10 / 30
第10話 消えたメッセージ
しおりを挟む
翌朝、窓の外に広がる空は、まるで夜の名残を引きずっているようだった。
灰色の雲が低く垂れ込め、海風が湿った風を運んでくる。
喫茶seasideで過ごした夜の余韻――焼き立てのレモンパイの香りや、結衣の笑顔、そして通り雨のあとに見た町の光景が、まだ胸の奥に残っていた。
悠真はベッドの上でスマホを開いた。
会社からの未読メッセージがいくつか届いていたが、その下に一通だけ見慣れない通知がある。
「宮川結衣」と表示されたその名前に、一瞬呼吸が止まった。
恐る恐る開くと、「今朝、少しだけ話したいことがあります」という短いメッセージ。送信時刻は午前六時台。
「早いな……」と呟きながら、彼は立ち上がった。
出発までの準備を終えると、再び潮の匂いに満ちた通りを歩き出す。
朝の商店街はまだ人もまばらで、パン屋の店先から焼きたての甘い匂いが漂っていた。
その中を抜け、喫茶店の前に差しかかる。
ガラス戸越しに中を覗くと、開店準備をしている結衣の姿が見えた。
彼女は棚のカップを丁寧に並べながら、何か考え込むような表情をしていた。
ドアのベルが鳴る。
「おはようございます」
「……あ、悠真さん」
彼女が顔を上げる。その声には少し緊張が混じっていた。
「朝早くからすみません。メッセージ見て来たんですけど」
「来てくださってありがとうございます。話というか……ちょっと不思議なことがあったんです」
結衣は手に持っていた携帯電話を見せる。
「これ、母が最近機種変更するときにデータを整理してたら、古いスマホが出てきて……。それ、私のだったみたいなんです」
「昔のスマホ?」
「はい。事故の前に使ってたものだと思います。でも、充電したら、残ってたんです、あるメッセージだけ」
沈黙。彼女の指が画面を滑る。
そして、画面をこちらに向けた。
登録名は「高瀬悠真」。
その下に、五年前の日付が浮かんでいる。
――「ごめんね。もう行かなくちゃ。でも、いつかまた会える気がする。」
わずかに震える声で結衣が続けた。
「これ、たぶん……私が送ったものですよね?」
「……そうだと思う」
「どうして送ったのか、全然覚えてないんです。でも、この短い言葉を見た瞬間に、胸がぎゅっと苦しくなって」
思わず息を飲んだ。
あの日、彼女が突然姿を消した理由も、連絡を絶った理由も何ひとつ分からなかった。
けれどこのメッセージは、そのすべてに唯一触れていた。
「まだ音声メモも残ってて。でも、怖くて再生できなくて……」
「聞いてもいい?」
「……はい。でも一緒に、そばにいてもらえますか?」
彼女がスマホのスピーカーを押す。
微かな雑音、そして幼いような自分の声が響いた。
――「悠真、ありがとう。私、きっと今のままじゃ一緒にいられない。だから少しの間、忘れるね。忘れなきゃ前に進めない気がするの。ごめん。でも、もしまた会えたら、その時笑って話そう。」
音声が止まる。
結衣は手を震わせながらスマホを胸の前に抱いた。
「こんなことを、自分が言ってたなんて……」
悠真は、彼女がどんな気持ちでこのメッセージを残したのかを想像する。
五年前の春。彼女の父親の容体が急に悪化し、仕事を辞めて実家に戻ったこと。
それは彼の記憶にも残っている。けれど、事故の直前に連絡を絶った本当の理由は、彼も知らなかった。
「たぶん、無理をしてたんだと思います。全部を抱えすぎていたから、あのとき一度、世界を切り離さないと生きていけなかったのかもしれません」
悠真が言うと、結衣は何度も小さく頷いた。
「そうかもしれません。でも、こんなに大事な言葉を自分が忘れていたなんて悲しいです」
「でも今、見つかった。もう、それで十分だと思います」
「……やさしいんですね」
「違います。ただ、もう責める必要はない気がしたんです」
外では風が強くなり、ガラスの向こうを薄い雨の筋が流れた。
通りすがりの車が水たまりをはね、街の色をぼやかしていく。
結衣はゆっくり息を吸い、顔を上げた。
「ねえ、今日、一緒に行きたいところがあるんです」
「どこですか?」
「事故にあった交差点。ずっと避けてた場所なんですけど、今なら行ける気がして」
一瞬迷ったが、彼は頷いた。
「行こう」
小雨の降る中、二人は傘を一本だけさして歩いた。
海辺を抜け、市街地へ向かう一本道を行くと、徐々に交通量が増えていく。
やがて、赤い信号の下に出る。
そこが、彼女が記憶を失った日の現場だった。
車が行き交う音が遠くに聞こえる。
その音の中で、結衣はまるで過去と対話するように、静かに立ち尽くしていた。
「ここを越えた先で、私は何かを失ったんですね」
「でも、それだけじゃない。きっと何かを守ったから、今ここにいる」
「守った?」
「君自身の心とか、誰かの想いとか。……全部消えたわけじゃない」
結衣の瞳に光が宿る。
「そう言ってくれるの、あなたしかいません」
その笑顔が、雨粒に濡れて少し滲んだ。
傘の下、彼女の肩に落ちた滴を指でぬぐう。
「ありがとう。もう少しだけ、この町で過ごしてもいいですか?」
「もちろん」
その日の午後、喫茶seasideの窓際で、二人は静かにカップを傾けた。
外の雨がようやく上がり、雲の切れ間から光が差してくる。
それはまるで、閉ざされていた記憶に一本の道が開かれていくような、そんな色だった。
「うまく言えないけど、あの消息を絶った“私の声”に、今少しだけ救われた気がします」
「それでいい。過去は変えられないけど、意味を塗り替えることはできるから」
「塗り替える……」
彼女はゆっくりとその言葉を口にした。
そして窓の外に目を向け、晴れ間の光を見つめた。
「ねえ悠真さん」
「うん?」
「この町で、もう少しだけ思い出を作りませんか。過去じゃなくて、今の記憶を」
「それ、いいですね」
そう言って笑い合った瞬間、電車の汽笛が遠くで響いた。
新しい物語の始まりを告げるような音だった。
外へ出ると、雨上がりの舗道に反射した光が、二人の影をひとつに重ねていた。
消えたメッセージはもう手の中にない。
けれど、その言葉があったからこそ、今こうして再び出会えたのだと思えた。
“いつかまた会える気がする。”
あの日の約束は、確かに果たされていた。
そしてその続きを描く季節が、もうすぐ始まろうとしていた。
灰色の雲が低く垂れ込め、海風が湿った風を運んでくる。
喫茶seasideで過ごした夜の余韻――焼き立てのレモンパイの香りや、結衣の笑顔、そして通り雨のあとに見た町の光景が、まだ胸の奥に残っていた。
悠真はベッドの上でスマホを開いた。
会社からの未読メッセージがいくつか届いていたが、その下に一通だけ見慣れない通知がある。
「宮川結衣」と表示されたその名前に、一瞬呼吸が止まった。
恐る恐る開くと、「今朝、少しだけ話したいことがあります」という短いメッセージ。送信時刻は午前六時台。
「早いな……」と呟きながら、彼は立ち上がった。
出発までの準備を終えると、再び潮の匂いに満ちた通りを歩き出す。
朝の商店街はまだ人もまばらで、パン屋の店先から焼きたての甘い匂いが漂っていた。
その中を抜け、喫茶店の前に差しかかる。
ガラス戸越しに中を覗くと、開店準備をしている結衣の姿が見えた。
彼女は棚のカップを丁寧に並べながら、何か考え込むような表情をしていた。
ドアのベルが鳴る。
「おはようございます」
「……あ、悠真さん」
彼女が顔を上げる。その声には少し緊張が混じっていた。
「朝早くからすみません。メッセージ見て来たんですけど」
「来てくださってありがとうございます。話というか……ちょっと不思議なことがあったんです」
結衣は手に持っていた携帯電話を見せる。
「これ、母が最近機種変更するときにデータを整理してたら、古いスマホが出てきて……。それ、私のだったみたいなんです」
「昔のスマホ?」
「はい。事故の前に使ってたものだと思います。でも、充電したら、残ってたんです、あるメッセージだけ」
沈黙。彼女の指が画面を滑る。
そして、画面をこちらに向けた。
登録名は「高瀬悠真」。
その下に、五年前の日付が浮かんでいる。
――「ごめんね。もう行かなくちゃ。でも、いつかまた会える気がする。」
わずかに震える声で結衣が続けた。
「これ、たぶん……私が送ったものですよね?」
「……そうだと思う」
「どうして送ったのか、全然覚えてないんです。でも、この短い言葉を見た瞬間に、胸がぎゅっと苦しくなって」
思わず息を飲んだ。
あの日、彼女が突然姿を消した理由も、連絡を絶った理由も何ひとつ分からなかった。
けれどこのメッセージは、そのすべてに唯一触れていた。
「まだ音声メモも残ってて。でも、怖くて再生できなくて……」
「聞いてもいい?」
「……はい。でも一緒に、そばにいてもらえますか?」
彼女がスマホのスピーカーを押す。
微かな雑音、そして幼いような自分の声が響いた。
――「悠真、ありがとう。私、きっと今のままじゃ一緒にいられない。だから少しの間、忘れるね。忘れなきゃ前に進めない気がするの。ごめん。でも、もしまた会えたら、その時笑って話そう。」
音声が止まる。
結衣は手を震わせながらスマホを胸の前に抱いた。
「こんなことを、自分が言ってたなんて……」
悠真は、彼女がどんな気持ちでこのメッセージを残したのかを想像する。
五年前の春。彼女の父親の容体が急に悪化し、仕事を辞めて実家に戻ったこと。
それは彼の記憶にも残っている。けれど、事故の直前に連絡を絶った本当の理由は、彼も知らなかった。
「たぶん、無理をしてたんだと思います。全部を抱えすぎていたから、あのとき一度、世界を切り離さないと生きていけなかったのかもしれません」
悠真が言うと、結衣は何度も小さく頷いた。
「そうかもしれません。でも、こんなに大事な言葉を自分が忘れていたなんて悲しいです」
「でも今、見つかった。もう、それで十分だと思います」
「……やさしいんですね」
「違います。ただ、もう責める必要はない気がしたんです」
外では風が強くなり、ガラスの向こうを薄い雨の筋が流れた。
通りすがりの車が水たまりをはね、街の色をぼやかしていく。
結衣はゆっくり息を吸い、顔を上げた。
「ねえ、今日、一緒に行きたいところがあるんです」
「どこですか?」
「事故にあった交差点。ずっと避けてた場所なんですけど、今なら行ける気がして」
一瞬迷ったが、彼は頷いた。
「行こう」
小雨の降る中、二人は傘を一本だけさして歩いた。
海辺を抜け、市街地へ向かう一本道を行くと、徐々に交通量が増えていく。
やがて、赤い信号の下に出る。
そこが、彼女が記憶を失った日の現場だった。
車が行き交う音が遠くに聞こえる。
その音の中で、結衣はまるで過去と対話するように、静かに立ち尽くしていた。
「ここを越えた先で、私は何かを失ったんですね」
「でも、それだけじゃない。きっと何かを守ったから、今ここにいる」
「守った?」
「君自身の心とか、誰かの想いとか。……全部消えたわけじゃない」
結衣の瞳に光が宿る。
「そう言ってくれるの、あなたしかいません」
その笑顔が、雨粒に濡れて少し滲んだ。
傘の下、彼女の肩に落ちた滴を指でぬぐう。
「ありがとう。もう少しだけ、この町で過ごしてもいいですか?」
「もちろん」
その日の午後、喫茶seasideの窓際で、二人は静かにカップを傾けた。
外の雨がようやく上がり、雲の切れ間から光が差してくる。
それはまるで、閉ざされていた記憶に一本の道が開かれていくような、そんな色だった。
「うまく言えないけど、あの消息を絶った“私の声”に、今少しだけ救われた気がします」
「それでいい。過去は変えられないけど、意味を塗り替えることはできるから」
「塗り替える……」
彼女はゆっくりとその言葉を口にした。
そして窓の外に目を向け、晴れ間の光を見つめた。
「ねえ悠真さん」
「うん?」
「この町で、もう少しだけ思い出を作りませんか。過去じゃなくて、今の記憶を」
「それ、いいですね」
そう言って笑い合った瞬間、電車の汽笛が遠くで響いた。
新しい物語の始まりを告げるような音だった。
外へ出ると、雨上がりの舗道に反射した光が、二人の影をひとつに重ねていた。
消えたメッセージはもう手の中にない。
けれど、その言葉があったからこそ、今こうして再び出会えたのだと思えた。
“いつかまた会える気がする。”
あの日の約束は、確かに果たされていた。
そしてその続きを描く季節が、もうすぐ始まろうとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
10年引きこもりの私が外に出たら、御曹司の妻になりました
専業プウタ
恋愛
25歳の桜田未来は中学生から10年以上引きこもりだったが、2人暮らしの母親の死により外に出なくてはならなくなる。城ヶ崎冬馬は女遊びの激しい大手アパレルブランドの副社長。彼をストーカーから身を張って助けた事で未来は一時的に記憶喪失に陥る。冬馬はちょっとした興味から、未来は自分の恋人だったと偽る。冬馬は未来の純粋さと直向きさに惹かれていき、嘘が明らかになる日を恐れながらも未来の為に自分を変えていく。そして、未来は恐れもなくし、愛する人の胸に飛び込み夢を叶える扉を自ら開くのだった。
年下男子に追いかけられて極甘求婚されています
あさの紅茶
恋愛
◆結婚破棄され憂さ晴らしのために京都一人旅へ出かけた大野なぎさ(25)
「どいつもこいつもイチャイチャしやがって!ムカつくわー!お前ら全員幸せになりやがれ!」
◆年下幼なじみで今は京都の大学にいる富田潤(20)
「京都案内しようか?今どこ?」
再会した幼なじみである潤は実は子どもの頃からなぎさのことが好きで、このチャンスを逃すまいと猛アプローチをかける。
「俺はもう子供じゃない。俺についてきて、なぎ」
「そんなこと言って、後悔しても知らないよ?」
元恋人と、今日から同僚です
紗和木 りん
恋愛
女性向けライフスタイル誌・編集部で働く結城真帆(29)。
仕事一筋で生きてきた彼女の前に、ある日突然、五年前に別れた元恋人が現れた。
「今日から、この部署に配属になった」
そう告げたのは、穏やかで理性的な朝倉。
かつて、将来や価値観のすれ違いから別れた相手だ。
仕事として割り切ろうと距離を取る真帆だったが、過去の別れが誤解と説明不足によるものだったことが少しずつ見えてくる。
恋愛から逃げてきた女と、想いを言葉にできなかった男。
仕事も感情も投げ出さず、逃げずに選び直した先にあるのは「やり直し」ではなく……。
元恋人と同僚になった二人。
仕事から始まる新しい恋の物語。
【完結済】春を迎えに~番という絆に導かれて~
廻野 久彩
恋愛
辺境の村から王都の星環教会へやってきた研修生アナベル・ウィンダーミア。
門で出会った王族直属騎士団副団長ルシアン・ヴァルセインと握手を交わした瞬間、二人の手首に金色の光が浮かび上がる。
それは"番"——神が定めた魂の半身の証。
物語の中でしか聞いたことのない奇跡的な出会いに胸を躍らせるアナベルだったが、ルシアンの口から告げられたのは冷酷な現実だった。
「俺には……すでに婚約者がいる」
その婚約者こそ、名門ルヴェリエ家の令嬢セレナ。国境の緊張が高まる中、彼女との政略結婚は王国の命運を左右する重要な政治的意味を持っていた。
番の衝動に身を焼かれながらも、決して越えてはならない一線を守ろうとするルシアン。
想い人を諦めきれずにいながら、彼の立場を理解しようと努めるアナベル。
そして、すべてを知りながらも優雅に微笑み続けるセレナ。
三人の心は複雑に絡み合い、それぞれが異なる痛みを抱えながら日々を過ごしていく。
政略と恋情、義務と本心、誠実さと衝動——
揺れ動く想いの果てに、それぞれが下す選択とは。
番という絆に翻弄されながらも、最後に自分自身の意志で道を選び取る三人の物語。
愛とは選ぶこと。
幸せとは、選んだ道を自分の足で歩くこと。
番の絆を軸に描かれる、大人のファンタジーロマンス。
全20話完結。
**【キーワード】**
番・運命の相手・政略結婚・三角関係・騎士・王都・ファンタジー・恋愛・完結済み・ハッピーエンド
溺愛のフリから2年後は。
橘しづき
恋愛
岡部愛理は、ぱっと見クールビューティーな女性だが、中身はビールと漫画、ゲームが大好き。恋愛は昔に何度か失敗してから、もうするつもりはない。
そんな愛理には幼馴染がいる。羽柴湊斗は小学校に上がる前から仲がよく、いまだに二人で飲んだりする仲だ。実は2年前から、湊斗と愛理は付き合っていることになっている。親からの圧力などに耐えられず、酔った勢いでついた嘘だった。
でも2年も経てば、今度は結婚を促される。さて、そろそろ偽装恋人も終わりにしなければ、と愛理は思っているのだが……?
【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
椿かもめ
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる