境交易の橋渡しをしている者です」
アドルフは丁寧に一礼し、その仕草は昔と変わらない貴族的なものだった。
(錬金術師ギルドと商会の連絡役……そういう立場になったのか)
「リオネル、ちょっと来てくれるかい」
モルドが小声で囁いた。
リオネルは一歩下がり、モルドと短く言葉を交わす。
「知り合いかい?」
「ギルド時代の同僚です。腕は確かですが……
利益と効率を優先する人間でもありました」
「なるほどねぇ。じゃあ、話を聞くにしても、しっかり足元を固めておかないとね」
モルドは小さく笑い、再び前へ出た。
「で、その仕事とやらは、この寂れた村に何の用で?」
アドルフは周囲を見渡し、薬草園や井戸、工房を興味深そうに眺めた。
「簡単に言えば、“確認”です。
近頃、王都まで奇妙な噂が届きましてね。
――“辺境の小さな村に、失われた精霊の加護が戻った。
薬草は輝き、井戸は清水を溢れさせ、
一人の錬金術師が人々を癒している”」
言葉の端に、皮肉めいた響きが混ざる。
「それがもし本当なら、王都としても看過できません。
忘れられた土地が、突然これほどの魔力を帯び始めれば、
災厄の芽にもなりかねないので」
「災厄、ね……」
リオネルは黙ってアドルフを見つめた。
その視線を受け、アドルフは眼鏡の位置を直しながら続ける。
「加えて、ここには“追放された錬金術師”がいるという噂も届いている。
名を、リオネル・グレイといったかな」
村人たちがざわついた。
ガルドがリオネルをちらりと見て、拳を握る。
カイルは無言のまま、アドルフと兵たちを観察していた。
リオネルは静かに一歩前へ出た。
「そのリオネル・グレイが、ここにいる錬金術師だよ」
アドルフの口元が、愉しげに歪む。
「やあ、やはり君だったか。
てっきり、どこかで朽ち果てているんじゃないかと思っていたよ」
「期待を裏切ってすまないね。
ここの畑も井戸も、まだ朽ちるには早すぎるものだから」
二人の言葉には穏やかな調子があったが、
その下には張り詰めた糸のような緊張が流れていた。
やがて、アドルフは周囲の村人たちに向き直った。
「誤解のないように言っておきましょう。
私はあなた方を責めに来たわけではありません。
むしろ、この地の“可能性”を見に来たのです」
「可能性?」モルドが眉をひそめる。
「ええ。
もしここが、噂通りの“癒しの土地”であり、
精霊の加護と豊かな薬草に恵まれているのなら――
王都としては、公式に保護したいと考えています」
村人たちがざわめいた。
「保護? それは、どういう形で?」
リオネルが問うと、アドルフはさらりと答えた。
「単純な話ですよ。
この村を“王都直轄の薬草供給地”に指定し、
代わりに税の一部免除と、物資の優先供給を行う。
薬草や薬品の取引は、王都認定商会〈青の環〉を通してのみ行う――
そうした“取り決め”です」
(やはり、そう来たか)
リオネルは胸の内で短く息を吐く。
それは、かつてアドルフが望み、ギルドで提唱していた構想そのものだった。
効率よく資源を集め、管理し、都市のために循環させる。
辺境は供給地であり、王都は消費と統率の中心。
表向きは「保護」、実態は「管理」と「独占」。
ガルドが堪えきれずに口を開いた。
「要するに、うちの村の薬草と水と光を、
王都の都合で好きなように使いたいってことか?」
アドルフはその直球を、あくまで穏やかに受け流した。
「あなた方の暮らしも豊かになりますよ。
物資の保証、外敵からの保護、
そして何より――
“あなた方の村に住む錬金術師”にも、
正式な立場と研究の場が与えられる」
視線がリオネルに向けられる。
「どうだい、リオネル。
もう一度、表の世界に戻ってこないか?
君ほどの腕が、こんな小さな村だけのものでは惜しい。
王都に来れば、もっと大きな規模で人を癒せる」
村人たちの視線が一斉に集まった。
ガルド、モルド、子どもたち、カイル、エルネ――
誰もが息を呑んで、リオネルの言葉を待っている。
リオネルは一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと息を整えた。
王都での日々が脳裏をかすめる。
効率と数字、評価と比較、常に急かされるような日々。
あの場所で、確かに多くの薬は生まれた。
だが、その中でどれだけの笑顔を見ただろうか。
目を開き、村を見渡す。
薬草園で笑う子どもたちの姿。
鍋を囲む人々の笑顔。
井戸に集う村人たちの、穏やかな声。
そして、工房の前で尻尾を振る、二匹の犬。
「……悪いが、断るよ、アドルフ」
静かな声だったが、迷いはなかった。
「ここは、私の“居場所”だ。
この村の土と水と命を、私はこの村のみんなと共に守りたい。
王都の都合で縛られたくはない」
アドルフの笑みが、わずかに冷たく変わる。
「考え直す気はないか、リオネル。
これは君個人の話ではない。
村全体の未来にも関わることだ」
「だからこそだ。
この村の未来を、外の誰かに決められたくない。
ここにいるのは、私ではなく“村の意思”だよ」
そう言って、リオネルはモルドに目を向けた。
モルドはゆっくりと頷き、前に出る。
「ギルドの人だか商会だか知らないがね、
この村はようやく、自分たちの足で立ち始めたところだよ。
今ここで、外から鎖を掛けられるなんざ、まっぴらごめんだね」
ガルドも続く。
「物資と保護はありがてぇが、
今だって俺たちは、リオネルさんと一緒にここを守れてる。
あんたらの“保護”が、いつ“搾取”に変わるか分かったもんじゃねぇ」
カイルは無言のままだが、その目は明らかにアドルフを警戒していた。
エルネもまた、不安そうに唇を噛みしめている。
アドルフはしばらく沈黙し、それから肩をすくめた。
「……なるほど。辺境の人々は、相変わらず頑固だ。
だが、今すぐ返事を出せとは言わないよ。
正式な“打診書”を置いていく。
村で話し合い、考える時間はある」
そう言って、一枚の羊皮紙をモルドに手渡した。
そこには、王都印と商会の印が並んで刻印されている。
「三ヶ月後、もう一度来る。
そのときまでに、答えを用意しておいてくれ」
そう告げると、アドルフは再びリオネルを見た。
「個人的にはね、君には戻ってきてほしいんだよ。
君が王都を去ってから、ギルドはつまらなくなった」
「それは光栄だが、
“つまらない場所”に戻るつもりはないよ」
二人の視線が、最後にもう一度交わる。
そこには、懐かしさと、決定的な価値観の違いとが、複雑に混ざっていた。
アドルフは小さく笑い、馬車に乗り込んだ。
「では、また三ヶ月後に会おう。
それまでに、ここがまだ“無事”であることを祈っているよ」
その言葉には、どこか含みがあった。
馬車がゆっくりと村を離れていく。
土埃が舞い、音が遠ざかる。
静寂が戻ったあと、ガルドが大きく息を吐いた。
「……なんだよ、あいつ。感じ悪ぃな」
モルドは羊皮紙を睨みながら言う。
「まあ、言ってることの半分は悪い話じゃない。
だが残りの半分が、どうにも信用ならないねぇ」
リオネルは空を見上げた。
曇り空の向こうで、薄い光が揺れている。
精霊リステアの気配が、どこか落ち着かない。
(外の世界が、確かにこちらを見ている。
黒淵遺跡の瘴気だけでなく、
“人の欲”という別の流れも、この村に流れ込み始めた)
「とりあえず今日は、みんな普段通りに暮らしてくれ。
この話は、夜に改めて集まって相談しよう」
リオネルの言葉に、村人たちはそれぞれ頷き、持ち場へと散っていく。
だがその背には、ささやかな不安の影が差していた。
夕方、工房の前でルナとピルカが並んで座り、
遠くに霞む街道の方角をじっと見つめていた。
「……心配か?」
リオネルが隣に腰を下ろすと、二匹は小さく鳴いた。
風が、静かに村を撫でていく。
森の奥から、微かに精霊の囁きが届いたような気がした。
――選ぶのは、お前たちだ。
――ただし、流れはもう動き始めている。
リオネルは目を閉じ、静かに頷いた。
「わかっている。
だからこそ、急がず、騒がず、この土地の声を聞こう」
遠くで、子どもたちの笑い声が聞こえた。
薬草園を駆け回る足音が、いつもと変わらぬリステル村の日常を告げている。
その日常を守るために、
外からの干渉とどう向き合うのか――
それはこの村にとって、そしてリオネルにとって、
新しい“試練”の始まりとなるのだった。
昨夜から降った細かな雨はもう止み、空は薄曇りの灰色に覆われている。
強い風もないのに、薬草園の葉が時おりざわりと揺れるたび、村全体が何かを待っているような気配を纏っていた。
リオネルは工房の前で銀葉草の葉先を確かめていた。
朝の湿り気を含んだ葉は柔らかく、香りも十分。今日は調合用に少し多めに収穫しておこう――そう考えた、そのときだった。
村の入口のほうから、馬の蹄の音がした。
この辺境では滅多に聞かれない、硬い石を叩くような規則的な音。
ルナとピルカが同時に顔を上げ、耳を立てる。
「……また旅人か?」
リオネルが顔を上げると、井戸の方からガルドが走ってきた。
息を弾ませながら、珍しく真面目な顔をしている。
「リオネル! 村の入り口に、見慣れねぇ連中が来てる。
王都の……役人か、ギルドの人間かもしれねぇ」
「王都……?」
胸がわずかに冷たくなる。
村は最近、輝果や精霊の加護で目立ち始めている。
それに加え、行商人ハーグや獣人カイル、そして昨夜のエルネ――
外からの縁が重なり合えば、王都の誰かが気づくのも時間の問題だろう。
「わかった。行こう」
リオネルは杖を手に取り、ガルドとともに村の入口へ向かった。
ルナとピルカも後を追う。
村の入口に着くと、そこには二頭立ての馬車が停まっていた。
馬車の側面には、王都の紋章と似た意匠が描かれているが、微妙に異なる。
(王家ではない。となると……商会か、ギルドか)
御者台から軽やかに降り立ったのは、紺の外套をまとった男と、護衛らしき武装兵が二人。
そして、その陰から一歩遅れて姿を見せたのは――
「……アドルフ?」
思わず、その名が口からこぼれた。
年の頃はリオネルと同じ四十代半ば。
栗色の髪を後ろで束ね、細身の眼鏡をかけた男。
王都の錬金術師ギルドで共に学び、かつては同じ研究室で肩を並べた旧友だった。
「やあ、リオネル。まさかこんな辺境で再会するとはね」
アドルフは微笑みながら近づいてきた。
口元には柔らかな笑みが浮かんでいるが、その瞳は冷静で、どこか計算高い光を宿している。
「アドルフ……君がなぜここに?」
「仕事だよ。王都からの依頼でね」
アドルフは軽く外套を払うと、背後の兵たちに目配せをした。
彼らは一歩下がり、一定の距離を保つ。
モルドが杖をつきながら前へ出た。
「ここはリステル村だよ。遠いところ、よくまあこんな寂れた村まで来たもんだねぇ」
「ご挨拶が遅れました、村長殿。
王都錬金術師ギルド所属、アドルフ・クレインと申します。
そしてこちらは、都市商会〈青の環〉の連絡役。王都と辺境交易の橋渡しをしている者です」
アドルフは丁寧に一礼し、その仕草は昔と変わらない貴族的なものだった。
(錬金術師ギルドと商会の連絡役……そういう立場になったのか)
「リオネル、ちょっと来てくれるかい」
モルドが小声で囁いた。
リオネルは一歩下がり、モルドと短く言葉を交わす。
「知り合いかい?」
「ギルド時代の同僚です。腕は確かですが……
利益と効率を優先する人間でもありました」
「なるほどねぇ。じゃあ、話を聞くにしても、しっかり足元を固めておかないとね」
モルドは小さく笑い、再び前へ出た。
「で、その仕事とやらは、この寂れた村に何の用で?」
アドルフは周囲を見渡し、薬草園や井戸、工房を興味深そうに眺めた。
「簡単に言えば、“確認”です。
近頃、王都まで奇妙な噂が届きましてね。
――“辺境の小さな村に、失われた精霊の加護が戻った。
薬草は輝き、井戸は清水を溢れさせ、
一人の錬金術師が人々を癒している”」
言葉の端に、皮肉めいた響きが混ざる。
「それがもし本当なら、王都としても看過できません。
忘れられた土地が、突然これほどの魔力を帯び始めれば、
災厄の芽にもなりかねないので」
「災厄、ね……」
リオネルは黙ってアドルフを見つめた。
その視線を受け、アドルフは眼鏡の位置を直しながら続ける。
「加えて、ここには“追放された錬金術師”がいるという噂も届いている。
名を、リオネル・グレイといったかな」
村人たちがざわついた。
ガルドがリオネルをちらりと見て、拳を握る。
カイルは無言のまま、アドルフと兵たちを観察していた。
リオネルは静かに一歩前へ出た。
「そのリオネル・グレイが、ここにいる錬金術師だよ」
アドルフの口元が、愉しげに歪む。
「やあ、やはり君だったか。
てっきり、どこかで朽ち果てているんじゃないかと思っていたよ」
「期待を裏切ってすまないね。
ここの畑も井戸も、まだ朽ちるには早すぎるものだから」
二人の言葉には穏やかな調子があったが、
その下には張り詰めた糸のような緊張が流れていた。
やがて、アドルフは周囲の村人たちに向き直った。
「誤解のないように言っておきましょう。
私はあなた方を責めに来たわけではありません。
むしろ、この地の“可能性”を見に来たのです」
「可能性?」モルドが眉をひそめる。
「ええ。
もしここが、噂通りの“癒しの土地”であり、
精霊の加護と豊かな薬草に恵まれているのなら――
王都としては、公式に保護したいと考えています」
村人たちがざわめいた。
「保護? それは、どういう形で?」
リオネルが問うと、アドルフはさらりと答えた。
「単純な話ですよ。
この村を“王都直轄の薬草供給地”に指定し、
代わりに税の一部免除と、物資の優先供給を行う。
薬草や薬品の取引は、王都認定商会〈青の環〉を通してのみ行う――
そうした“取り決め”です」
(やはり、そう来たか)
リオネルは胸の内で短く息を吐く。
それは、かつてアドルフが望み、ギルドで提唱していた構想そのものだった。
効率よく資源を集め、管理し、都市のために循環させる。
辺境は供給地であり、王都は消費と統率の中心。
表向きは「保護」、実態は「管理」と「独占」。
ガルドが堪えきれずに口を開いた。
「要するに、うちの村の薬草と水と光を、
王都の都合で好きなように使いたいってことか?」
アドルフはその直球を、あくまで穏やかに受け流した。
「あなた方の暮らしも豊かになりますよ。
物資の保証、外敵からの保護、
そして何より――
“あなた方の村に住む錬金術師”にも、
正式な立場と研究の場が与えられる」
視線がリオネルに向けられる。
「どうだい、リオネル。
もう一度、表の世界に戻ってこないか?
君ほどの腕が、こんな小さな村だけのものでは惜しい。
王都に来れば、もっと大きな規模で人を癒せる」
村人たちの視線が一斉に集まった。
ガルド、モルド、子どもたち、カイル、エルネ――
誰もが息を呑んで、リオネルの言葉を待っている。
リオネルは一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと息を整えた。
王都での日々が脳裏をかすめる。
効率と数字、評価と比較、常に急かされるような日々。
あの場所で、確かに多くの薬は生まれた。
だが、その中でどれだけの笑顔を見ただろうか。
目を開き、村を見渡す。
薬草園で笑う子どもたちの姿。
鍋を囲む人々の笑顔。
井戸に集う村人たちの、穏やかな声。
そして、工房の前で尻尾を振る、二匹の犬。
「……悪いが、断るよ、アドルフ」
静かな声だったが、迷いはなかった。
「ここは、私の“居場所”だ。
この村の土と水と命を、私はこの村のみんなと共に守りたい。
王都の都合で縛られたくはない」
アドルフの笑みが、わずかに冷たく変わる。
「考え直す気はないか、リオネル。
これは君個人の話ではない。
村全体の未来にも関わることだ」
「だからこそだ。
この村の未来を、外の誰かに決められたくない。
ここにいるのは、私ではなく“村の意思”だよ」
そう言って、リオネルはモルドに目を向けた。
モルドはゆっくりと頷き、前に出る。
「ギルドの人だか商会だか知らないがね、
この村はようやく、自分たちの足で立ち始めたところだよ。
今ここで、外から鎖を掛けられるなんざ、まっぴらごめんだね」
ガルドも続く。
「物資と保護はありがてぇが、
今だって俺たちは、リオネルさんと一緒にここを守れてる。
あんたらの“保護”が、いつ“搾取”に変わるか分かったもんじゃねぇ」
カイルは無言のままだが、その目は明らかにアドルフを警戒していた。
エルネもまた、不安そうに唇を噛みしめている。
アドルフはしばらく沈黙し、それから肩をすくめた。
「……なるほど。辺境の人々は、相変わらず頑固だ。
だが、今すぐ返事を出せとは言わないよ。
正式な“打診書”を置いていく。
村で話し合い、考える時間はある」
そう言って、一枚の羊皮紙をモルドに手渡した。
そこには、王都印と商会の印が並んで刻印されている。
「三ヶ月後、もう一度来る。
そのときまでに、答えを用意しておいてくれ」
そう告げると、アドルフは再びリオネルを見た。
「個人的にはね、君には戻ってきてほしいんだよ。
君が王都を去ってから、ギルドはつまらなくなった」
「それは光栄だが、
“つまらない場所”に戻るつもりはないよ」
二人の視線が、最後にもう一度交わる。
そこには、懐かしさと、決定的な価値観の違いとが、複雑に混ざっていた。
アドルフは小さく笑い、馬車に乗り込んだ。
「では、また三ヶ月後に会おう。
それまでに、ここがまだ“無事”であることを祈っているよ」
その言葉には、どこか含みがあった。
馬車がゆっくりと村を離れていく。
土埃が舞い、音が遠ざかる。
静寂が戻ったあと、ガルドが大きく息を吐いた。
「……なんだよ、あいつ。感じ悪ぃな」
モルドは羊皮紙を睨みながら言う。
「まあ、言ってることの半分は悪い話じゃない。
だが残りの半分が、どうにも信用ならないねぇ」
リオネルは空を見上げた。
曇り空の向こうで、薄い光が揺れている。
精霊リステアの気配が、どこか落ち着かない。
(外の世界が、確かにこちらを見ている。
黒淵遺跡の瘴気だけでなく、
“人の欲”という別の流れも、この村に流れ込み始めた)
「とりあえず今日は、みんな普段通りに暮らしてくれ。
この話は、夜に改めて集まって相談しよう」
リオネルの言葉に、村人たちはそれぞれ頷き、持ち場へと散っていく。
だがその背には、ささやかな不安の影が差していた。
夕方、工房の前でルナとピルカが並んで座り、
遠くに霞む街道の方角をじっと見つめていた。
「……心配か?」
リオネルが隣に腰を下ろすと、二匹は小さく鳴いた。
風が、静かに村を撫でていく。
森の奥から、微かに精霊の囁きが届いたような気がした。
――選ぶのは、お前たちだ。
――ただし、流れはもう動き始めている。
リオネルは目を閉じ、静かに頷いた。
「わかっている。
だからこそ、急がず、騒がず、この土地の声を聞こう」
遠くで、子どもたちの笑い声が聞こえた。
薬草園を駆け回る足音が、いつもと変わらぬリステル村の日常を告げている。
その日常を守るために、
外からの干渉とどう向き合うのか――
それはこの村にとって、そしてリオネルにとって、
新しい“試練”の始まりとなるのだった。
44
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
『異世界に転移した限界OL、なぜか周囲が勝手に盛り上がってます』
宵森みなと
ファンタジー
ブラック気味な職場で“お局扱い”に耐えながら働いていた29歳のOL、芹澤まどか。ある日、仕事帰りに道を歩いていると突然霧に包まれ、気がつけば鬱蒼とした森の中——。そこはまさかの異世界!?日本に戻るつもりは一切なし。心機一転、静かに生きていくはずだったのに、なぜか事件とトラブルが次々舞い込む!?
家ごと異世界転移〜異世界来ちゃったけど快適に暮らします〜
奥野細道
ファンタジー
都内の2LDKマンションで暮らす30代独身の会社員、田中健太はある夜突然家ごと広大な森と異世界の空が広がるファンタジー世界へと転移してしまう。
パニックに陥りながらも、彼は自身の平凡なマンションが異世界においてとんでもないチート能力を発揮することを発見する。冷蔵庫は地球上のあらゆる食材を無限に生成し、最高の鮮度を保つ「無限の食料庫」となり、リビングのテレビは異世界の情報をリアルタイムで受信・翻訳する「異世界情報端末」として機能。さらに、お風呂の湯はどんな傷も癒す「万能治癒の湯」となり、ベランダは瞬時に植物を成長させる「魔力活性化菜園」に。
健太はこれらの能力を駆使して、食料や情報を確保し、異世界の人たちを助けながら安全な拠点を築いていく。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
おばさん冒険者、職場復帰する
神田柊子
ファンタジー
アリス(43)は『完全防御の魔女』と呼ばれたA級冒険者。
子育て(子どもの修行)のために母子ふたりで旅をしていたけれど、子どもが父親の元で暮らすことになった。
ひとりになったアリスは、拠点にしていた街に五年ぶりに帰ってくる。
さっそくギルドに顔を出すと昔馴染みのギルドマスターから、ギルド職員のリーナを弟子にしてほしいと頼まれる……。
生活力は低め、戦闘力は高めなアリスおばさんの冒険譚。
-----
剣と魔法の西洋風異世界。転移・転生なし。三人称。
一話ごとで一区切りの、連作短編(の予定)。
-----
※小説家になろう様にも掲載中。
「洗い場のシミ落とし」と追放された元宮廷魔術師。辺境で洗濯屋を開いたら、聖なる浄化の力に目覚め、呪いも穢れも洗い流して成り上がる
黒崎隼人
ファンタジー
「銀閃」と謳われたエリート魔術師、アルク・レンフィールド。彼は五年前、国家の最重要儀式で犯した一つの失敗により、全てを失った。誇りを砕かれ、「洗い場のシミ落とし」と嘲笑された彼は、王都を追われ辺境の村でひっそりと洗濯屋を営む。
過去の「恥」に心を閉ざし、ひまわり畑を眺めるだけの日々。そんな彼の前に現れたのは、体に呪いの痣を持つ少女ヒマリ。彼女の「恥」に触れた時、アルクの中に眠る失われたはずの力が目覚める。それは、あらゆる汚れ、呪い、穢れさえも洗い流す奇跡の力――「聖濯術」。
これは、一度は全てを失った男が、一枚の洗濯物から人々の心に染みついた悲しみを洗い流し、自らの「恥」をも乗り越えていく、ささやかで温かい再生の物語。ひまわりの咲く丘で、世界で一番優しい洗濯が、今始まる。
【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
俺の伯爵家大掃除
satomi
ファンタジー
伯爵夫人が亡くなり、後妻が連れ子を連れて伯爵家に来た。俺、コーは連れ子も可愛い弟として受け入れていた。しかし、伯爵が亡くなると後妻が大きい顔をするようになった。さらに俺も虐げられるようになったし、可愛がっていた連れ子すら大きな顔をするようになった。
弟は本当に俺と血がつながっているのだろうか?など、学園で同学年にいらっしゃる殿下に相談してみると…
というお話です。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる