君の声を、もう一度

たまごころ

文字の大きさ
7 / 30

第7話 それでも会いたくて

しおりを挟む
列車の窓の外では、ゆっくりと春の海が遠ざかっていく。  
悠真は座席にもたれ、胸ポケットから小さなレモンの飴を取り出した。  
透明な包み越しに手の温もりを感じる。あの病室で、結衣が笑いながら渡してくれた飴だ。  
酸っぱくて甘い、それだけの小さなものなのに、掌の中ではやけに重かった。

病院を出てから数日。東京に戻っても、日常は元の姿を取り戻せなかった。  
会社では案件が重なり、上司の指示に追われ、スケジュール表は容赦なく埋まっていく。  
けれど、どんなに仕事をしても、帰り道のビルのガラスに映る自分の顔には、疲労と“何かを待つような影”があった。  

――もう一度、会いたい。

その思いが消えることはなかった。  
記憶を失ってもなお、彼女の中にいつかの残響が残っているのなら、自分がその続きを確かめなければならない。  

雨の夜、部屋の中でノートを開いた。  
ページの隅に書き足された言葉が増えていく。  
「夢の中で、君はまだ泣いていた」「閉じた記憶は、ただ眠っているだけ」  
仕事の原稿ではなく、ただ自分の心の揺れを書き留めるような文字だった。

翌朝、出社前にコーヒーを淹れる。  
カップを口に運んだ瞬間、ほんのわずかだが潮風のような香りがした気がした。  
なぜだろうと思いながら、気づいた。  
あの喫茶店で飲んだブレンド――それとよく似た深みのある酸味。記憶は味にも宿るのだと、改めて思った。  

「行こう」  
気づけば声に出していた。  
出張の名目をつける理由はいくらでもあった。海風町の特集記事の続編、取材の追加撮影、アフターストーリー。  
上司に話をすると、「最近よく売れてる企画だから続編いいかもな」とあっさり許可が出た。  
その数時間後には、旅の道順を検索する自分がいた。

数日後、再び海風町の駅に降り立った。  
息を吸い込むと、懐かしい潮の香りが肺を満たした。  
太陽の下、待合室のベンチに座ると、不思議なくらい心のざわめきが静まっていく。  
町は何も変わっていなかった。けれど、自分の中で何かが変わっている。  

あの喫茶店の前に立つと、扉の向こうからカップの音が聞こえた。  
ベルの音。  
「いらっしゃいませ」  
彼女の声がした。少しだけ、以前よりも落ち着いたトーン。  

「……高瀬さん!」  
結衣が目を丸くして声を上げた。  
「来てくれたんですね、本当に」  
「ええ。記事の続きの取材で、またこの町を紹介しようと思って」  
「そうなんですか。よかった……また会える気がしてたんです」  

“また会える気がしてた”  
その言葉が胸を打つほど素直に響いた。  

「体調はもう大丈夫ですか?」  
「はい。少し休んで元気になりました。母も心配してたけど、すぐに仕事に戻っちゃいました」  
「無理はしないでくださいね」  
「ふふ、ありがとうございます。……あ、今日もブレンドでいいですか?」  
「ええ、お願いします」  

カウンターの向こうで彼女がコーヒーを淹れる。  
その仕草を見ていると、自分の心拍数が少しずつ戻っていく気がした。  
彼女の動き一つ一つが、まるで時間を巻き戻していくようだった。  

カップを受け取り、ゆっくりと一口。  
熱と香りが喉を通り、目を閉じた。  
「やっぱり、ここの味は特別ですね」  
「そう言ってもらえると嬉しいです。母も最近、新しい豆を取り寄せてて。……あ、そういえば!」  
結衣はカウンターの下を探り、小さなノートを取り出した。  
「この前、母が“あの方に渡して”って言ってたんです。いつ倒れたときにポケットに入ってたらしくて」  
「ノート?」  
「はい。私のじゃないみたいで、でも名前が書いてなくて」  

手渡された黒いメモ帳の表紙を見た瞬間、息が止まった。  
自分があの町を去る時、取材ノートとは別に持ち歩いていた、古い旅のメモ帳だった。  
放っておいたまま、店かどこかで忘れたのだろう。  
表紙の隅には、かすかにインクが滲んで「T.Y」と記されている。  

ページをめくると、ところどころに鉛筆の跡。  
港の風景スケッチ、町の地図、そして――  
「結衣に再会。彼女は俺を覚えていない。」  
その一文を見た瞬間、身体が固まった。  

「……それ、やっぱり高瀬さんのだったんですね」  
「……はい。忘れていったみたいです」  
「ごめんなさい、読んじゃって。母が“取材メモじゃないか”って言ってて……」  
「構いません」  

そう言いながら、胸が痛んだ。  
彼女が読んだのは、つまり自分が彼女の記憶喪失を知っていたという事実でもあった。  
だが彼女は続きを静かに言った。  

「私、その文章を見た時、なぜか泣いてたんです。……理由は分かりません。誰のことかも知らないのに、“私だ”って、直感でそう思いました」  
「……」  
「不思議ですよね。でも、その時から思い出すようになったんです。駅のホーム、レモンパイを焼く匂い、そして――『また会おう』って言った声」  

カウンターの奥で、湯気が静かに立ち上る。  
悠真の胸の中で時間が止まる。  
彼女がようやく、過去の扉を少しだけ開いたのだ。  

「悠真さん。その人、あなたですよね?」  
ゆっくりと名を呼ばれた。  
かすれた声が空気の粒を震わせる。  
「うん。俺です」  
答えた瞬間、結衣の瞳が潤んだ。  

「やっぱり……そうなんだ」  
彼女は笑いながら泣いた。  
「頭の中では覚えていないのに、ずっとあなたの声だけが残ってたんです」  

言葉が出なかった。  
ただ目の前の彼女を見つめるしかなかった。  
思い出せなくても、心は覚えていた。あの日自分が信じた通りだった。  

「なぜ、いなくなったの?」  
気がつけば、口から出ていた。  
彼女は少し俯き、指先でエプロンの端を握りながら言った。  
「事故のあと、誰の顔も声も思い出せなくて……。東京にいた自分も、誰と暮らしていたかも、何も分からなくなって。でも、母が“実家に戻ろう”って言って。それからずっと、この町で暮らしてたんです」  
「そうだったんですね」  
「何度も夢を見ました。知らない街で、名前を呼ぶ誰かに手を伸ばす夢。でも顔は見えない。そのたびに胸が痛くて、意味も分からず涙が出て……」  

その言葉に、悠真はただ小さく頷いた。  
彼女が背負っていたものは想像よりも深く、長い。  

沈黙ののち、結衣が微笑んだ。  
「でも、もう怖くないかもしれません。思い出したくない過去でも、あなたが隣にいた時間があったなら、それは嬉しいことです」  
「俺も、また出会えたことが嬉しい」  

二人は同時に笑った。  
外では潮風がガラスを叩き、春の陽が差し込んでくる。  

その後もしばらく言葉を交わさず、彼女が淹れたコーヒーを静かに飲んだ。  
「ねえ、悠真さん」  
「うん」  
「また写真、撮りますか? 今度は私が撮る番でいいですか?」  
「いいね。撮ってもらおう」  

彼女は笑顔でカメラを手に取り、店の外へ出た。  
逆光の光に包まれて、シャッターの音が鳴る。  
「撮れました!」  
ファインダーを覗く彼女の声が、どこまでも柔らかかった。  

カメラの中に残るのは、五年前とは少し違う笑顔。  
けれど、確かに同じ“結衣”の笑顔だった。  

その夜。  
ホテルのベッドに座って、悠真は今日撮られた写真を見返していた。  
画面に写る自分と彼女。  
肩が少し触れるくらい近くに立つ二人の姿。  

光の中で笑い合うその一枚は、過去でも未来でもなく、今この瞬間を焼きつけていた。  

――それでも会いたくて。  
その思いが導いた再会は、まだ物語の始まりにすぎなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

10年引きこもりの私が外に出たら、御曹司の妻になりました

専業プウタ
恋愛
25歳の桜田未来は中学生から10年以上引きこもりだったが、2人暮らしの母親の死により外に出なくてはならなくなる。城ヶ崎冬馬は女遊びの激しい大手アパレルブランドの副社長。彼をストーカーから身を張って助けた事で未来は一時的に記憶喪失に陥る。冬馬はちょっとした興味から、未来は自分の恋人だったと偽る。冬馬は未来の純粋さと直向きさに惹かれていき、嘘が明らかになる日を恐れながらも未来の為に自分を変えていく。そして、未来は恐れもなくし、愛する人の胸に飛び込み夢を叶える扉を自ら開くのだった。

年下男子に追いかけられて極甘求婚されています

あさの紅茶
恋愛
◆結婚破棄され憂さ晴らしのために京都一人旅へ出かけた大野なぎさ(25) 「どいつもこいつもイチャイチャしやがって!ムカつくわー!お前ら全員幸せになりやがれ!」 ◆年下幼なじみで今は京都の大学にいる富田潤(20) 「京都案内しようか?今どこ?」 再会した幼なじみである潤は実は子どもの頃からなぎさのことが好きで、このチャンスを逃すまいと猛アプローチをかける。 「俺はもう子供じゃない。俺についてきて、なぎ」 「そんなこと言って、後悔しても知らないよ?」

消えた記憶

詩織
恋愛
交通事故で一部の記憶がなくなった彩芽。大事な旦那さんの記憶が全くない。

元恋人と、今日から同僚です

紗和木 りん
恋愛
女性向けライフスタイル誌・編集部で働く結城真帆(29)。 仕事一筋で生きてきた彼女の前に、ある日突然、五年前に別れた元恋人が現れた。 「今日から、この部署に配属になった」 そう告げたのは、穏やかで理性的な朝倉。 かつて、将来や価値観のすれ違いから別れた相手だ。 仕事として割り切ろうと距離を取る真帆だったが、過去の別れが誤解と説明不足によるものだったことが少しずつ見えてくる。 恋愛から逃げてきた女と、想いを言葉にできなかった男。 仕事も感情も投げ出さず、逃げずに選び直した先にあるのは「やり直し」ではなく……。 元恋人と同僚になった二人。 仕事から始まる新しい恋の物語。

【完結済】春を迎えに~番という絆に導かれて~

廻野 久彩
恋愛
辺境の村から王都の星環教会へやってきた研修生アナベル・ウィンダーミア。 門で出会った王族直属騎士団副団長ルシアン・ヴァルセインと握手を交わした瞬間、二人の手首に金色の光が浮かび上がる。 それは"番"——神が定めた魂の半身の証。 物語の中でしか聞いたことのない奇跡的な出会いに胸を躍らせるアナベルだったが、ルシアンの口から告げられたのは冷酷な現実だった。 「俺には……すでに婚約者がいる」 その婚約者こそ、名門ルヴェリエ家の令嬢セレナ。国境の緊張が高まる中、彼女との政略結婚は王国の命運を左右する重要な政治的意味を持っていた。 番の衝動に身を焼かれながらも、決して越えてはならない一線を守ろうとするルシアン。 想い人を諦めきれずにいながら、彼の立場を理解しようと努めるアナベル。 そして、すべてを知りながらも優雅に微笑み続けるセレナ。 三人の心は複雑に絡み合い、それぞれが異なる痛みを抱えながら日々を過ごしていく。 政略と恋情、義務と本心、誠実さと衝動—— 揺れ動く想いの果てに、それぞれが下す選択とは。 番という絆に翻弄されながらも、最後に自分自身の意志で道を選び取る三人の物語。 愛とは選ぶこと。 幸せとは、選んだ道を自分の足で歩くこと。 番の絆を軸に描かれる、大人のファンタジーロマンス。 全20話完結。 **【キーワード】** 番・運命の相手・政略結婚・三角関係・騎士・王都・ファンタジー・恋愛・完結済み・ハッピーエンド

溺愛のフリから2年後は。

橘しづき
恋愛
 岡部愛理は、ぱっと見クールビューティーな女性だが、中身はビールと漫画、ゲームが大好き。恋愛は昔に何度か失敗してから、もうするつもりはない。    そんな愛理には幼馴染がいる。羽柴湊斗は小学校に上がる前から仲がよく、いまだに二人で飲んだりする仲だ。実は2年前から、湊斗と愛理は付き合っていることになっている。親からの圧力などに耐えられず、酔った勢いでついた嘘だった。    でも2年も経てば、今度は結婚を促される。さて、そろそろ偽装恋人も終わりにしなければ、と愛理は思っているのだが……?

睡蓮

樫野 珠代
恋愛
入社して3か月、いきなり異動を命じられたなぎさ。 そこにいたのは、出来れば会いたくなかった、会うなんて二度とないはずだった人。 どうしてこんな形の再会なの?

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜

椿かもめ
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。 【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】 ☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆ ※ベリーズカフェでも掲載中 ※推敲、校正前のものです。ご注意下さい

処理中です...