君の声を、もう一度

たまごころ

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第9話 通り雨の街角で

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町に戻ったころには、空の色が鈍く沈みかけていた。  
西の海の向こうから、灰色の雲がゆっくり流れ込んでくる。  
昼間まであんなに穏やかだった空気が、いつの間にか湿り気を帯びていた。  
花畑で感じたあの柔らかな陽射しは、まるで遠い日のことのようだ。  

結衣と並んで歩きながら、悠真は傘も持たずに空を仰いだ。  
「降りそうですね」  
「ええ。でも、なんだか悪くない感じがしますね」  
「え?」  
「通り雨って、少し寂しくて好きなんです。何かを洗い流してくれるような気がして」  

その言葉に、彼女の過去を思い出す。  
記憶を失ってもなお、“何かを手放した”感覚がきっと彼女の中に残っている。  
それが痛みであっても、今は悲しみをやさしく包む雨なのかもしれなかった。  

坂道を下る途中、ぽつりと一粒の雨が落ちた。  
すぐに二粒、三粒。  
やがて霧のような雨が、町全体を薄く包み込みはじめる。  

「やっぱり来ましたね」  
「駆け込むなら、あそこ」  
結衣が指さした先に、小さな文具屋の軒先が見えた。  
二人は小走りでその下に入り、濡れた髪を軽く払う。  

「久しぶりにこんな雨に打たれた気がします」  
「東京だと、降ってもすぐ電車やビルに避難できるからね」  
「そうなんですね。こうして雨をちゃんと感じるのって、貴重なのかも」  

結衣が空を見上げて微笑んだ。  
通り雨の音が傘のない街に柔らかく響く。  
道の向こうで自転車のタイヤが水を弾き、屋根の隙間から小さな水滴が落ちる。  

その景色を彼女と並んで見ているだけで、不思議と心が穏やかになった。  

「手、冷えてませんか?」  
「ちょっと湿ってますね」  
「ほら」  
悠真がポケットからハンカチを取り出すと、結衣は照れたように笑った。  
「ありがとうございます。なんか、こういうの久しぶりです」  
「こういうの?」  
「誰かが、自分のことを気にしてくれる感じ。事故のあとも、みんな優しくしてくれたけど、それは“患者として”であって、“私”としてじゃなくて」  

彼女の声が少し小さくなった。  
その言葉の裏にある孤独を思うと、胸が締め付けられる。  
「結衣さんは、結衣さんですよ」  
雨音の中、低い声でそう言った。  
「俺にとっては、ずっとそうです。記憶があっても、なくても」  
「……悠真さん」  
名前を呼ぶ声が、雨よりも静かだった。  
結衣はハンカチを胸の前で握りしめ、少しだけ目を伏せた。  

「私、自分が誰だったのかを思い出そうとするたびに怖くなるんです。  
何か悪いことをしたんじゃないか、悲しいことに関わっていたんじゃないかって。  
でも、あなたと話してるときだけは、不思議と怖くない。むしろ、思い出しても大丈夫な気がするんです」  
「……それなら、もう一緒に思い出していけばいい」  
「一緒に?」  
「うん。俺も、あの頃の自分をきっと全部覚えてるわけじゃない。だから、今ふたりで歩いて、話して、もう一度思い出していけばいい」  

その言葉に、結衣の目がわずかに潤んだ。  
「ありがとう。……そうですね、焦らずに」  

小さく笑みをこぼす。  
その横顔を見ながら、悠真は改めて思った。  
過去の記憶ではなく、今ここで笑ってくれる彼女を守りたい。  
彼女が何を忘れていようと、それが彼女の選んだ“今”なら、それでいい。  

雨脚が少し弱まった。  
遠くの空に薄い光が差し込みはじめる。  
通り雨。まさに彼女が言った通りだった。  
短くて、けれど確かに何かを洗い流すような雨。  

店のガラスに映る自分たちの姿を眺めていると、結衣がぽつりと言った。  
「私、もう一度、自分のレモンパイを作ってみようと思うんです」  
「レモンパイ?」  
「あの日あなたが帰る前に渡したって母が言ってました。味を少し変えたって」  
「改良版のやつ、すごく美味しかったですよ」  
「でもね、自分でもう一度焼いてみたいんです。ちゃんと、思い出の味として」  

決意を宿した瞳が、雨上がりの光を映していた。  
「今夜、もし時間があったら、ぜひ食べてください。久しぶりに、お客じゃなくて……友達として来てほしいんです」  
「行きます。喜んで」  

通り雨が完全に上がった頃、道の上には小さな光の粒が残っていた。  
濡れた石畳が陽に照らされてきらきら光る。  
雨に洗われた町は少し色を濃くして見えた。  

ふたりで歩き出す。  
結衣の肩にふわりと桜の花びらが落ちた。  
「春、早いですね」  
「うん。たぶん、今年は特に早いんですよ」  
「じゃあ、春が来る前に、ちゃんと過去と向き合わないといけないですね」  
「向き合う、か」  
「ええ。この町で、あなたと」  

彼女が見上げる空に、雨雲の隙間から光が差し込んでいた。  
その光は、まるでふたりを包み込むように広がり、濡れた地面を瞬く間に乾かしていく。  

「じゃあ、夜七時ごろに来てくださいね。焼きたてを出します」  
「了解。楽しみにしてます」  

駅へ続く分かれ道で、彼女は手を振った。  
「気をつけて。……またあとで」  
「うん、また」  

その声が風の中に溶けていく。  

夕方、喫茶seasideに戻ると、店の中にかすかな甘い香りが漂っていた。  
カウンターの奥では、結衣がオーブンの前でパイの焼き色を確かめている。  
「もう少しで焼けます」  
「いい匂いだ」  
「焦がさないように見張ってるだけで緊張します」  
「昔もそうだったよ」  
「え?」  
「いや、何でもない」  

言いかけて言葉を飲み込む。  
“昔も”という言葉が、彼女の記憶の扉を無理に叩くのではないかと怖くなった。  
けれど結衣は微笑んだ。  
「そういう“何でもない”が、少しずつ思い出をつないでくれるんだと思います」  

パイが焼き上がると、店内にやわらかな香りが満ちた。  
ナイフが生地を切ると、軽やかな音が響く。  
「できました」  

一口かじる。  
レモンの酸味が舌に触れ、次にほのかな甘みが追いかける。  
その味が過去の記憶を刺激した。  
彼女と初めて一緒に作った日のこと。  
焼き加減を巡って笑いあった声。  
それを思い出しながら、悠真は静かに微笑んだ。  

「おいしいです」  
「本当ですか?」  
「間違いなく、君の味です」  

結衣の頬に、ゆるやかな笑みが広がる。  
その笑顔を見ているだけで、また胸の奥が温かくなった。  

「通り雨、止んでよかったですね」  
「うん。でも、もしかしたらまた降るかも」  
「それでも……悪くないですよね」  

窓の外では春の風が旗を揺らしている。  
町の灯が少しずつ滲みはじめ、夕焼けの名残がガラスを照らしていた。  
その穏やかな光の中で、ふたりの時間はゆっくりと流れていく。  

どんな記憶を失っても、今この瞬間を持てるなら、きっとそれで十分だ。  
そう思いながら、悠真は手の中のカップを握りしめた。  
触れた陶器の温度が、まだ彼女の手のぬくもりを残している気がした。
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