君の声を、もう一度

たまごころ

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第10話 消えたメッセージ

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翌朝、窓の外に広がる空は、まるで夜の名残を引きずっているようだった。  
灰色の雲が低く垂れ込め、海風が湿った風を運んでくる。  
喫茶seasideで過ごした夜の余韻――焼き立てのレモンパイの香りや、結衣の笑顔、そして通り雨のあとに見た町の光景が、まだ胸の奥に残っていた。  

悠真はベッドの上でスマホを開いた。  
会社からの未読メッセージがいくつか届いていたが、その下に一通だけ見慣れない通知がある。  
「宮川結衣」と表示されたその名前に、一瞬呼吸が止まった。  
恐る恐る開くと、「今朝、少しだけ話したいことがあります」という短いメッセージ。送信時刻は午前六時台。  
「早いな……」と呟きながら、彼は立ち上がった。  

出発までの準備を終えると、再び潮の匂いに満ちた通りを歩き出す。  
朝の商店街はまだ人もまばらで、パン屋の店先から焼きたての甘い匂いが漂っていた。  
その中を抜け、喫茶店の前に差しかかる。  
ガラス戸越しに中を覗くと、開店準備をしている結衣の姿が見えた。  
彼女は棚のカップを丁寧に並べながら、何か考え込むような表情をしていた。  

ドアのベルが鳴る。  
「おはようございます」  
「……あ、悠真さん」  
彼女が顔を上げる。その声には少し緊張が混じっていた。  

「朝早くからすみません。メッセージ見て来たんですけど」  
「来てくださってありがとうございます。話というか……ちょっと不思議なことがあったんです」  

結衣は手に持っていた携帯電話を見せる。  
「これ、母が最近機種変更するときにデータを整理してたら、古いスマホが出てきて……。それ、私のだったみたいなんです」  
「昔のスマホ?」  
「はい。事故の前に使ってたものだと思います。でも、充電したら、残ってたんです、あるメッセージだけ」  

沈黙。彼女の指が画面を滑る。  
そして、画面をこちらに向けた。  

登録名は「高瀬悠真」。  
その下に、五年前の日付が浮かんでいる。  

――「ごめんね。もう行かなくちゃ。でも、いつかまた会える気がする。」  

わずかに震える声で結衣が続けた。  
「これ、たぶん……私が送ったものですよね?」  
「……そうだと思う」  
「どうして送ったのか、全然覚えてないんです。でも、この短い言葉を見た瞬間に、胸がぎゅっと苦しくなって」  

思わず息を飲んだ。  
あの日、彼女が突然姿を消した理由も、連絡を絶った理由も何ひとつ分からなかった。  
けれどこのメッセージは、そのすべてに唯一触れていた。  

「まだ音声メモも残ってて。でも、怖くて再生できなくて……」  
「聞いてもいい?」  
「……はい。でも一緒に、そばにいてもらえますか?」  

彼女がスマホのスピーカーを押す。  
微かな雑音、そして幼いような自分の声が響いた。  

――「悠真、ありがとう。私、きっと今のままじゃ一緒にいられない。だから少しの間、忘れるね。忘れなきゃ前に進めない気がするの。ごめん。でも、もしまた会えたら、その時笑って話そう。」  

音声が止まる。  
結衣は手を震わせながらスマホを胸の前に抱いた。  
「こんなことを、自分が言ってたなんて……」  

悠真は、彼女がどんな気持ちでこのメッセージを残したのかを想像する。  
五年前の春。彼女の父親の容体が急に悪化し、仕事を辞めて実家に戻ったこと。  
それは彼の記憶にも残っている。けれど、事故の直前に連絡を絶った本当の理由は、彼も知らなかった。  

「たぶん、無理をしてたんだと思います。全部を抱えすぎていたから、あのとき一度、世界を切り離さないと生きていけなかったのかもしれません」  
悠真が言うと、結衣は何度も小さく頷いた。  
「そうかもしれません。でも、こんなに大事な言葉を自分が忘れていたなんて悲しいです」  
「でも今、見つかった。もう、それで十分だと思います」  
「……やさしいんですね」  
「違います。ただ、もう責める必要はない気がしたんです」  

外では風が強くなり、ガラスの向こうを薄い雨の筋が流れた。  
通りすがりの車が水たまりをはね、街の色をぼやかしていく。  

結衣はゆっくり息を吸い、顔を上げた。  
「ねえ、今日、一緒に行きたいところがあるんです」  
「どこですか?」  
「事故にあった交差点。ずっと避けてた場所なんですけど、今なら行ける気がして」  

一瞬迷ったが、彼は頷いた。  
「行こう」  

小雨の降る中、二人は傘を一本だけさして歩いた。  
海辺を抜け、市街地へ向かう一本道を行くと、徐々に交通量が増えていく。  
やがて、赤い信号の下に出る。  
そこが、彼女が記憶を失った日の現場だった。  

車が行き交う音が遠くに聞こえる。  
その音の中で、結衣はまるで過去と対話するように、静かに立ち尽くしていた。  
「ここを越えた先で、私は何かを失ったんですね」  
「でも、それだけじゃない。きっと何かを守ったから、今ここにいる」  
「守った?」  
「君自身の心とか、誰かの想いとか。……全部消えたわけじゃない」  

結衣の瞳に光が宿る。  
「そう言ってくれるの、あなたしかいません」  

その笑顔が、雨粒に濡れて少し滲んだ。  
傘の下、彼女の肩に落ちた滴を指でぬぐう。  
「ありがとう。もう少しだけ、この町で過ごしてもいいですか?」  
「もちろん」  

その日の午後、喫茶seasideの窓際で、二人は静かにカップを傾けた。  
外の雨がようやく上がり、雲の切れ間から光が差してくる。  
それはまるで、閉ざされていた記憶に一本の道が開かれていくような、そんな色だった。  

「うまく言えないけど、あの消息を絶った“私の声”に、今少しだけ救われた気がします」  
「それでいい。過去は変えられないけど、意味を塗り替えることはできるから」  
「塗り替える……」  

彼女はゆっくりとその言葉を口にした。  
そして窓の外に目を向け、晴れ間の光を見つめた。  

「ねえ悠真さん」  
「うん?」  
「この町で、もう少しだけ思い出を作りませんか。過去じゃなくて、今の記憶を」  
「それ、いいですね」  

そう言って笑い合った瞬間、電車の汽笛が遠くで響いた。  
新しい物語の始まりを告げるような音だった。  

外へ出ると、雨上がりの舗道に反射した光が、二人の影をひとつに重ねていた。  
消えたメッセージはもう手の中にない。  
けれど、その言葉があったからこそ、今こうして再び出会えたのだと思えた。  

“いつかまた会える気がする。”  

あの日の約束は、確かに果たされていた。  
そしてその続きを描く季節が、もうすぐ始まろうとしていた。
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