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第11話 君のいない夏
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六月の風は、潮の匂いと湿り気を含んでいた。
梅雨の合間の晴れ間。海風町の空は抜けるように青く、通りの軒先には色とりどりの風鈴が揺れていた。
けれどその音は、悠真の胸にはどこか遠く響いていた。
机の上の携帯には、まだ結衣からの新しいメッセージは届かない。
事故現場へ共に行ったあの日から、彼女は少しずつ変わり始めた。
記憶を取り戻しているというより、“昔の自分”と“今の自分”のあいだで均衡を探しているようだった。
「少しの間、ゆっくりしたい」とだけ言って、結衣は数日前に喫茶店を閉め、母親と一緒に実家の方へ戻った。
「何かを思い出しかけてる。でも、それが怖い」とも言っていた。
無理に追いかけないほうがいいと頭では分かっていた。それでも、彼女のいない町の時間はどこか色を失っていた。
喫茶seasideの前に立つと、店の看板は裏返しになり、“CLOSED”の文字が海風に揺れている。
ドアを開けられない静けさが、余計に記憶を呼び起こした。
笑い声、カップを置く音、レモンパイの甘酸っぱい香り。
けれど、どれだけ思い出しても、もう今の彼女はいない。
悠真は無言のまま店の前に立ち、カメラを構えて一枚撮った。
誰もいないドアの写真。
シャッターの音がやけに大きく響いた。
午後の風が強まり、遠くの空が少し曇りはじめていた。
彼は港の防波堤まで歩き、ベンチに腰を下ろす。
波の音とカモメの鳴き声が交互に届く。
指先でスマホを滑らせると、画面には以前撮った結衣の写真が次々と現れた。
花畑で笑っていた姿、通り雨を見上げていた姿、コップに水を注いでいた横顔――どれも生きているみたいで、見ているうちに呼吸が浅くなっていく。
そのとき、通知音が鳴った。心臓が一瞬跳ねる。
画面を開くと、彼女からのメッセージだった。
――「しばらく実家で過ごすことにしました。少しだけ自分と向き合ってみたいです。」
短い文だった。
けれどそれだけで、胸の奥に空洞が広がった気がした。
“少しだけ”という言葉が、とても遠く感じられた。
*
それから一週間が過ぎ、悠真は再び東京へ戻る決心をした。
出張の期間をとうに過ぎていたこともあり、これ以上は社内でも言い訳がきかなくなっていた。
駅のホームで列車を待つあいだ、潮の風と汽笛が入り混じって胸を締めつける。
ホームのベンチに腰を下ろすと、手元のカメラに昨日撮った写真が残っているのに気づいた。
夕暮れの港を撮った一枚。
水平線の先に夕陽が沈み、その手前にひとつの影があった。
ぼやけているが、女性の後ろ姿のように見える。
結衣に似ていた。
偶然かもしれない。それでも、悠真はその一枚を削除できなかった。
確かに、彼女はこの町の中にまだいる。そんな気がしてならなかった。
列車の到着を知らせるアナウンスが流れ、風が長く吹き抜けた。
彼は最後に一度だけ振り返る。
波が静かに揺れ、青い空と雲の隙間に白い光が差し込んでいる。
その光の中で、心が少しだけ温かくなった。
*
東京へ戻ると、街の空気は湿度を増していた。
高層ビルの影、アスファルトの照り返し、クーラーの音。
どれも海風町の静けさとは違う。
それでも仕事が彼を現実へ引き戻す。
オフィスのデスクに着き、積み重なった作業を一つずつ片づけていく。
指先でキーボードを叩くたびに、心の奥で波音が消えていくような感覚がした。
そんな中、同僚の麻衣が近づいてきた。
「ねえ高瀬さん、この間の海風町の記事、すごく評判良かったですよ。追加で企画通ったみたい」
「……そうですか」
「こんなに自然な視点で書ける人、なかなかいないって。ねえ、もう一回くらい取材行ってきたら? 写真も好評でしたよ」
それは予想外の言葉だった。
再び、あの町へ――。
考える間もなく、胸の奥から小さな鼓動が広がった。
「少し時間、もらってもいいですか」
「うん? いいけど、どこか行くの?」
「……ちょっと、海の方へ」
麻衣は軽く頷き、笑った。
「やっぱり。高瀬さん、あの記事の頃から何か吹っ切れた顔してたもん」
会社を出た後、夕暮れの駅へ向かう。
ホームに立つと、ビルの影が赤く染まっていた。
スマホを取り出し、受信箱をもう一度開く。
“しばらく実家で過ごす”
その言葉だけが残っている。
――彼女の中で、何かが変わろうとしている。
――なら、自分も止まっているわけにはいかない。
悠真はカメラを握りしめ、小さく息を吐いた。
その瞬間、ポケットのスマホが震えた。
画面には、もう一度“宮川結衣”の名前。
「え……?」
開くと、短いメッセージ。
――「また会いたいです。話したいことがある。」
心臓が強く跳ねた。
その瞬間、構内アナウンスが列車の到着を告げた。
風が髪を揺らす。
彼女のもとへ、もう一度行く。
それ以外の選択肢が、今の自分にはなかった。
*
夜、海風町の駅に着くと、夏の虫の声と潮騒が迎えてくれた。
駅前の街灯の下、見慣れた喫茶店の看板の灯りがかすかに光っている。
CLOSEDの札が外され、ガラス越しに温かなオレンジの明かりが見えた。
そっと扉を押すと、ベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ――」
カウンターの向こうから聞こえた声。
結衣が顔を上げ、目を丸くした。
「……本当に、来てくれたんですね」
悠真は微笑んだ。
「君が呼んだから」
結衣は少し照れくさそうに頷いた。
「まだ全部思い出せたわけじゃないけど、もう一度ちゃんと話したいと思ったんです。あの日、言えなかったことを」
「俺も、話したいことがある」
夜の静けさが喫茶店を包む。
小さなランプの明かりがふたりを照らす。
結衣がコーヒーを淹れる音、湯気の立つ香り――すべてが懐かしく、優しい。
外では波が静かに寄せては返す。
夏の夜の始まりに、ふたりの時間がまた動き出していた。
そして、蝉の声が遠くで鳴り始める頃、結衣がそっと言った。
「この夏は、忘れられない夏になりそうです」
その言葉に、悠真はただ、静かに頷いた。
まだ遠い未来の景色が、心の中でゆっくりと広がっていった。
梅雨の合間の晴れ間。海風町の空は抜けるように青く、通りの軒先には色とりどりの風鈴が揺れていた。
けれどその音は、悠真の胸にはどこか遠く響いていた。
机の上の携帯には、まだ結衣からの新しいメッセージは届かない。
事故現場へ共に行ったあの日から、彼女は少しずつ変わり始めた。
記憶を取り戻しているというより、“昔の自分”と“今の自分”のあいだで均衡を探しているようだった。
「少しの間、ゆっくりしたい」とだけ言って、結衣は数日前に喫茶店を閉め、母親と一緒に実家の方へ戻った。
「何かを思い出しかけてる。でも、それが怖い」とも言っていた。
無理に追いかけないほうがいいと頭では分かっていた。それでも、彼女のいない町の時間はどこか色を失っていた。
喫茶seasideの前に立つと、店の看板は裏返しになり、“CLOSED”の文字が海風に揺れている。
ドアを開けられない静けさが、余計に記憶を呼び起こした。
笑い声、カップを置く音、レモンパイの甘酸っぱい香り。
けれど、どれだけ思い出しても、もう今の彼女はいない。
悠真は無言のまま店の前に立ち、カメラを構えて一枚撮った。
誰もいないドアの写真。
シャッターの音がやけに大きく響いた。
午後の風が強まり、遠くの空が少し曇りはじめていた。
彼は港の防波堤まで歩き、ベンチに腰を下ろす。
波の音とカモメの鳴き声が交互に届く。
指先でスマホを滑らせると、画面には以前撮った結衣の写真が次々と現れた。
花畑で笑っていた姿、通り雨を見上げていた姿、コップに水を注いでいた横顔――どれも生きているみたいで、見ているうちに呼吸が浅くなっていく。
そのとき、通知音が鳴った。心臓が一瞬跳ねる。
画面を開くと、彼女からのメッセージだった。
――「しばらく実家で過ごすことにしました。少しだけ自分と向き合ってみたいです。」
短い文だった。
けれどそれだけで、胸の奥に空洞が広がった気がした。
“少しだけ”という言葉が、とても遠く感じられた。
*
それから一週間が過ぎ、悠真は再び東京へ戻る決心をした。
出張の期間をとうに過ぎていたこともあり、これ以上は社内でも言い訳がきかなくなっていた。
駅のホームで列車を待つあいだ、潮の風と汽笛が入り混じって胸を締めつける。
ホームのベンチに腰を下ろすと、手元のカメラに昨日撮った写真が残っているのに気づいた。
夕暮れの港を撮った一枚。
水平線の先に夕陽が沈み、その手前にひとつの影があった。
ぼやけているが、女性の後ろ姿のように見える。
結衣に似ていた。
偶然かもしれない。それでも、悠真はその一枚を削除できなかった。
確かに、彼女はこの町の中にまだいる。そんな気がしてならなかった。
列車の到着を知らせるアナウンスが流れ、風が長く吹き抜けた。
彼は最後に一度だけ振り返る。
波が静かに揺れ、青い空と雲の隙間に白い光が差し込んでいる。
その光の中で、心が少しだけ温かくなった。
*
東京へ戻ると、街の空気は湿度を増していた。
高層ビルの影、アスファルトの照り返し、クーラーの音。
どれも海風町の静けさとは違う。
それでも仕事が彼を現実へ引き戻す。
オフィスのデスクに着き、積み重なった作業を一つずつ片づけていく。
指先でキーボードを叩くたびに、心の奥で波音が消えていくような感覚がした。
そんな中、同僚の麻衣が近づいてきた。
「ねえ高瀬さん、この間の海風町の記事、すごく評判良かったですよ。追加で企画通ったみたい」
「……そうですか」
「こんなに自然な視点で書ける人、なかなかいないって。ねえ、もう一回くらい取材行ってきたら? 写真も好評でしたよ」
それは予想外の言葉だった。
再び、あの町へ――。
考える間もなく、胸の奥から小さな鼓動が広がった。
「少し時間、もらってもいいですか」
「うん? いいけど、どこか行くの?」
「……ちょっと、海の方へ」
麻衣は軽く頷き、笑った。
「やっぱり。高瀬さん、あの記事の頃から何か吹っ切れた顔してたもん」
会社を出た後、夕暮れの駅へ向かう。
ホームに立つと、ビルの影が赤く染まっていた。
スマホを取り出し、受信箱をもう一度開く。
“しばらく実家で過ごす”
その言葉だけが残っている。
――彼女の中で、何かが変わろうとしている。
――なら、自分も止まっているわけにはいかない。
悠真はカメラを握りしめ、小さく息を吐いた。
その瞬間、ポケットのスマホが震えた。
画面には、もう一度“宮川結衣”の名前。
「え……?」
開くと、短いメッセージ。
――「また会いたいです。話したいことがある。」
心臓が強く跳ねた。
その瞬間、構内アナウンスが列車の到着を告げた。
風が髪を揺らす。
彼女のもとへ、もう一度行く。
それ以外の選択肢が、今の自分にはなかった。
*
夜、海風町の駅に着くと、夏の虫の声と潮騒が迎えてくれた。
駅前の街灯の下、見慣れた喫茶店の看板の灯りがかすかに光っている。
CLOSEDの札が外され、ガラス越しに温かなオレンジの明かりが見えた。
そっと扉を押すと、ベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ――」
カウンターの向こうから聞こえた声。
結衣が顔を上げ、目を丸くした。
「……本当に、来てくれたんですね」
悠真は微笑んだ。
「君が呼んだから」
結衣は少し照れくさそうに頷いた。
「まだ全部思い出せたわけじゃないけど、もう一度ちゃんと話したいと思ったんです。あの日、言えなかったことを」
「俺も、話したいことがある」
夜の静けさが喫茶店を包む。
小さなランプの明かりがふたりを照らす。
結衣がコーヒーを淹れる音、湯気の立つ香り――すべてが懐かしく、優しい。
外では波が静かに寄せては返す。
夏の夜の始まりに、ふたりの時間がまた動き出していた。
そして、蝉の声が遠くで鳴り始める頃、結衣がそっと言った。
「この夏は、忘れられない夏になりそうです」
その言葉に、悠真はただ、静かに頷いた。
まだ遠い未来の景色が、心の中でゆっくりと広がっていった。
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