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第5話 話さなかった五年間
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朝の光が部屋の隙間から差し込む。
白く薄いカーテンが揺れ、潮の匂いがわずかに入り込んでくる。窓を開けると、海風町の空は透き通るように青く、一日のはじまりを宣言するような波音が遠くから聞こえた。
帰り支度をしながら、悠真はゆっくりと呼吸する。
今日がこの町で過ごす最後の日だった。
スーツケースを閉める手は思ったよりも重かった。
名残惜しさと、何度目かになるため息。
たった数日の滞在で、こんな気持ちになるなんて思ってもいなかった。
けれど、それほどまでにこの町と、彼女の存在が心に沁みこんでいた。
チェックアウトを済ませてから、駅までの路地を歩く。途中で足を止めて空を見上げると、雲一つない快晴だった。
それでも、胸の奥には影のような重さがあった。
喫茶seaside。
小さなベルの音が鳴り、見慣れた香りに包まれた。
カウンターの奥に結衣の姿はなく、店内には母親らしい年配の女性がいた。
やがてその女性が気づき、柔らかく声をかけてくる。
「お客様、昨日来てくださった方ですよね?」
「あ、はい。少しだけ時間があって……。結衣さん、今日は?」
「ええ、少しだけ買い出しに行ってて。すぐ戻ると思います」
母親の穏やかな口調に、悠真は軽く頭を下げて席に着いた。
メニューをめくるふりをしながら、ぼんやりと店内を見渡す。
光が差し込むガラスの模様、壁掛けの時計、天井近くの小さな観葉植物。
すべてが彼女の姿と結びついて見える。
「お待たせしました。昨日と同じブレンドでいいですか?」
母親にそう言われ、反射的に頷いた。
「お願いします」
静かな時間が流れる。外では風が少し強まり、看板がきしむ音がした。
そしてしばらくして、ドアのベルが再び鳴った。
「ただいま戻りましたー……」
明るい声が響く。
振り向くと、エプロンの上からカーディガンを羽織った結衣が立っていた。
手には紙袋を提げている。
「あっ、お客さん」
彼女がこちらを見て、ぱっと表情を明るくした。
「今日、来てくれると思ってました」
「ちゃんと来ましたよ。約束でしたから」
「うれしいです。……お母さん、ちょっと替わりますね」
母親と入れ替わるようにカウンターに入り、手を洗ってから彼女は笑顔を向けてきた。
「朝、晴れましたね。昨日の雨、嘘みたいに」
「本当に。しかも少し暖かい」
「うん、春の匂いがします」
カウンター越しの会話。
その一瞬一瞬がもう二度と来ない時間のように感じられた。
「今日、帰るんですよね」
「ああ、昼の電車で」
「そっか……。早いですね、本当に」
小さく言葉が沈む。その表情に出る寂しさを見て、悠真の胸も震えた。
「結衣さん」
「はい?」
「もし、またこの町に来ても、ここにいますか?」
結衣は少し驚いたように瞬きをして、それから笑った。
「いますよ。だって、私、この店を離れるつもりはないですもん」
「それを聞けてよかった」
ほんの一言だけなのに、安堵が広がる。
結衣はタオルで手を拭きながら、少し照れたように続けた。
「高瀬さん、この数日で見違えるくらい町に溶け込みましたね。地元の人みたい」
「そんなことないですよ。ただ、いい町だと思って。静かで」
「……私も、好きなんです。この空気が」
結衣は窓の外を見つめながら言った。
その横顔を見ていると、言わずにきた五年間の重みが少しずつ浮かび上がる。
思えば、あの日、彼女が突然いなくなってから、自分は何度も心を閉ざした。
仕事も、恋愛も、すべて遠くのことのように感じていた。
彼女を忘れたつもりで、忘れられなかっただけだ。
けれど今、同じ空間にいるのに、彼女の記憶には自分がいない。
それは奇妙な静寂だった。
まるで夢の続きの中にひとり取り残されたような。
「どうしました?」
気づけば、結衣が心配そうに覗きこんでいた。
「いえ……少し、ぼんやりしてただけです」
「疲れてるんですよ。取材もずっとしてたでしょう?」
「まあ、少しだけ」
口元に笑みを作ってみせると、彼女はくすっと笑った。
「じゃあ、今日はゆっくりしてください。最後の日くらいは、ちゃんと休んでほしいです」
「ありがとう」
その優しさが、痛かった。
本当は伝えたかった。
五年前のあの日から、自分の中にしか残っていない彼女との記憶を全部。
どんなに探しても戻らない時間を、ここで抱えてきたことを。
けれど口を開けば、彼女の心を乱すだけかもしれない。
彼女は今、過去の痛みを知らないまま穏やかに生きている。
それを壊すのは、違うと分かっていた。
「ねえ、高瀬さん」
「はい」
「私、昔のことってあんまり覚えてないけど、最近この町に来るお客さんからいろんな話を聞いてると、何か動く感じがするんです。心の奥がざわざわするというか」
「それは、悪い感じ?」
「ううん。むしろ、好きな感じです。懐かしい景色を見たような」
「それなら、きっと悪くない」
結衣は少し考えるように首を傾げ、笑った。
「ねえ、もし私がいつか何かを思い出したら、その時もまた、教えてくれますか? 写真のこととか、東京の話とか」
「もちろん」
「約束、ですよ?」
「ええ、約束です」
指切りをするように、小さく指を重ねる。
その瞬間、彼女の手の温かさが指先に伝わった。
それは、五年前と同じ温もりだった。
――何も変わっていない。
それが嬉しくて、同時に胸が締め付けられた。
しばらくして、彼女の母親が厨房から顔を出した。
「結衣、買ってきたもの片づけたなら少し休みなさい」
「うん、わかった」
母親が悠真の方を見て、小さく微笑む。
「結衣、あなたが来てからすごく楽しそうでしたよ。ありがとうございます」
「いえ、とんでもないです」
思わず視線を伏せた。そんなふうに言われると、嬉しさと切なさが同時に込み上げてくる。
昼が近づき、店を出る時間が来た。
「そろそろ行かないと」
「……そうですよね」
窓際の椅子から立ち上がると、結衣はエプロンのポケットから小さな紙袋を取り出した。
「これ、昨日のレモンパイ、少し改良したんです。帰りの電車で食べてください」
「ありがとう。大切にします」
「お気をつけて。ちゃんと、また来てくださいね」
「約束します」
ベルが鳴る。
最後に扉を閉める瞬間、振り返ると、彼女がカウンターの奥で手を振っていた。
その笑顔が目に焼きつく。
再び同じ場所で会えるのかは分からない。
けれど、彼女が今笑っていられることが、それだけで救いだった。
駅のホーム。汽笛の音とともに列車が動き出す。
窓の外の景色が流れていく。町の輪郭が遠ざかっていく。
心の中で小さく呟いた。
「五年間、言えなかった言葉は、まだあの町に置いていこう」
海の向こうに光る水平線が、一筋の道のように続いていた。
それが未来へ続く道のように思えて、悠真は目を細めた。
やがて列車がトンネルへ入る。
闇の中で、先ほど交わした指先の感触だけが鮮明に残っていた。
その温もりを忘れまいと、彼は静かに拳を握った。
白く薄いカーテンが揺れ、潮の匂いがわずかに入り込んでくる。窓を開けると、海風町の空は透き通るように青く、一日のはじまりを宣言するような波音が遠くから聞こえた。
帰り支度をしながら、悠真はゆっくりと呼吸する。
今日がこの町で過ごす最後の日だった。
スーツケースを閉める手は思ったよりも重かった。
名残惜しさと、何度目かになるため息。
たった数日の滞在で、こんな気持ちになるなんて思ってもいなかった。
けれど、それほどまでにこの町と、彼女の存在が心に沁みこんでいた。
チェックアウトを済ませてから、駅までの路地を歩く。途中で足を止めて空を見上げると、雲一つない快晴だった。
それでも、胸の奥には影のような重さがあった。
喫茶seaside。
小さなベルの音が鳴り、見慣れた香りに包まれた。
カウンターの奥に結衣の姿はなく、店内には母親らしい年配の女性がいた。
やがてその女性が気づき、柔らかく声をかけてくる。
「お客様、昨日来てくださった方ですよね?」
「あ、はい。少しだけ時間があって……。結衣さん、今日は?」
「ええ、少しだけ買い出しに行ってて。すぐ戻ると思います」
母親の穏やかな口調に、悠真は軽く頭を下げて席に着いた。
メニューをめくるふりをしながら、ぼんやりと店内を見渡す。
光が差し込むガラスの模様、壁掛けの時計、天井近くの小さな観葉植物。
すべてが彼女の姿と結びついて見える。
「お待たせしました。昨日と同じブレンドでいいですか?」
母親にそう言われ、反射的に頷いた。
「お願いします」
静かな時間が流れる。外では風が少し強まり、看板がきしむ音がした。
そしてしばらくして、ドアのベルが再び鳴った。
「ただいま戻りましたー……」
明るい声が響く。
振り向くと、エプロンの上からカーディガンを羽織った結衣が立っていた。
手には紙袋を提げている。
「あっ、お客さん」
彼女がこちらを見て、ぱっと表情を明るくした。
「今日、来てくれると思ってました」
「ちゃんと来ましたよ。約束でしたから」
「うれしいです。……お母さん、ちょっと替わりますね」
母親と入れ替わるようにカウンターに入り、手を洗ってから彼女は笑顔を向けてきた。
「朝、晴れましたね。昨日の雨、嘘みたいに」
「本当に。しかも少し暖かい」
「うん、春の匂いがします」
カウンター越しの会話。
その一瞬一瞬がもう二度と来ない時間のように感じられた。
「今日、帰るんですよね」
「ああ、昼の電車で」
「そっか……。早いですね、本当に」
小さく言葉が沈む。その表情に出る寂しさを見て、悠真の胸も震えた。
「結衣さん」
「はい?」
「もし、またこの町に来ても、ここにいますか?」
結衣は少し驚いたように瞬きをして、それから笑った。
「いますよ。だって、私、この店を離れるつもりはないですもん」
「それを聞けてよかった」
ほんの一言だけなのに、安堵が広がる。
結衣はタオルで手を拭きながら、少し照れたように続けた。
「高瀬さん、この数日で見違えるくらい町に溶け込みましたね。地元の人みたい」
「そんなことないですよ。ただ、いい町だと思って。静かで」
「……私も、好きなんです。この空気が」
結衣は窓の外を見つめながら言った。
その横顔を見ていると、言わずにきた五年間の重みが少しずつ浮かび上がる。
思えば、あの日、彼女が突然いなくなってから、自分は何度も心を閉ざした。
仕事も、恋愛も、すべて遠くのことのように感じていた。
彼女を忘れたつもりで、忘れられなかっただけだ。
けれど今、同じ空間にいるのに、彼女の記憶には自分がいない。
それは奇妙な静寂だった。
まるで夢の続きの中にひとり取り残されたような。
「どうしました?」
気づけば、結衣が心配そうに覗きこんでいた。
「いえ……少し、ぼんやりしてただけです」
「疲れてるんですよ。取材もずっとしてたでしょう?」
「まあ、少しだけ」
口元に笑みを作ってみせると、彼女はくすっと笑った。
「じゃあ、今日はゆっくりしてください。最後の日くらいは、ちゃんと休んでほしいです」
「ありがとう」
その優しさが、痛かった。
本当は伝えたかった。
五年前のあの日から、自分の中にしか残っていない彼女との記憶を全部。
どんなに探しても戻らない時間を、ここで抱えてきたことを。
けれど口を開けば、彼女の心を乱すだけかもしれない。
彼女は今、過去の痛みを知らないまま穏やかに生きている。
それを壊すのは、違うと分かっていた。
「ねえ、高瀬さん」
「はい」
「私、昔のことってあんまり覚えてないけど、最近この町に来るお客さんからいろんな話を聞いてると、何か動く感じがするんです。心の奥がざわざわするというか」
「それは、悪い感じ?」
「ううん。むしろ、好きな感じです。懐かしい景色を見たような」
「それなら、きっと悪くない」
結衣は少し考えるように首を傾げ、笑った。
「ねえ、もし私がいつか何かを思い出したら、その時もまた、教えてくれますか? 写真のこととか、東京の話とか」
「もちろん」
「約束、ですよ?」
「ええ、約束です」
指切りをするように、小さく指を重ねる。
その瞬間、彼女の手の温かさが指先に伝わった。
それは、五年前と同じ温もりだった。
――何も変わっていない。
それが嬉しくて、同時に胸が締め付けられた。
しばらくして、彼女の母親が厨房から顔を出した。
「結衣、買ってきたもの片づけたなら少し休みなさい」
「うん、わかった」
母親が悠真の方を見て、小さく微笑む。
「結衣、あなたが来てからすごく楽しそうでしたよ。ありがとうございます」
「いえ、とんでもないです」
思わず視線を伏せた。そんなふうに言われると、嬉しさと切なさが同時に込み上げてくる。
昼が近づき、店を出る時間が来た。
「そろそろ行かないと」
「……そうですよね」
窓際の椅子から立ち上がると、結衣はエプロンのポケットから小さな紙袋を取り出した。
「これ、昨日のレモンパイ、少し改良したんです。帰りの電車で食べてください」
「ありがとう。大切にします」
「お気をつけて。ちゃんと、また来てくださいね」
「約束します」
ベルが鳴る。
最後に扉を閉める瞬間、振り返ると、彼女がカウンターの奥で手を振っていた。
その笑顔が目に焼きつく。
再び同じ場所で会えるのかは分からない。
けれど、彼女が今笑っていられることが、それだけで救いだった。
駅のホーム。汽笛の音とともに列車が動き出す。
窓の外の景色が流れていく。町の輪郭が遠ざかっていく。
心の中で小さく呟いた。
「五年間、言えなかった言葉は、まだあの町に置いていこう」
海の向こうに光る水平線が、一筋の道のように続いていた。
それが未来へ続く道のように思えて、悠真は目を細めた。
やがて列車がトンネルへ入る。
闇の中で、先ほど交わした指先の感触だけが鮮明に残っていた。
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