君の声を、もう一度

たまごころ

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第1話 再会の町

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海の匂いがした。  
東京から二時間半ほど電車に揺られ、乗り換えを繰り返した先にあるこの小さな港町に、悠真は初めて降り立った。三月の終わり、まだ空気は冷たくて、駅前の桜の枝はようやく蕾をつけたばかりだった。

「……意外と遠いな」

ぽつりと独り言をこぼす。  
今回の出張は、所属する会社の地方プロモーション企画の取材撮影だった。写真と簡単なインタビューをまとめて提出するだけの仕事。数日で戻る予定だった。

改札を抜けると、駅前ロータリーの片隅に小さな観光案内所が見えた。木の看板には手書きで「海風町観光MAP」と書かれていて、春休みらしい学生たちがスマホで写真を撮っていた。  
悠真はカメラバッグを肩に掛け直して、深呼吸する。潮風に髪が揺れ、乾いた空気が肺を満たした。

東京の雑踏とはあまりにも違う、静かな時間。  
遠くで汽笛が響いた。港の方向に白い帆船の影が見えた。

取材先の地域振興課は、駅から歩いて十分ほどの商店街にあるらしかった。  
舗装された坂道を下りながら、昭和の名残を残した喫茶店や文房具屋、乾物屋の前を通り過ぎる。古い町の香りがした。  
そのとき、ふと一軒の喫茶店の前で足を止めた。ガラス戸越しに見える店内。コーヒーの香ばしい匂い。  
扉の上には「Kissa seaside」と小さく書かれている。  
旅先ではいつも、最初に入った店の印象で町の雰囲気が決まる気がした。  
悠真は、何の気なしにドアを押した。

カラン、とベルの音が鳴る。  
店内は思ったよりも明るく、窓際の席からは港が見えた。  
新聞を読んでいる年配の男性、カウンターで談笑している大学生風の二人組。  
そして――カウンターの中でマグを拭いている女性の姿が目に入った。

その瞬間、心臓が跳ねた。

視線を逸らすことができなかった。  
彼女は背中まで伸びた髪をひとつに結び、黒いエプロンをつけていた。  
穏やかな表情。少しだけ、昔より大人っぽくなっている。  
それでも、間違えるはずがなかった。

――結衣。

悠真の手の中のカメラがかすかに震えた。  
五年前に別れた恋人。  
連絡を絶って以来、一度も会っていなかった。  
まさか、こんなところで。

「いらっしゃいませ」  
彼女の声が、店内にやわらかく響いた。

その声も、記憶のままだった。  
懐かしさが胸を締めつける。  
だが、次の瞬間、悠真は小さく息を呑んだ。  
彼女の視線が自分に向いても、その表情に動揺はなかった。  
まるで、初めて見る客を迎えるような、穏やかな笑顔。

「おひとりですか?」

……忘れているのか?

喉の奥が渇いた。言葉がうまく出てこない。  
うなずくのが精一杯だった。

「窓際の席、空いてます。どうぞ。」

彼女が笑顔で手を差し向ける。  
悠真は、言われるまま席へと向かった。  
カメラバッグを下ろし、視線を落とす。手の震えが止まらなかった。  
何度も、深呼吸した。

知らないふりをして席に着いた。  
いや、彼女の方が「知らない」のだ。  
その事実が、どうしようもなく現実的に響いた。

——結衣。  
五年前、どうして突然いなくなったんだ。

テーブルの上に置かれた水の中の氷が、からん、と鳴った。  
彼女がメニューを持って戻ってくる。  
近づくほどに、記憶が揺れる。春の陽射しのように。

「おすすめは、自家製ブレンドと、レモンパイです」

その笑顔が痛いほど懐かしかった。  
悠真は無意識のうちに、目を伏せたまま言葉を返す。

「……ブレンドをください」

「かしこまりました」

注文を受けて去っていく背中を見つめながら、悠真は右手で眉を押さえた。  
五年前、結衣が突然姿を消した日のこと。どこかで泣きながら笑っていた表情。最後のメッセージ。「ごめんね」という一行。

あの日から、心のどこかでずっと引っかかっていた。  
でも、もう会うことなんてない、そう思い込んできた。  
それが今、こうして目の前にいる。

ブレンドの香りが漂ってきた。  
カップを置く時の仕草まで、あの頃と同じだった。

「すみません。この町に来たの、今日が初めてで。取材で少しだけ滞在するんです」

勇気を出して声をかけた。  
彼女は一瞬驚いたように目を瞬かせ、すぐに笑った。

「そうなんですね。海風町って、静かだけどいいところですよ。海も、夜景も」

「そうみたいですね。……このお店も、すごく落ち着きます」

結衣はうれしそうに頷いた。  
「ありがとうございます。父がやってた店なんです。私、数年前から手伝ってて。」

父が。  
悠真はその言葉を飲み込んだ。彼女の父親が店をやっているのは、確かに昔も聞いたことがある。  
ただ――「亡くなった」って、あのとき言っていなかったか。

「……昔から、この町に住んでるんですか?」  
「ええ、生まれも育ちもここなんです。でも、少しだけ東京にもいたみたいで。それも前のことだから、あまり覚えてないんですけど」

覚えていない。  
その一言に、全ての違和感が凝縮されていた。

「……覚えてないって?」

「子どもの頃に事故にあって、それ以前のことがところどころ抜けちゃってるみたいで。親も詳しくは話してくれないので、あんまり深く考えないようにしてるんです」

事故。  
脳裏に、あの日の「突然の失踪」と「連絡の断絶」がよみがえる。  
もしかして――。

「すみません、変な話しちゃいましたね」と彼女が笑う。  
その表情がまっすぐで、優しかった。  
悠真はただ首を振るしかなかった。

「いえ……話してくれて、ありがとうございます」

言葉の途中で、声がかすれていた。  
そのまま沈黙が落ちた。  
外では、汽笛がもう一度鳴った。

——ここでは、彼女は「宮川結衣」として、生きている。  
記憶を失って、過去のすべてを置いたまま。

その夜、ホテルの小さな机の上で、悠真は取材ノートを開いた。  
手書きの初日メモの欄に、思わずペンが止まる。  
震える文字で、こう書き残していた。

「結衣に再会。彼女は俺を覚えていない。」

部屋の天井を見上げる。  
波の音がかすかに聞こえる。  
それは、五年前の春と同じ音だった。

そして小さく呟く。  
「……もう一度、会いに行こう。話をしよう。ちゃんと。」

心の奥で、何かが静かにまた動き始めていた。  
忘れられてしまった恋の続きを、たとえ彼女が知らなくとも。

翌朝の光は、少しだけ暖かかった。
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