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第6話 閉じた記憶
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東京へ戻ってからの数日は、まるで他人の時間の中にいるようだった。
いつも通りの電車、同じオフィスの風景、パソコンの画面に映る取材の原稿。
それなのに、何もかもが薄い膜の向こうにあるように感じた。
「高瀬さん、記事の初稿、週末までで大丈夫ですか?」
同僚の声に顔を上げて瞬きをする。
「あ、はい。大丈夫です」
そう答えながら、モニターに開いた記事の原稿を見つめる。
“地方小都市の魅力再発見”というタイトルの真下に、“海風町”の文字がある。
取材先の人々の優しさ、町の風景、古い喫茶店の香り――すべてを文章にまとめようとするたびに、結衣の笑顔が脳裏に浮かぶ。
書きかけの文が手の中で何度も止まり、消されては打ち直される。
「コーヒーの香りに記憶が宿る。」
タイピングしたその一文を見て、悠真は小さくため息をついた。まるで彼女のことを暗喩しているようだった。
夕方になっても、仕事場の窓の外には灰色の空が広がる。
都会の喧騒が遠くに聞こえ、車のエンジン音が一定のリズムで流れていく。
悠真はデスクの上のノートを開いた。
最終日に書いた一行が目に飛び込む。
――五年間、言えなかった言葉は、あの町に置いてきた。
指でその文字をなぞる。
胸の奥に小さな痛みが残る。
あの町で過ごしたたった数日が、過去五年間よりも鮮やかに覚えている。
コーヒーの湯気の向こうで微笑んでいた結衣。
「心が動いたら、それがすべてだと思うんです。」
彼女の言葉が、今も耳の奥で響いている。
その夜、帰宅しても部屋の明かりをつける気になれなかった。
窓の外では、春の雨が静かに降っていた。
パソコンの電源を切り、代わりにカメラの電源を入れる。
数日前のデータフォルダを開くと、海風町の風景がモニターいっぱいに映し出された。
港、坂道、喫茶店の外観、神社の鳥居、そして――
彼女がレモンパイを差し出した瞬間の写真。
カウンター越しの柔らかな笑顔。
シャッターを切った時の感覚が手の中に蘇る。
指先が震えたまま、悠真は深く息を吸った。
あの時、もう少しだけ勇気があれば、何か伝えられたのだろうか。
「君を忘れられなかった」
その一言すら、今では遠い記憶の奥に沈んでいる。
翌朝。
会社に向かう途中で、スマホの画面が震えた。
見慣れない番号からの通知――市外局番は海風町のものだった。
呼吸が一気に乱れる。急いで立ち止まり、通話ボタンを押す。
『――高瀬さんですか?』
女性の穏やかな声。店で聞いたことがある。
「はい。……喫茶seasideの?」
『あ、覚えてくださっててよかった。母の宮川です。朝からすみません』
一瞬にして心臓が跳ねる。
『実は……結衣が、あなたの名刺を見つけまして。記事の校正のお願いか何かで、連絡をしてみようと――』
「結衣さんが、俺の……?」
『はい。でも、その時に少し倒れてしまって。幸い大事には至らなかったんですが、病院で念のため検査していて。あなたの話を聞いてみたいと言っていたので……』
世界が一瞬にして静まり返った。
人の流れが喧噪とともに遠のき、電話越しの母親の声だけが現実に響いている。
「……すぐに伺います」
その言葉が口をついて出た時、自分でも驚くほど迷いはなかった。
週末、悠真は再び海風町へ向かった。
列車の窓から流れる景色は変わらないのに、心の中の音はまるで違っていた。
春の海が陽を反射し、まばゆく光っている。
病院に着くと、結衣の母が待っていた。
「遠いところありがとうございます。娘はもう大丈夫なんです。ただ……夢の中で誰かの名前を呼んでいたみたいで」
「名前……?」
「ええ、“悠真”と。もしかしてあなたのことではないかと」
その瞬間、時間が止まった。
喉の奥が乾き、言葉が出ない。
それでも顔を上げると、母親は優しく微笑んで病室の扉を指さした。
「会ってあげてください。きっと喜びます」
白い扉を開ける。
部屋の中では、窓際に座る結衣が夕方の光を背にしていた。
枕元に並ぶ花瓶の花。
病室の壁の時計が静かに針を進めている。
彼女は窓から海を見ていて、気づいたように振り返った。
「――あ」
驚いたように目を見開き、それからすぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「本当に……来てくれたんですね」
「倒れたって聞いて、心配で」
「大丈夫です。ちょっと貧血みたいなもので。すぐに退院できるって」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた何かがほどけた。
言葉は出ない。ただ、彼女の顔を見ているだけでいいと思った。
「名刺の話、母から聞きました」
「ええ。記事の写真を見て、懐かしい気がしたんです。
あの町の写真なのに、ずっと前から知ってる景色みたいで」
「もしかして、少し思い出したんですか」
「ううん、思い出したというより……“感じた”んです。
写真を見た時、心のどこかで“この人を撮ったことがある”って」
悠真は、その言葉に呼吸を忘れた。
結衣の視線の奥には、確かに何かが蘇りつつある光があった。
「それに、“悠真”って名前も、そのあと急に頭に浮かんで。夢の中で呼んでいたらしいです」
「俺の名前を……?」
「はい。変ですよね。会って間もないのに」
「いや……変じゃないです」
頭の奥が白く霞む。涙がこみ上げそうになったが、笑顔でそれを抑えた。
「あなたと会ってから、昔の夢を見るようになったんです。海辺の町の喫茶店で、誰かと話している夢。少し泣いていて、その人が“また会おう”って言ってくれる」
「それは……」
「ねえ、悠真さん」
彼女は優しく名前を呼んだ。
「その人が、あなたですか?」
その問いに、喉が震えた。
肯定すれば彼女の過去が戻る。
否定すれば、今の彼女を守れる。
数秒の沈黙が永遠に感じた。
雨上がりのような光が窓辺を照らし、風がカーテンを揺らした。
「……そうかもしれない。でも、答えは急がなくていいです」
「急がなくて?」
「うん。今のあなたが笑っていられるなら、俺はそれで充分だから」
結衣は少し驚いたように目を見開いたが、やがて静かに頷いた。
「不思議ですね。初めて会った人なのに、こんなに安心するなんて」
「俺も同じです」
夕陽が傾き、病室の中が金色に染まる。
その光の中で、彼女の髪が柔らかく輝いた。
帰り際、結衣がポケットから何かを取り出した。
小さなレモンの飴玉だった。
「これ、母が差し入れにくれたんです。酸っぱいけど、好きなんです」
彼女は照れたように笑い、それを悠真の手に乗せた。
「また会えますか?」
「もちろん。また来ます」
扉を閉めたあとも、レモンの香りが手に残った。
その酸っぱさが、涙と重なる。
病院を出ると、夜の海風町の街灯が点り始めていた。
遠くで波の音が途切れ途切れに響いている。
その音を聞きながら、悠真はゆっくりと空を見上げた。
閉じたはずの記憶は、まだ完全には眠っていなかった。
そして彼の心も、もう一度動き出していた。
いつも通りの電車、同じオフィスの風景、パソコンの画面に映る取材の原稿。
それなのに、何もかもが薄い膜の向こうにあるように感じた。
「高瀬さん、記事の初稿、週末までで大丈夫ですか?」
同僚の声に顔を上げて瞬きをする。
「あ、はい。大丈夫です」
そう答えながら、モニターに開いた記事の原稿を見つめる。
“地方小都市の魅力再発見”というタイトルの真下に、“海風町”の文字がある。
取材先の人々の優しさ、町の風景、古い喫茶店の香り――すべてを文章にまとめようとするたびに、結衣の笑顔が脳裏に浮かぶ。
書きかけの文が手の中で何度も止まり、消されては打ち直される。
「コーヒーの香りに記憶が宿る。」
タイピングしたその一文を見て、悠真は小さくため息をついた。まるで彼女のことを暗喩しているようだった。
夕方になっても、仕事場の窓の外には灰色の空が広がる。
都会の喧騒が遠くに聞こえ、車のエンジン音が一定のリズムで流れていく。
悠真はデスクの上のノートを開いた。
最終日に書いた一行が目に飛び込む。
――五年間、言えなかった言葉は、あの町に置いてきた。
指でその文字をなぞる。
胸の奥に小さな痛みが残る。
あの町で過ごしたたった数日が、過去五年間よりも鮮やかに覚えている。
コーヒーの湯気の向こうで微笑んでいた結衣。
「心が動いたら、それがすべてだと思うんです。」
彼女の言葉が、今も耳の奥で響いている。
その夜、帰宅しても部屋の明かりをつける気になれなかった。
窓の外では、春の雨が静かに降っていた。
パソコンの電源を切り、代わりにカメラの電源を入れる。
数日前のデータフォルダを開くと、海風町の風景がモニターいっぱいに映し出された。
港、坂道、喫茶店の外観、神社の鳥居、そして――
彼女がレモンパイを差し出した瞬間の写真。
カウンター越しの柔らかな笑顔。
シャッターを切った時の感覚が手の中に蘇る。
指先が震えたまま、悠真は深く息を吸った。
あの時、もう少しだけ勇気があれば、何か伝えられたのだろうか。
「君を忘れられなかった」
その一言すら、今では遠い記憶の奥に沈んでいる。
翌朝。
会社に向かう途中で、スマホの画面が震えた。
見慣れない番号からの通知――市外局番は海風町のものだった。
呼吸が一気に乱れる。急いで立ち止まり、通話ボタンを押す。
『――高瀬さんですか?』
女性の穏やかな声。店で聞いたことがある。
「はい。……喫茶seasideの?」
『あ、覚えてくださっててよかった。母の宮川です。朝からすみません』
一瞬にして心臓が跳ねる。
『実は……結衣が、あなたの名刺を見つけまして。記事の校正のお願いか何かで、連絡をしてみようと――』
「結衣さんが、俺の……?」
『はい。でも、その時に少し倒れてしまって。幸い大事には至らなかったんですが、病院で念のため検査していて。あなたの話を聞いてみたいと言っていたので……』
世界が一瞬にして静まり返った。
人の流れが喧噪とともに遠のき、電話越しの母親の声だけが現実に響いている。
「……すぐに伺います」
その言葉が口をついて出た時、自分でも驚くほど迷いはなかった。
週末、悠真は再び海風町へ向かった。
列車の窓から流れる景色は変わらないのに、心の中の音はまるで違っていた。
春の海が陽を反射し、まばゆく光っている。
病院に着くと、結衣の母が待っていた。
「遠いところありがとうございます。娘はもう大丈夫なんです。ただ……夢の中で誰かの名前を呼んでいたみたいで」
「名前……?」
「ええ、“悠真”と。もしかしてあなたのことではないかと」
その瞬間、時間が止まった。
喉の奥が乾き、言葉が出ない。
それでも顔を上げると、母親は優しく微笑んで病室の扉を指さした。
「会ってあげてください。きっと喜びます」
白い扉を開ける。
部屋の中では、窓際に座る結衣が夕方の光を背にしていた。
枕元に並ぶ花瓶の花。
病室の壁の時計が静かに針を進めている。
彼女は窓から海を見ていて、気づいたように振り返った。
「――あ」
驚いたように目を見開き、それからすぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「本当に……来てくれたんですね」
「倒れたって聞いて、心配で」
「大丈夫です。ちょっと貧血みたいなもので。すぐに退院できるって」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた何かがほどけた。
言葉は出ない。ただ、彼女の顔を見ているだけでいいと思った。
「名刺の話、母から聞きました」
「ええ。記事の写真を見て、懐かしい気がしたんです。
あの町の写真なのに、ずっと前から知ってる景色みたいで」
「もしかして、少し思い出したんですか」
「ううん、思い出したというより……“感じた”んです。
写真を見た時、心のどこかで“この人を撮ったことがある”って」
悠真は、その言葉に呼吸を忘れた。
結衣の視線の奥には、確かに何かが蘇りつつある光があった。
「それに、“悠真”って名前も、そのあと急に頭に浮かんで。夢の中で呼んでいたらしいです」
「俺の名前を……?」
「はい。変ですよね。会って間もないのに」
「いや……変じゃないです」
頭の奥が白く霞む。涙がこみ上げそうになったが、笑顔でそれを抑えた。
「あなたと会ってから、昔の夢を見るようになったんです。海辺の町の喫茶店で、誰かと話している夢。少し泣いていて、その人が“また会おう”って言ってくれる」
「それは……」
「ねえ、悠真さん」
彼女は優しく名前を呼んだ。
「その人が、あなたですか?」
その問いに、喉が震えた。
肯定すれば彼女の過去が戻る。
否定すれば、今の彼女を守れる。
数秒の沈黙が永遠に感じた。
雨上がりのような光が窓辺を照らし、風がカーテンを揺らした。
「……そうかもしれない。でも、答えは急がなくていいです」
「急がなくて?」
「うん。今のあなたが笑っていられるなら、俺はそれで充分だから」
結衣は少し驚いたように目を見開いたが、やがて静かに頷いた。
「不思議ですね。初めて会った人なのに、こんなに安心するなんて」
「俺も同じです」
夕陽が傾き、病室の中が金色に染まる。
その光の中で、彼女の髪が柔らかく輝いた。
帰り際、結衣がポケットから何かを取り出した。
小さなレモンの飴玉だった。
「これ、母が差し入れにくれたんです。酸っぱいけど、好きなんです」
彼女は照れたように笑い、それを悠真の手に乗せた。
「また会えますか?」
「もちろん。また来ます」
扉を閉めたあとも、レモンの香りが手に残った。
その酸っぱさが、涙と重なる。
病院を出ると、夜の海風町の街灯が点り始めていた。
遠くで波の音が途切れ途切れに響いている。
その音を聞きながら、悠真はゆっくりと空を見上げた。
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