君の声を、もう一度

たまごころ

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第3話 名もなき午後

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翌朝、カーテンの隙間から差し込む陽射しが顔に触れて、悠真はゆっくりと目を覚ました。  
薄いカーテン越しの光は、都会のように刺すようではなく、かすかに滲んで暖かかった。  
ホテルの天井を数秒見上げ、ようやく身体を起こす。昨夜書いたノートの文字が頭をよぎる。

「心は何かを覚えている気がする――」

結衣のあの言葉、そして笑顔。それがひたすら胸の奥で反芻されていた。  
思い出の中の彼女と、今目の前にいる彼女は同じ顔をしているのに、まるで違う人のようでもあった。  

シャワーを浴び、支度を終えて、今日は取材も一区切り。残る予定はもうない。  
けれど、東京へ戻る列車の時刻までは、まだ一日半ある。  
何をするかは、最初から決めていた。  

喫茶seasideへ、もう一度行こう――。  

午前十時過ぎ、街は穏やかだった。通りを行き交うのは地元の人ばかりで、観光客もほとんどいない。  
日の光に照らされる瓦屋根と、古い看板の並ぶ通りが風に揺れる。春らしい空気が心地よい。  

店のドアを開けると、昨日と同じベルの音。  
結衣はカウンターの奥にいて、今日もマグを拭いていた。  

「おはようございます」  
自然に声が出た。  
結衣が顔を上げ、柔らかい表情を浮かべた。  
「おはようございます。昨日も来てくれた方ですよね」  

――覚えていてくれた。  
その一言だけで、胸が少し温かくなる。  

「東京から来られてるのに、もう常連みたいですよ」  
「居心地がいいんですよ、この店」  
軽口を交わす二人のあいだに、わずかな安堵が流れる。  

席につくと、彼女がコーヒーを準備し始めた。  
ガラス越しに射し込む光が彼女の髪を透かして、柔らかい茶色に見える。カップを磨く横顔の仕草までが丁寧で、どこか懐かしかった。  

悠真は音のない午後を楽しむように、黙って彼女の所作を見つめた。  
やがて運ばれてきたコーヒーからは、ほのかに酸味のある香りが漂う。  

「今日はカメラ、持ってこなかったんですね」  
「うん。仕事はもう終わったから。今日はただ、町を歩こうと思って」  
「じゃあ、のんびり過ごせますね」  
「よかったら、このあと少し案内してもらえませんか?」  

自分でも驚くほど、自然にその言葉が出た。  
結衣は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに小さく笑った。  
「案内、ですか?」  
「この町のいろんなところ、見たいんです。地元の人が好きな場所とか」  

結衣は拭いていたカウンターの布を置き、少し考える仕草をした。  
「……うーん、午後なら大丈夫かもしれません。店長――つまり母に代わってもらえるので」  
そして、わずかに恥ずかしそうに視線を下げながら言った。  
「いいですよ。せっかく来てくださったし」  

午後一時、二人は店の外に出た。  
海風町の中心にある通りを抜け、港の方へ向かって歩く。空は一面の青で、海から来る風が心地よい。  

「私、この道を歩くの好きなんです」  
結衣がそう言って笑う。  
「春になると潮の匂いの中に花の香りが混ざるっていうか、変なんですけど」  
「分かります。風に季節が混ざってる感じですね」  
「そう、それ!」  

彼女が嬉しそうに頷いた。その仕草に、以前の結衣を重ねてしまう。  
記憶を失っても、やっぱりどこか彼女は彼女のままだ。そう思うと胸が少し痛んだ。  

港に着くと、船の帆がゆっくりと揺れていた。小さな漁船が出入りする光景は、どこか穏やかで、時間が止まっているようにも見える。  
「昔、よくここでぼんやりしてました」  
そう言って、結衣は手すりにもたれかかった。  
「ここで見る夕陽が一番好きなんです。でも、いつからこうして見るようになったのか、思い出せないんですよね」  

少し寂しそうな声。  
悠真は隣に立ち、静かに海を見つめた。  
「記憶って、ふとしたきっかけで戻ることがあるらしいですよ」  
「そうなんですか?」  
「音とか香りとか、誰かの声とか。そういう小さなことから」  
「……声、か」  
結衣は少し俯いて呟いた。  

沈黙の中、波だけがやさしく岸壁を叩いている。  
悠真は、喉の奥で押し殺した言葉を飲み込む。――俺の声は、もう届かないんだろうか。  

夕方近く、丘の上の小さな神社に寄った。鳥居は錆びかけ、石段は少し崩れていたが、境内から見下ろす町と海の眺めは圧倒的だった。  
「ここ、観光ガイドにもほとんど載ってないんです」  
「確かに知らなかったです。いい場所ですね」  
「父が教えてくれたんです。『迷ったら海を上から見ろ』って」  

父という単語に、悠真の脳裏に五年前の記憶が蘇る。  
結衣が家族のことで苦しんでいた頃の姿。  
それを思い出してしまい、少しだけ息を詰めた。

「東京で、家族は?」と彼女が不意に尋ねた。  
「両親はよく喧嘩してましたけど、今は仲直りしたらしいです」  
「そうなんですね」  
「……でも、遠くに行くと、家族のことって、急に実感がなくなりますね」  

二人のあいだに春の風が吹き抜ける。木漏れ日が結衣の頬を柔らかく照らし、髪がふわりと揺れた。  
「高瀬さんは、どうして写真を撮るんですか?」  
不意の質問に、少し言葉を探した。  
「――たぶん、誰かの『今』を残したいから、かな。忘れたくないものがあるんです」  
「忘れたくないもの、ですか」  
「はい。人って、簡単に思い出を失くしますよね。でも、それを少しでも残せたらって」  

結衣はしばらく黙っていた。やがて、静かに微笑んで言った。  
「いいですね。写真って、記憶みたいなものですもんね」  

その言葉の響きが、妙にやさしかった。  

鳥居の向こうから、小さな鐘の音が聞こえる。  
町のどこかで午後四時を告げる放送のチャイムが流れていた。  

「そろそろ戻らないと、母に怒られちゃうかもしれません」  
「すみません、長い時間つき合わせてしまって」  
「いえ、楽しかったです。こんなにゆっくり町を歩いたの、久しぶりで」  

坂道を並んで降りながら、結衣はふと空を見上げた。  
「不思議ですね。初めて会った人なのに、なんだか前から知ってたみたいで」  
心臓が大きく鳴った。けれど悠真は、笑ってごまかすことしかできなかった。  
「そう思ってもらえたなら、うれしいです」  

店の前まで来ると、西の空は赤く染まり始めていた。  
「今日、一緒に歩けてよかったです。本当に」  
結衣の言葉が波のように胸に残る。

「……こちらこそ、ありがとう」  

別れ際、彼女はふと立ち止まり、目を細めて言った。  
「また明日も来ますか?」  
「うん、最後の日だから。挨拶したいです」  
「じゃあ、また会いましょうね」  

その瞬間、忘れていた呼吸を思い出したように、胸が軽くなった。  
店のドアが閉まる音がして、つむがれた日常の静けさが戻る。  

ホテルに着く頃、東の空には早くも星がいくつか光り始めていた。  
ノートを開き、ペンを取る。  
「結衣と町を歩いた。彼女の記憶には、もう俺はいない。けれど彼女は今、確かに笑っている。」  

書き終えた文字を見つめながら、ふと思う。  
もし過去を取り戻させることができたとしても、彼女が再びあの頃の痛みを思い出すのなら、それは本当に幸せなのか。  

どちらが彼女にとっての“救い”なのだろう――。  

夜の風がわずかに鳴った。  
海の向こうで灯る光が、まるで呼吸のように瞬いている。  
悠真は、その光景をまぶたを閉じたまま焼きつけた。  
明日が、最後の一日になるかもしれないと思いながら。
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