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第13話 花火と影
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夕暮れの色がゆっくりと群青に変わっていく。
海風町の空に、夏の夜が訪れていた。
一日だけ開催される町の花火大会。港の防波堤には屋台の灯りが並び、浴衣姿の人々が行き交っていた。
五年ぶりに再会した二人の心に、夏の影が少しずつおりてくる。
喫茶seasideの店先に立つと、結衣が振り返った。
白地に小さな朝顔模様の浴衣を着ている。帯の色は淡い藤。
髪をゆるくまとめた後れ毛が頬にかかっていて、見慣れた店の姿とはまるで違った。
「待たせました?」
「いや、俺もいま来たところ」
「ふふ、ドラマみたいな返事」
「言ってみたかっただけ」
「似合ってますよ」
二人とも、あの春のぎこちなさが嘘のように自然に笑っていた。
けれど、互いの心の奥に残るものはまだ消えていない。
「行きましょう。屋台、何から見ます?」
「何でも。好きなもの食べよう」
港に近づくと、人波が増えていく。
水飴の色、焼きそばの匂い、遠くで金魚すくいの声。
夏という季節が、音と光でこの町に満ちていく。
その中を歩きながら、悠真は気づいていた。
彼女の歩幅が、五年前と同じ速さだったことに。
「覚えてますか?」結衣が振り向いた。
「え?」
「昔も、この道を一緒に歩いた気がするんです。屋台の並び方も、風の匂いも同じで」
「覚えてないよ。君がそう言うから、そうだった気がしてくる」
「そういうものなのかも。記憶って、誰かと共有してると本当の形になるんですね」
彼女の言葉に、悠真はうなずいた。
記憶は形が曖昧で、ひとりだと簡単に失われる。
でも、二人なら取り戻せる気がした。
「金魚すくい、やってみようかな」
「前もやったよ」
「うそ、そうなんですか?」
「覚えてない? すぐ破けて失敗したけど、『また挑戦しよう』って笑ってた」
「……知らないのに、懐かしい」
小さなプラスチックのポイで金魚をすくおうとする結衣の指先。
透明な水滴が光をとらえて揺れていた。
けれどやっぱり破けて、水がこぼれる。
「ほら、言った通り」
「悔しい……。でも次は取ります」
「次って、また来年?」
「ええ、来年もやります。その時までに練習しておきます」
彼女の声に、当たり前のように未来を想像している自分に気づく。
“また来年”という言葉が、過去ではなく希望として響いたのは初めてだった。
夜八時を過ぎたころ、花火が始まった。
一発目が夜空を裂くように上がり、光の花が開く。
町のあちこちから歓声が上がり、潮風の中で赤や青の光が反射した。
二人は堤防の端に腰を下ろし、夜空を見上げた。
「きれいですね」
「うん。やっぱり夏は花火がないと始まらない」
「小さいころ、煙の匂いが好きだったんです。少し苦くて、夏が終わっちゃう匂い」
「俺も。消えた後の静けさが、子どもの頃は怖かった」
ドン、と音が響いて、花火の閃光が彼女の顔を照らす。
その瞬間、悠真は息をのんだ。
光に浮かび上がる彼女の瞳の奥に、かすかな涙が光っていた。
「結衣?」
「なんでもないです。ただ、懐かしすぎて。胸の奥が痛くなるんです」
「思い出したの?」
「少しだけ。でも全部はまだ見えない。光るたびに影ができて、その影の中に何か大事なものが隠れてる気がします」
“影”という言葉を聞いて、悠真の心にも同じ痛みが走る。
過去は決して綺麗な光だけじゃなかった。
彼女が記憶を失ったのも、自分が助けられなかったせい――あの日、自分が呼び止めなければ。
そんな後悔が波のように押し寄せる。
手を握りたい衝動を抑えながら、彼は空を見上げた。
金の花が一瞬で弾け、夜がその欠片を飲み込む。
人生もたぶん、花火みたいに一瞬の輝きと消える瞬間の繰り返しだ。
「今夜の写真、撮りますか?」と結衣が言った。
「もちろん。でも撮ってもすぐ消えちゃうかもしれないね」
「それでもいい。消えても、心に残ります」
悠真はカメラを構えた。
ファインダーの中、花火の光に照らされた彼女の横顔が鮮やかに浮かび上がる。
シャッターを切った瞬間、光と音が胸の奥に沈んだ。
すぐそばから彼女の声が聞こえた。
「私、もし全部思い出せたら怖い気がします。でも、それでも知りたい。あなたと過ごした全部を」
「思い出しても、変わらないよ」
「嘘でもそう言ってください」
「変わらない。何があっても、俺はここにいる」
結衣は静かに笑った。
「ありがとうございます」
風が吹き、花の火がいくつも連続して打ち上がる。
光の滝のように夜空を染めながら、残響だけが町に落ちていく。
花火が終わると、彼女は小さく息をついた。
「終わっちゃいましたね」
「また来年も見よう」
「ええ。次は、もう少し近くで」
帰り道、遠くでまだ小さな花火が打ち上げられていた。
川べりの水面に映る光が波打ち、ふたりの影を揺らす。
中途半端な光と闇が混ざるその道の上で、結衣がぽつりと言った。
「私、影の中の自分と向き合わなきゃいけない気がします」
「どういうこと?」
「記憶を失くした自分が、いちばん傷ついたのは“誰かを愛していた”からじゃないかって。
そして今また、同じ気持ちを感じている。それが嬉しくて、こわい」
言葉が出なかった。
彼女の想いがどんな方向を向いているのか、悟りながらも確かめたくないという感情が重なった。
「その“誰か”もきっと、君を愛してたと思うよ」
「そんな気がします。……じゃあ、明日の朝、少し早く港に来てください」
「港?」
「見せたい場所があるんです」
そう言って、彼女は夜の中に消えた。
蝉の声が遠くで途切れ、海の向こうからの風が頬を撫でた。
残る光の粒が空から落ちていく。
花火の終わった夜の空は暗く、どこまでも深かった。
その闇の奥に、彼女の影だけが静かに残っている気がした。
悠真は空を見上げ、小さく息をついた。
「きっと明日も、会えるよな」
その声は波音に溶け、夜の海に吸い込まれていった。
海風町の空に、夏の夜が訪れていた。
一日だけ開催される町の花火大会。港の防波堤には屋台の灯りが並び、浴衣姿の人々が行き交っていた。
五年ぶりに再会した二人の心に、夏の影が少しずつおりてくる。
喫茶seasideの店先に立つと、結衣が振り返った。
白地に小さな朝顔模様の浴衣を着ている。帯の色は淡い藤。
髪をゆるくまとめた後れ毛が頬にかかっていて、見慣れた店の姿とはまるで違った。
「待たせました?」
「いや、俺もいま来たところ」
「ふふ、ドラマみたいな返事」
「言ってみたかっただけ」
「似合ってますよ」
二人とも、あの春のぎこちなさが嘘のように自然に笑っていた。
けれど、互いの心の奥に残るものはまだ消えていない。
「行きましょう。屋台、何から見ます?」
「何でも。好きなもの食べよう」
港に近づくと、人波が増えていく。
水飴の色、焼きそばの匂い、遠くで金魚すくいの声。
夏という季節が、音と光でこの町に満ちていく。
その中を歩きながら、悠真は気づいていた。
彼女の歩幅が、五年前と同じ速さだったことに。
「覚えてますか?」結衣が振り向いた。
「え?」
「昔も、この道を一緒に歩いた気がするんです。屋台の並び方も、風の匂いも同じで」
「覚えてないよ。君がそう言うから、そうだった気がしてくる」
「そういうものなのかも。記憶って、誰かと共有してると本当の形になるんですね」
彼女の言葉に、悠真はうなずいた。
記憶は形が曖昧で、ひとりだと簡単に失われる。
でも、二人なら取り戻せる気がした。
「金魚すくい、やってみようかな」
「前もやったよ」
「うそ、そうなんですか?」
「覚えてない? すぐ破けて失敗したけど、『また挑戦しよう』って笑ってた」
「……知らないのに、懐かしい」
小さなプラスチックのポイで金魚をすくおうとする結衣の指先。
透明な水滴が光をとらえて揺れていた。
けれどやっぱり破けて、水がこぼれる。
「ほら、言った通り」
「悔しい……。でも次は取ります」
「次って、また来年?」
「ええ、来年もやります。その時までに練習しておきます」
彼女の声に、当たり前のように未来を想像している自分に気づく。
“また来年”という言葉が、過去ではなく希望として響いたのは初めてだった。
夜八時を過ぎたころ、花火が始まった。
一発目が夜空を裂くように上がり、光の花が開く。
町のあちこちから歓声が上がり、潮風の中で赤や青の光が反射した。
二人は堤防の端に腰を下ろし、夜空を見上げた。
「きれいですね」
「うん。やっぱり夏は花火がないと始まらない」
「小さいころ、煙の匂いが好きだったんです。少し苦くて、夏が終わっちゃう匂い」
「俺も。消えた後の静けさが、子どもの頃は怖かった」
ドン、と音が響いて、花火の閃光が彼女の顔を照らす。
その瞬間、悠真は息をのんだ。
光に浮かび上がる彼女の瞳の奥に、かすかな涙が光っていた。
「結衣?」
「なんでもないです。ただ、懐かしすぎて。胸の奥が痛くなるんです」
「思い出したの?」
「少しだけ。でも全部はまだ見えない。光るたびに影ができて、その影の中に何か大事なものが隠れてる気がします」
“影”という言葉を聞いて、悠真の心にも同じ痛みが走る。
過去は決して綺麗な光だけじゃなかった。
彼女が記憶を失ったのも、自分が助けられなかったせい――あの日、自分が呼び止めなければ。
そんな後悔が波のように押し寄せる。
手を握りたい衝動を抑えながら、彼は空を見上げた。
金の花が一瞬で弾け、夜がその欠片を飲み込む。
人生もたぶん、花火みたいに一瞬の輝きと消える瞬間の繰り返しだ。
「今夜の写真、撮りますか?」と結衣が言った。
「もちろん。でも撮ってもすぐ消えちゃうかもしれないね」
「それでもいい。消えても、心に残ります」
悠真はカメラを構えた。
ファインダーの中、花火の光に照らされた彼女の横顔が鮮やかに浮かび上がる。
シャッターを切った瞬間、光と音が胸の奥に沈んだ。
すぐそばから彼女の声が聞こえた。
「私、もし全部思い出せたら怖い気がします。でも、それでも知りたい。あなたと過ごした全部を」
「思い出しても、変わらないよ」
「嘘でもそう言ってください」
「変わらない。何があっても、俺はここにいる」
結衣は静かに笑った。
「ありがとうございます」
風が吹き、花の火がいくつも連続して打ち上がる。
光の滝のように夜空を染めながら、残響だけが町に落ちていく。
花火が終わると、彼女は小さく息をついた。
「終わっちゃいましたね」
「また来年も見よう」
「ええ。次は、もう少し近くで」
帰り道、遠くでまだ小さな花火が打ち上げられていた。
川べりの水面に映る光が波打ち、ふたりの影を揺らす。
中途半端な光と闇が混ざるその道の上で、結衣がぽつりと言った。
「私、影の中の自分と向き合わなきゃいけない気がします」
「どういうこと?」
「記憶を失くした自分が、いちばん傷ついたのは“誰かを愛していた”からじゃないかって。
そして今また、同じ気持ちを感じている。それが嬉しくて、こわい」
言葉が出なかった。
彼女の想いがどんな方向を向いているのか、悟りながらも確かめたくないという感情が重なった。
「その“誰か”もきっと、君を愛してたと思うよ」
「そんな気がします。……じゃあ、明日の朝、少し早く港に来てください」
「港?」
「見せたい場所があるんです」
そう言って、彼女は夜の中に消えた。
蝉の声が遠くで途切れ、海の向こうからの風が頬を撫でた。
残る光の粒が空から落ちていく。
花火の終わった夜の空は暗く、どこまでも深かった。
その闇の奥に、彼女の影だけが静かに残っている気がした。
悠真は空を見上げ、小さく息をついた。
「きっと明日も、会えるよな」
その声は波音に溶け、夜の海に吸い込まれていった。
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