君の声を、もう一度

たまごころ

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第4話 潮騒の喫茶店にて

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翌朝、曇った空が窓の外に広がっていた。いつもより灰色がかった光が差し込み、海の色まで少し鈍く見える。今日は東京へ戻る前日の午前。残された時間はあとわずかだった。

悠真はいつものように早起きして、ノートを開く。昨日の散策で撮った写真データを整理しながら、思い出の断片をひとつひとつ書き留めた。  
知らない町を歩き、知らない彼女と話しているのに、懐かしさばかりが胸を満たしていた。  
結衣の記憶が戻ることを願う気持ちと、このまま何も思い出さないでほしいという複雑な想いが、心の中で揺れていた。

「……あと一日だけだ」

呟いた声が消える。  
ホテルの壁の時計が、朝八時半を指していた。チェックアウトを済ませ、カメラと荷物を肩に掛けてドアを開ける。  
曇り空の下、通りには潮風が漂い、波の音が微かに聞こえた。春の匂いの中に、どこか寂しさが混じっている。  

喫茶seasideの扉を開くと、いつものベルの音が響いた。  
カウンターの中には結衣がいて、今日は白いブラウスに灰色のエプロンをつけていた。髪を後ろでまとめていて、昨日より少し大人びた表情に見える。  

「おはようございます」  
「おはようございます。今日も早いですね」  
「最終日なんですよ。昼の電車で東京に戻ります」  

結衣は一瞬、驚いたように目を瞬かせた。  
「もう帰っちゃうんですか?」  
「ええ。仕事も終わったので、そろそろ」  
「……そうですか。なんだか寂しいですね」  

その言葉の響きが思いのほか柔らかくて、悠真は返す言葉に詰まった。  
「この町、すごくいいところでした。きっとまた来ます」  
「ぜひ。また、いつでも」  

彼女が笑う。その笑顔が、あまりにも昔のままだった。  
席に着くと、彼女はブレンドコーヒーを準備し始めた。お湯を注ぐ音、ミルの香り、カップを置く小さな音――そのどれもが記憶を刺激する。  

「……このお店、ずっと続けてるんですね」  
「はい。母が昔からやってて。私も少し前から本格的に手伝い始めたんです。でも、もともとは父が店を始めたらしくて」  

彼女の言葉に、悠真は静かに耳を傾けた。  
「父は亡くなったので、会った記憶はあんまりなくて。母が話してくれる昔話ばかり。でも、いつか私もこの店をちゃんと継ぎたいんです」  

「立派ですね」  
「そうですか? 何となく、ここが好きなだけかもしれないです」  
カウンターの上で両手を重ねながら、結衣は小さく笑った。  
「この場所に立ってると、落ち着くんです。知らないのに、何か覚えてる気がして」  

悠真の心臓が音を立てた。彼女の口から「覚えてる気がして」という言葉が出た瞬間、記憶と現在が入り混じるような感覚がした。  

「昔、このお店で……誰かと大事な話をしたような気がするんです。でも、思い出せない」  

「大事な話?」  
「そう。何かを決めた。そんな記憶がある気がするんです」  
彼女は視線を遠くへ向けるように窓の外を見つめた。  
「雨の日だった気がします。外は海が少し荒れていて、ここで誰かと話して、私、泣いてた気がする。でも、その相手が誰だったのか、何を話したのか、どうしても思い出せないんです」  

悠真の胸の奥で、過去が蘇った。  
五年前のあの日。彼女がこの店で「別れよう」と言った時間。  
その窓の向こうでも確かに雨が降っていた。  
テーブルの上に置かれたマグカップと、あの時の震える声。  

「……怖いんです」  
結衣が、ぽつりと声を落とす。  
「思い出した途端に、何かを失ってしまいそうで。だから、無理に思い出さないようにしてて。でも、本当にそれでいいのかなって」  

悠真は言葉を失った。  
彼女の無意識が、記憶の奥の痛みを感じ取っているのかもしれない。  
もしかしたら脳ではなく、心がその事実を拒んでいるのかもしれない。  

「記憶って、戻さなきゃいけないものなんでしょうか」  
「……どういう意味ですか?」  
「全部を思い出すより、今のまま幸せなら、それでもいい気がするんです。でも、人はそれを“逃げてる”って言うのかなって」  

彼女の問いに、悠真はしばらく沈黙した。  
彼自身も同じことを考えていた。  
過去を取り戻すことで彼女が傷つくなら、それは本当に“幸せ”なのか。  

「……僕は、今のあなたが笑っていられるなら、それでいいと思います」  
結衣が目を上げた。  
「記憶は、いつか自然に戻るものだと思うし。でも、無理に探すもんじゃない」  
「そう、ですかね」  
「はい。忘れてても、きっと全部なくなるわけじゃない。だって、心はちゃんと覚えてますから」  

結衣はその言葉を聞いて、小さくうなずいた。  
「……誰かにも、そんなこと言われた気がします」  
「え?」  
「“記憶は心の奥に残るから”って。誰だったかな」  

悠真はその言葉を聞きながら、息を飲んだ。  
同じ言葉を、かつて自分が彼女に言ったことがある。  
別れ際、泣きじゃくる彼女に向かって、どうにか伝えようとした一言。  
その記憶が、微かに彼女の中に残っているのだろうか。  

少しの沈黙のあと、結衣は話題を変えるように立ち上がった。  
「コーヒーのおかわり、淹れますね」  
その背中を見送りながら、悠真は胸の奥でそっとつぶやいた。  
――やっぱり、君の中にはちゃんと残ってるよ。  

やがて店の外で、小さな雨音が聞こえ始めた。  
いつの間にか、曇り空からぽつぽつと水滴が落ちている。  
静かな午後。ガラスを叩く音と時計の針の音が、同じリズムで重なった。  

「雨、降ってきましたね」  
「ええ。まさか本当に雨になるとは」  
結衣は優しく笑い、コーヒーを差し出す。  
「帰り、大丈夫ですか?」  
「しばらく降っててくれた方が、ゆっくりできますし」  
「そうですね。急がなくても、いいかもしれません」  

雨脚が少し強まった。窓の向こうに白い波が立ち、港の灯がかすかに光る。  
その光を見ながら、悠真は静かに口を開いた。  

「また、この町に来てもいいですか」  
「もちろん。……でもその時、私、ちゃんと覚えてるかな」  
「覚えてなくても、また出会えばいいですよ。何回だって」  

彼女は少し驚いたように笑い、そして小さく頷いた。  
「……そうですね。何回でも、出会えばいいんですよね」  

雨が止む頃、雲の隙間から光が差し込んできた。  
ガラス越しに射し込む光が、テーブルの水滴をきらめかせる。  
結衣がスプーンを拭いながら、ふと外を見つめて言った。  

「なんだか、この雨、誰かが呼んでるみたい」  
「呼んでる?」  
「うまく言えないけど……懐かしい人を思い出したくなる匂いなんです」  

悠真はその言葉に、小さく頷いた。  
「たぶん、それは間違ってないと思います」  

夕方になり、雨がすっかり上がると、町の空は淡いオレンジ色に変わった。  
港の方から吹く風が潮の匂いを運んでくる。その風とともに、結衣の声がふと耳に残った。  

「また、明日来ますか?」  
悠真は少し迷ってから、ゆっくりと答えた。  
「うん。最後の日の朝、会いに来ます」  

彼女は穏やかに笑った。  
「じゃあ、その時にもう一度、淹れたてのブレンドを出しますね。今日よりちょっと、いい味にします」  

彼女の笑顔の奥に、確かに何かが揺れていた。  
それは、わずかに記憶の扉を叩くような、誰かを思い出そうとする表情だった。  

外に出ると、風は少し冷たかった。  
だが、雨上がりの空に浮かぶうっすらとした虹が、町の屋根の向こうで光っていた。  
悠真は足を止め、その景色をカメラに収めた。  

「記憶も、こんなふうに残ればいいのに」  

レンズ越しの光の中に、微かに結衣の笑顔が重なって見えた。  
そして悠真は、静かに呟いた。  

「また、明日。」
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