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第8話 手のひらの温度
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翌朝、海風町の空は淡い霧に包まれていた。海から吹く風は昨夜より冷たく、通りに立つ看板が微かに揺れている。
太陽は見えないが、空気の中には確かに光があった。町全体が静寂の中で呼吸しているように感じられた。
悠真は宿のベッドで目を覚まし、天井を見つめたまましばらく動けなかった。
昨夜の出来事が、まだ夢と現実のあいだを漂っている。
結衣が泣きながら笑ったあの瞬間、自分の胸の奥で止まっていた時間が再び動きはじめた。
五年間、何も変わらなかった心の中に、光が差し込んだようだった。
窓を開けると潮の香りが入り込む。霧の向こうにかろうじて桟橋が見えた。
今日もあの喫茶店へ行こう。迷う理由はもうなかった。
午前十時。
店のベルの音とともに、いつもの香ばしい空気が迎えてくれる。
結衣はカウンターの奥で花瓶に花を生けていた。薄桃色のカーネーション。
こちらに気づくと、嬉しそうに手を振った。
「おはようございます、悠真さん」
「おはよう。今日も開店早々に来ちゃいました」
「ふふ、そんな気がしてました。もう常連さんですね」
彼女の笑顔は、昨日より柔らかかった。
その表情を見ただけで、言葉がなくても通じる気がした。
五年前、こんな穏やかな朝を二人で迎えたことがあっただろうか。
「昨日、撮った写真を見ました」
「えっ、本当ですか?」
「すごくいい写真でした。君が撮ったおかげで、俺までいい顔してた」
結衣は頬を赤らめて笑う。
「嬉しいです。いつも被写体になる方が照れるんですね」
「たまには撮られる側も悪くないですよ」
軽い冗談を交わしながら、二人のあいだにふっと沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は不安ではなく、穏やかな静けさだった。
彼女がカウンター越しにカップを差し出し、目が合う。
ほんの一瞬、時間が止まったように思えた。
「昨日……ありがとう」
結衣がゆっくりと言う。
「ちゃんと思い出せたわけじゃないけど、心の何かが動いた感じがしたんです。あなたがそこにいたって確信できたこと、それが嬉しかった」
「こちらこそ。君が覚えていなくても、ちゃんともう一度出会えたことが嬉しい」
彼女は少し照れたように俯いた。
指先でカップの縁をなぞる癖は、昔から変わらない。
その仕草が目に入った瞬間、五年前の朝の記憶が蘇る。
まだ学生だった自分たちが、同じ喫茶店で夢を語り合っていた頃。
「いつかこの町で、自分の店を開きたい」と笑っていた彼女の声。
その夢はこうして現実になっていた。
けれど、その過去を覚えていない彼女に、昔の話を持ち出すことが本当に正しいのだろうかと、胸の奥で葛藤が渦を巻いた。
「悠真さん、何か考えこんでます?」
「え、いや……ちょっと前のことを思い出してて」
「変なこと考えないでくださいね。またどこか遠くに行っちゃうんじゃないかって思いました」
「そんなことしないよ」
その一言を告げると、彼女は安堵したように小さく息をついた。
「よかった。なんだか、あなたが隣にいると安心するんです」
言葉に詰まる。
その声が、静かに胸に沁み込んでいく。
かつて自分が彼女を守れなかった日々を思い出しながら、もう二度と彼女の笑顔を壊さないと心の中で強く誓った。
「午後、少し時間あります?」
結衣がカレンダーを見ながら尋ねてきた。
「はい。午後なら空いてます」
「じゃあ、一緒に出かけませんか? ここから少し離れたところに、花畑があるんです。春になると一面に菜の花が咲いて、すごくきれいで」
「いいですね。写真も撮れそうだ」
「じゃあ、決まりです」
店を出たのは昼過ぎだった。
二人で歩く坂道の途中、桜が咲き始めていた。
淡い花びらが風に乗って舞い、日差しが木の影を柔らかく落とす。
「ここ、五年前はまだ畑も小さかったんですよ」
「そうなんだ」
「父が好きな場所で、よく見に来てたんです。あの日も確か、天気がよくて」
言いながら、結衣は少し言葉を濁した。
“あの日”。
記憶を失う前の最後の日のことだろうか。
彼女の表情が曇るのを見て、悠真は慎重に言葉を選んだ。
「無理に思い出そうとしなくていいですよ。今がこうして穏やかなら」
「でも、知りたいんです。本当の自分がどんな気持ちでいたのか」
彼女の声は静かだったが、芯があった。
目の前の光景を見つめるその目には、過去への恐れよりも“向き合おう”とする強さが宿っていた。
やがて坂を登りきると、目の前に菜の花畑が広がった。
黄色い花が風に揺れ、潮風の中で金色の波のように見える。
あまりの美しさに、二人は同時に息をのんだ。
「……きれいですね」
「本当に」
悠真はカメラを取り出して、何枚かシャッターを切った。レンズ越しに見る光景は、まるで夢の中のようだった。
その中に立つ結衣は、陽光をまとって微笑んでいる。
風に揺れる髪、花の向こうに透ける青空。
この瞬間を、永遠に閉じ込めてしまいたい。
「見せてください」
結衣が覗きこんで、ディスプレイを確認する。
「きれい……なんだか、懐かしい感じがします」
「懐かしい?」
「うん。この風景、昔も一緒に見たことがあるような気がして」
言葉を聞いた瞬間、悠真の胸が熱くなる。
それは五年前、確かに二人で訪れた場所だった。
卒業を控えた春の日、未来を語り合った丘の上。
その時の記憶が、彼女の胸に少しずつ戻り始めている。
花びらが風に舞う中、彼女がふと手を伸ばしてきた。
「写真、ありがとう。……少し手、握ってもいいですか?」
「え?」
「なんだか、確かめたい気がして」
ためらいながらも、悠真はそっと彼女の手を取った。
指先が触れた瞬間、体の奥で何かが震えた。
冷たくも温かい、懐かしい感触。
まるで五年前の記憶が、手のひらを通して再び流れ込んでくるようだった。
「やっぱり、この温もり、覚えてる」
結衣が小さく呟いた。
その声に、悠真の喉が詰まった。
「……俺も、一度も忘れたことがなかった」
風が強く吹き、花畑が波のように揺れた。
二人の間の静寂が心地よく響く。
「こうやって手を握るの、何年ぶりなんだろう」
「五年ぶりですね」
「覚えてるんだ」
「心が、です」
彼女の言葉に、悠真は微笑んだ。もう何も言葉はいらなかった。
そのあと、二人はしばらく何も話さず、ただ風の音を聞いていた。
海の方からカモメの声が響き、遠くで汽笛が鳴る。
春の匂いが胸いっぱいに広がる。
やがて夕暮れが近づいたころ、結衣が静かに言った。
「また少しだけ、思い出した気がします。あなたと笑っていた時間を」
「どんな時間?」
「……幸せな時間です」
悠真は涙をこらえながら、ただ頷いた。
日が傾き、金色の光が二人を包み込む。
その光の中で、彼女の手のぬくもりは確かに残っていた。
まるで過去と今をつなぐ橋のように。
霧が晴れ、遠くの海が見えた。
その海の向こうに、やがてまだ知らない未来が広がっている気がした。
手のひらの温度だけが、現実の証だった。
彼女の手を離したとき、指先に残る温かさが、心の奥の日だまりをまだ照らしていた。
太陽は見えないが、空気の中には確かに光があった。町全体が静寂の中で呼吸しているように感じられた。
悠真は宿のベッドで目を覚まし、天井を見つめたまましばらく動けなかった。
昨夜の出来事が、まだ夢と現実のあいだを漂っている。
結衣が泣きながら笑ったあの瞬間、自分の胸の奥で止まっていた時間が再び動きはじめた。
五年間、何も変わらなかった心の中に、光が差し込んだようだった。
窓を開けると潮の香りが入り込む。霧の向こうにかろうじて桟橋が見えた。
今日もあの喫茶店へ行こう。迷う理由はもうなかった。
午前十時。
店のベルの音とともに、いつもの香ばしい空気が迎えてくれる。
結衣はカウンターの奥で花瓶に花を生けていた。薄桃色のカーネーション。
こちらに気づくと、嬉しそうに手を振った。
「おはようございます、悠真さん」
「おはよう。今日も開店早々に来ちゃいました」
「ふふ、そんな気がしてました。もう常連さんですね」
彼女の笑顔は、昨日より柔らかかった。
その表情を見ただけで、言葉がなくても通じる気がした。
五年前、こんな穏やかな朝を二人で迎えたことがあっただろうか。
「昨日、撮った写真を見ました」
「えっ、本当ですか?」
「すごくいい写真でした。君が撮ったおかげで、俺までいい顔してた」
結衣は頬を赤らめて笑う。
「嬉しいです。いつも被写体になる方が照れるんですね」
「たまには撮られる側も悪くないですよ」
軽い冗談を交わしながら、二人のあいだにふっと沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は不安ではなく、穏やかな静けさだった。
彼女がカウンター越しにカップを差し出し、目が合う。
ほんの一瞬、時間が止まったように思えた。
「昨日……ありがとう」
結衣がゆっくりと言う。
「ちゃんと思い出せたわけじゃないけど、心の何かが動いた感じがしたんです。あなたがそこにいたって確信できたこと、それが嬉しかった」
「こちらこそ。君が覚えていなくても、ちゃんともう一度出会えたことが嬉しい」
彼女は少し照れたように俯いた。
指先でカップの縁をなぞる癖は、昔から変わらない。
その仕草が目に入った瞬間、五年前の朝の記憶が蘇る。
まだ学生だった自分たちが、同じ喫茶店で夢を語り合っていた頃。
「いつかこの町で、自分の店を開きたい」と笑っていた彼女の声。
その夢はこうして現実になっていた。
けれど、その過去を覚えていない彼女に、昔の話を持ち出すことが本当に正しいのだろうかと、胸の奥で葛藤が渦を巻いた。
「悠真さん、何か考えこんでます?」
「え、いや……ちょっと前のことを思い出してて」
「変なこと考えないでくださいね。またどこか遠くに行っちゃうんじゃないかって思いました」
「そんなことしないよ」
その一言を告げると、彼女は安堵したように小さく息をついた。
「よかった。なんだか、あなたが隣にいると安心するんです」
言葉に詰まる。
その声が、静かに胸に沁み込んでいく。
かつて自分が彼女を守れなかった日々を思い出しながら、もう二度と彼女の笑顔を壊さないと心の中で強く誓った。
「午後、少し時間あります?」
結衣がカレンダーを見ながら尋ねてきた。
「はい。午後なら空いてます」
「じゃあ、一緒に出かけませんか? ここから少し離れたところに、花畑があるんです。春になると一面に菜の花が咲いて、すごくきれいで」
「いいですね。写真も撮れそうだ」
「じゃあ、決まりです」
店を出たのは昼過ぎだった。
二人で歩く坂道の途中、桜が咲き始めていた。
淡い花びらが風に乗って舞い、日差しが木の影を柔らかく落とす。
「ここ、五年前はまだ畑も小さかったんですよ」
「そうなんだ」
「父が好きな場所で、よく見に来てたんです。あの日も確か、天気がよくて」
言いながら、結衣は少し言葉を濁した。
“あの日”。
記憶を失う前の最後の日のことだろうか。
彼女の表情が曇るのを見て、悠真は慎重に言葉を選んだ。
「無理に思い出そうとしなくていいですよ。今がこうして穏やかなら」
「でも、知りたいんです。本当の自分がどんな気持ちでいたのか」
彼女の声は静かだったが、芯があった。
目の前の光景を見つめるその目には、過去への恐れよりも“向き合おう”とする強さが宿っていた。
やがて坂を登りきると、目の前に菜の花畑が広がった。
黄色い花が風に揺れ、潮風の中で金色の波のように見える。
あまりの美しさに、二人は同時に息をのんだ。
「……きれいですね」
「本当に」
悠真はカメラを取り出して、何枚かシャッターを切った。レンズ越しに見る光景は、まるで夢の中のようだった。
その中に立つ結衣は、陽光をまとって微笑んでいる。
風に揺れる髪、花の向こうに透ける青空。
この瞬間を、永遠に閉じ込めてしまいたい。
「見せてください」
結衣が覗きこんで、ディスプレイを確認する。
「きれい……なんだか、懐かしい感じがします」
「懐かしい?」
「うん。この風景、昔も一緒に見たことがあるような気がして」
言葉を聞いた瞬間、悠真の胸が熱くなる。
それは五年前、確かに二人で訪れた場所だった。
卒業を控えた春の日、未来を語り合った丘の上。
その時の記憶が、彼女の胸に少しずつ戻り始めている。
花びらが風に舞う中、彼女がふと手を伸ばしてきた。
「写真、ありがとう。……少し手、握ってもいいですか?」
「え?」
「なんだか、確かめたい気がして」
ためらいながらも、悠真はそっと彼女の手を取った。
指先が触れた瞬間、体の奥で何かが震えた。
冷たくも温かい、懐かしい感触。
まるで五年前の記憶が、手のひらを通して再び流れ込んでくるようだった。
「やっぱり、この温もり、覚えてる」
結衣が小さく呟いた。
その声に、悠真の喉が詰まった。
「……俺も、一度も忘れたことがなかった」
風が強く吹き、花畑が波のように揺れた。
二人の間の静寂が心地よく響く。
「こうやって手を握るの、何年ぶりなんだろう」
「五年ぶりですね」
「覚えてるんだ」
「心が、です」
彼女の言葉に、悠真は微笑んだ。もう何も言葉はいらなかった。
そのあと、二人はしばらく何も話さず、ただ風の音を聞いていた。
海の方からカモメの声が響き、遠くで汽笛が鳴る。
春の匂いが胸いっぱいに広がる。
やがて夕暮れが近づいたころ、結衣が静かに言った。
「また少しだけ、思い出した気がします。あなたと笑っていた時間を」
「どんな時間?」
「……幸せな時間です」
悠真は涙をこらえながら、ただ頷いた。
日が傾き、金色の光が二人を包み込む。
その光の中で、彼女の手のぬくもりは確かに残っていた。
まるで過去と今をつなぐ橋のように。
霧が晴れ、遠くの海が見えた。
その海の向こうに、やがてまだ知らない未来が広がっている気がした。
手のひらの温度だけが、現実の証だった。
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