君の声を、もう一度

たまごころ

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第12話 ノートの片隅の名前

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翌朝の海風町は、まるで季節がひと晩で進んでしまったかのように蒸し暑かった。  
朝から蝉が鳴き始め、空の高い所には真夏の雲が浮かんでいる。  
喫茶seasideの扉を開けると、冷房の風とコーヒーの香りが迎えてくれた。  

結衣はすでにカウンターに立っていた。白いシャツに淡い水色のスカート。  
その姿にどこか学生時代の面影を感じた。  

「おはようございます」  
「おはよう。今日も暑いね」  
「本当に。朝からアイスコーヒーが出ますよ」  

彼女は笑いながら氷をグラスに落とした。カランという音が涼しく響く。  
カウンター席に腰を下ろすと、結衣がひとつのノートを差し出した。  
見覚えのある、黒い革表紙のノート――悠真の取材メモだった。  

「昨日お店を片付けていたら、棚の隙間から出てきたんです」  
「え? この間、忘れたやつとは別の?」  
「そうみたいです。表紙の角が少し破れてて」  

彼が手に取ると、確かに自分の筆跡だった。  
ただ、最後のページに違和感がある。線がかすれ、途中で書きかけのまま止まっていた。  

“七月一日 海風町。彼女の記憶は——”  

文はそこで途切れ、下の余白に小さく一つだけ名前が残されていた。  
「結衣」と。  

一文字一文字が震えた跡を残していた。  
それは五年前、失踪直前にこの町で書いたメモかもしれなかった。  

「これ、いつのなんでしょうね?」  
「わからない。でも、俺がこの町にいた記録だと思う」  
「……“彼女の記憶は”って、なんだか意味深ですね」  
結衣が目を細めてノートを覗き込んだ。  
その言葉が現実に重なるように思えた。  

「あなた、昔ここにいたことあるんですよね?」  
「取材の仕事で何度か通ってたから。でも……当時のことは、あまり話したくなかった」  
「どうして?」  
「その時は、どうしても忘れられない人がいたから」  

結衣の瞳がかすかに揺れた。  
「大切な人、ですか?」  
「そう。大事な人だった。でも、ある日突然いなくなった」  
「……そうなんですね」  
結衣はグラスの中の氷を指で回した。  
「なんだか、不思議です。私、そういう話を聞くと胸が痛くなるんです。まるで誰かの記憶を自分がそのまま感じてるみたいで」  

それは偶然ではない――悠真はそう思いながらも言葉を飲み込んだ。  
彼女の心が少しずつ過去へ近づいているその瞬間を、壊したくなかった。  

「ノート、ゆっくり読んでいいですか?」  
「いいですよ。ただ昔の旅の記録だから、面白いものじゃないかも」  

数ページをめくるたびに、万年筆のインク跡が光を反射して見えた。  
「このページ……“潮風通りの交差点”って書いてますね」  
「ああ、たぶん取材の帰りにメモした場所だ」  
「そこ、見てみたいです。どんな景色だったか、今どうなってるか」  

午後、ふたりは店を出て潮風通りへ向かった。  
空は青一色に広がり、蝉の声が木立の上でこだまする。  
坂道を上ると、遠くに港のクレーンが見えた。  
やがて交差点に着くと、そこには古びた横断歩道と、信号の脇に小さな雑貨屋の跡が残っていた。  

「……この道」  
結衣の声が小さく揺れる。  
「この白線、見たことがある気がします。夢で何度も見ました」  
「夢で?」  
「歩き出した瞬間、誰かが名前を呼ぶ声がして、振り返ったら光に包まれて――そこでいつも目が覚めるんです」  

その描写に、悠真の心臓が跳ねた。  
それは彼が五年前に見た光景と同じだった。  
黄昏の街角、信号が赤になる瞬間、傘を持った彼女が振り向いたあの姿。  
そしてその後の、ブレーキ音と白い閃光。  

「結衣……」  
思わず名前を呼んだ。  
結衣は目を丸くして彼を見つめた。  

「今、私の名前を……呼びました?」  
「……ごめん。無意識だった」  
「不思議。けど、嫌じゃないです。むしろ、懐かしい」  

静かな風が頬を撫で、木の葉を揺らした。  
車の通らない短い時間の中、蝉の声だけが響いている。  

「思い出すこと、怖くないですか?」  
「怖いです。でも、だからこそ知りたい。私、何を忘れてしまったのか」  
「きっと、思い出しても君は変わらないよ」  
「そうだといいな」  

結衣が微笑んだとき、夕陽が信号機のガラスを透かした。  
赤く染まった光の中で、その表情は涙のようにきらめいている。  

「ありがとう、連れてきてくれて」  
「いえ。俺も、いつかちゃんとここに来なければと思ってた」  

しばらく無言で並んで立っていると、風が強まり、ノートのページが勝手にめくれた。  
止まった先には、一枚の写真が挟まっていた。  

古いポラロイド写真。  
そこには喫茶seasideの前で肩を並べて笑う男女の姿が写っていた。  
男は悠真、女は――間違いなく結衣だった。  

結衣が写真をそっと指でなぞった。  
「これ……私?」  
「そう。五年前、君はこの町で俺と一緒にいた」  
「じゃあ、さっき話してた“大事な人”って」  
「君だよ」  

空気が止まる。  
蝉の声さえ遠くなる。  

結衣は震えるように息を吐いた。  
「どうして、そんな大事なこと、もっと早く言ってくれなかったんですか」  
「君が苦しむと思った。無理に思い出させるのは違うって」  
「でも、私……どこかでずっとあなたを探してた気がするんです」  

彼女がそう言った瞬間、雨の匂いが風に混じった。  
遠くの空で雷が小さく鳴る。  
やがて、一粒の雨が頬に落ちた。  

「また、降ってきたね」  
「通り雨かもしれません」  

彼女の声に過去と現在が重なる。  
傘も持たずに、ふたりは濡れた舗道の上を歩き始めた。  
雨粒がノートに打ちつけて、文字が少しずつ滲んでいく。  

結衣はノートを胸に抱き、微笑んだ。  
「このノート、きっと私たちの記録なんですね。少しずつ滲んでいくのに、消えない」  
「消えないよ。たとえ何度雨に打たれても」  

通り雨が静かに町を包んだ。  
五年前、彼女が記憶を失った時と同じ匂い。  
けれど今のふたりは、あの頃よりも少しだけ強くなっている。  

信号が青に変わる。  
びしょ濡れのまま歩き出す結衣の手を、悠真はそっと握った。  

「大丈夫。もう一度、同じ道を歩ける」  
「ええ。今度は、二人で」  

その言葉とともに、雨の中の町がゆっくりと色を取り戻していった。  
ノートの片隅に書かれた名前が、滲みながらも確かにそこに残っている。  

“結衣”――その文字が、雨粒に光りながら輝いていた。
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