君の声を、もう一度

たまごころ

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第2話 覚えていない人

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翌朝、海風町の空は澄みきっていた。宿の窓を開けると、潮の香りを含んだ風が部屋のカーテンをゆっくりと揺らす。その向こうには、穏やかな海と、わずかに光を反射する桟橋が見える。  

高瀬悠真は寝癖を押さえながら、ぼんやりと朝の景色を眺めていた。前夜のことが頭の中で何度も反芻される。  

――結衣。  
記憶を、失っていた。  
事故。東京を覚えていない。彼女は、自分のことも覚えていない。  

それだけの事実を受け止めるのに、一晩では足りなかった。夢か現実か分からないような感覚。けれど写真のようにはっきりと脳裏に焼きついている。あの喫茶店の空気も、彼女の笑顔も。

「……どうすればいいんだろうな」

呟いても、答えは出なかった。  

仕事でここに来ている以上、滞在には期限がある。三日後には東京へ戻る予定だ。  
あのまま再び姿を消すように立ち去ることもできた。けれど、彼はそうしなかった。  

ノートパソコンを開き、今日の取材先リストを確認する。午前に地域振興課、午後に海辺の工房、時間があれば再度喫茶店へ寄る。それだけ予定を立て、カメラを手に外へ出た。

町の通りは朝市の準備で少し賑わっていた。露店からは焼き魚や干物の香りが漂い、商店の前では地元の人たちが声を掛け合っている。東京では感じられない、人の距離の近さがある。  

悠真はカメラを構え、通りを歩きながらシャッターを切った。レンズ越しに見るこの町は、どこか懐かしい色をしていた。  

役場の取材が終わったのは昼前だった。撮影の合間にも、結局頭に浮かぶのは同じことばかりだ。  
帰り道、気づけば足は昨日と同じ方向に向かっていた。喫茶 seaside。  

昼下がりの店は昨日よりも静かだった。入り口のベルを鳴らすと、奥の方でコーヒーカップを並べていた結衣が顔を上げた。  

「いらっしゃいませ」  
昨日と同じ声。けれど今日の自分は少しだけ冷静だった。  

「昨日も来たんですけど、覚えてますか」  
軽く笑ってみせる。  
「もちろんですよ。取材で来られた方でしたよね」  

笑みを返す結衣。どこまでも自然だった。まるで、本当に初めて会って数日しか経っていない人のように。  

「すみません、今日もコーヒーを」  
「ありがとうございます。少しお時間いただきますね」  

席につき、鞄からメモ帳を取り出す。  
仕事のふりをしながら、彼女の動きを目で追ってしまう。カウンター越しに見える手首の細さ。ミルを回すときの仕草。少し緊張するとすぐ唇に触れる癖――昔と少しも変わらない。  

心の奥では、何度も不思議な衝動が湧いた。彼女に「覚えてない?」と問い詰めたい気持ちと、言ってはいけないという理性がせめぎ合っている。  

やがて運ばれてきたブレンドの香りが、そんな思考を溶かすように漂った。  

「お仕事、大変ですか?」  
「まあ、取材ってほどでもないですけど。町の風景とか、人の話を聞いて、記事にまとめるだけです」  

「いつまでこの町に?」  
「……あと二日くらいかな」  

そう答えると、結衣は「短いですね」と少し残念そうに眉を下げた。その表情に、胸がわずかに痛む。  

「この町の写真、たくさん撮ってくださいね。春の始まりは一番きれいなんです」  
「そうします」  

短いやりとりのあと、彼女が戻っていく背中を見送りながら、悠真の胸の内では小さな決意が芽生えていた。  
――このまま帰れない。何も知らないままでは、きっと後悔する。  

午後、取材を終えて再び海沿いを歩いた。  
潮騒が近くに聞こえる防波堤の上で、悠真はポケットからスマホを取り出し、過去の連絡先リストを開いた。  
そこに残る「結衣」の文字。  
けれど、通話ボタンを押す勇気は出なかった。相手の番号がまだ生きているかどうかも分からない。  

カメラを構え、空を撮る。雲の形がゆっくりと春の風に変わっていく。あの日も、こんな空だった気がした。  

夜、宿に戻る頃には潮の匂いに混じって花の香りが漂っていた。  
灯りを消しても、瞼の裏では彼女の笑顔ばかり浮かぶ。  
記憶を失うということは、時間の一部だけを残して生まれ直すようなことなのだろうか。  

もしだからといって、彼女に過去をぶつけてもいいのか――。  

翌日、結衣の方から声を掛けてきた。  
昼の取材を終えて喫茶店の前を通りかかったとき、ガラス越しに彼女が手を振っていた。  

「今日もお仕事ですか?」  
「ええ、これで一通りは終わりです」  
「よかったら、これ差し入れです」  

小さな紙袋を差し出された。中にはレモンパイが二つ。  
「お店で作ったやつなんです。試作品だから味見してもらえたら嬉しいなって」  

彼女は少し照れくさそうに笑う。  
悠真は思わず息をのんだ。  
五年前、彼女が初めて焼いてくれたのも、レモンパイだった。  
甘さ控えめで、酸味が強く、少し焦げたような香ばしさ。あの味を思い出した。  

「ありがとう。大事にいただきます」  
「よかった。お客さんに出せるようになったら、またお願いしますね」  

風が通り過ぎ、彼女の髪が頬をかすめる。一瞬、時間が止まったように思えた。  

「そういえば――東京って、どんなところでした?」  
突然の問いに、悠真は少し驚いた。  
「え?」  
「昔、私もいたみたいで。でもちゃんと覚えてないんです。どんな感じだったのか、誰といたのかさえ分からなくて」  

言葉を失う。  
目の前の彼女は、記憶を失くした少女のように真っ直ぐだった。  
「人が多くて、忙しい街ですよ。でも、いいところでもある。夢を追う人も多いし」  

「夢かぁ。私、昔どんな夢を持ってたんだろう」  
その何気ない言葉が、胸の奥を刺した。  

「……料理、続けてるならきっと、それが答えなんじゃないですか」  

結衣は小さく笑い、「そうかもしれませんね」と呟いた。  
窓の外で午後の日差しが傾き始める。彼女の横顔に光が射して、まるで時間の層を透かして見るようだった。

店を出る前、悠真は思い切って聞いた。  
「もし、東京で誰かに会ったとしても、昔の知り合いだって分からなかったら、どうしますか?」  

「どうする、ですか?」  
「知らない人だとしても、何か感じることがあったら」  

結衣は少しだけ考えてから、微笑んだ。  
「……覚えていなくても、心が動いたら、それが全てだと思います」  
「心が動いたら?」  
「はい。記憶がなくても、人を好きになることくらいは、できると思うんです」  

胸が熱くなる。  
悠真は「そうですね」とだけ答えた。  
言葉の奥に、五年前の自分たちが持っていた気持ちが甦る。  

駅へ戻る道、空気は冷たくなっていた。  
手の中の紙袋から、ほんのかすかなレモンの香りが漂う。  
その香りが過去と現在をつなぐようで、悠真は思わず苦く笑った。  

宿に着き、机の上でパイの包みを開ける。  
フォークを入れると、やわらかい酸味と甘い香りが広がった。  
思い出の味と少し違うのに、どうしてか涙が出そうになった。  

窓の外では潮騒が続いている。月明かりに照らされた海がゆらめいていた。  
そして悠真はノートに新しく一行を書き加えた。  

「結衣はやはり、覚えていない。でも、心は何かを覚えている気がする。」  

その文字を見つめながら、胸の奥で決意が強く形を持つ。  
彼女の記憶を無理に取り戻させるつもりはない。  
けれど、今の彼女ともう一度、出会い直したい――。  

海辺の町に夜が降りていた。  
遠くの灯台が、淡い光をゆっくりと瞬かせている。  
その灯りが、二人の未来をかすかに照らしているように見えた。
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