君の声を、もう一度

たまごころ

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第14話 小さな嘘

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翌朝の港は、夜の熱をまだ少し残していた。  
潮の香りと油の匂いが混ざり、船を磨く作業音が波間に響く。  
空は薄い金色に染まっていて、太陽が水平線からゆっくり顔を出すところだった。  
悠真は涼しい風に髪を撫でられながら、一本の古い桟橋に立っていた。  

結衣に言われた通り、この時間に来てみた。  
昨日の花火の記憶が、まだ余韻として胸の奥に残っている。  
人の気配は少なく、潮の音だけが近くで呼吸をしているようだった。  

しばらくして、背後から足音が聞こえた。  
「おはようございます」  
振り向くと、麦わら帽子をかぶった結衣が立っていた。  
白いワンピースに薄いカーディガン。朝日を受けて、輪郭が柔らかく光っている。  

「おはよう」  
「早起き、苦手でしたよね?」  
「今日は不思議と起きられた」  
「ふふ、よかった」  

結衣は桟橋の端まで歩いて行き、海をじっと見つめた。  
「ここ、父のお気に入りの場所だったんです。潮の具合がいいって言って、よく釣りをしてました」  
「へえ、いい場所ですね」  
「私、ここに来ると昔の夢を見ます。たぶん、事故の前の記憶」  

彼女の瞳が揺れた。  
「夢の中で、私はこの桟橋に立って誰かを待ってるんです。誰かが来るのを。  
でも、いつも空は夕暮れで、海が強く光って、顔が見えないまま終わっちゃうんです」  

「その誰かは、きっと大事な人なんですね」  
「……そう思います」  
「だったら、きっとその人もずっとあなたを探してる」  

「探してくれてるのかな」  
「探してる。俺が、そうだったように」  
結衣の肩が小さく震えた。  
振り返った目に陽光が流れ込み、言葉が溶けて消える。  

「昨日の花火、きれいでしたね」  
「うん。すごく」  
「夢みたいだった。あんなに長い時間、人と同じ空を見上げていられたのが、久しぶりで」  

彼女は桟橋の手すりに手を置き、かすかに笑った。  
その横顔が、五年前の記憶と寸分違わなかった。  
彼女がいなくなった日も、同じように海風を受けながら笑っていた。  

「ねえ、悠真さん」  
「何ですか」  
「覚えてますか? 私があの頃、夢を叶えたら見せたい景色があるって言ってたこと」  
「……覚えてる」  
「この町の夜明け、見せたかったんです。あの時は叶わなかったけど」  

水平線の向こうから、太陽が海を割るように昇ってきた。  
光が水面を走り、桟橋全体を金色に染める。  
二人の影が、長く伸びて重なった。  

「きれいですね」  
「うん」  
「こんなにまぶしいのに、胸の奥だけ少し苦しい。嬉しいのに、少し痛い」  
結衣が小さく息をついた。  
「多分、それが“思い出す”ってことなんだと思います。記憶じゃなくて、感情の方が先に戻ってくるんですね」  

少しの沈黙を挟んで、悠真は言った。  
「思い出したくないことも、あるかもしれません」  
「ええ。でも、もう逃げないです。どんな記憶でも、私の一部だから」  
「……強くなりましたね」  
「あなたと会って、やっと向き合えるようになりました」  

風が吹き、麦わら帽子が飛びそうになる。  
悠真が反射的に手を伸ばして押さえた瞬間、彼女の指と軽く触れた。  
小さな震え。  
そして、彼女はそっと笑った。  

「ありがとう」  
「どういたしまして」  

その一言で、何かがほどける。  
けれど同時に、言えない言葉が胸の奥に積もっていった。  

桟橋を離れたあと、ふたりは並んで海沿いの道を歩いた。  
夏の陽射しが道を照らし、遠くで蝉が鳴き始めている。  
「ねえ、悠真さん」  
「うん?」  
「実はずっと、怖かったんです。もし昔の私が違う誰かを好きだったらどうしようって」  
「……」  
「その人を思い出したら、今の気持ちを失くしてしまうんじゃないかって」  
「失くさないよ」  
「でも、あなたが“その人”だったらどうします?」  
「それでも、また好きになると思う」  

一瞬、空気が止まった。  
結衣は立ち止まり、ゆっくりこちらを向いた。  
唇がかすかに動いたが、言葉にはならなかった。  

「……そんなこと、言わないでください」  
「どうして?」  
「今、泣きそうになるから」  

彼女はそう言って前を向いた。  
蝉の声が遠くで強く響き、夏の匂いが濃くなっていく。  
ふたりの影が並んで伸び、アスファルトの上で重なっては離れていった。  

「今夜、またお店に来てください」  
「お店に?」  
「少し話したいことがあるんです。うまく言葉にできるかわからないけど」  
「わかりました」  

喫茶seasideの扉を開けたのは、夜の八時を少し回ったころだった。  
カウンターの灯りだけがついており、店内は静かだった。  
奥から結衣が現れ、手に一枚の封筒を持っている。  

「これ、母がくれました。五年前、私が事故にあったときに持っていたらしいです」  
「手紙?」  
「うん。開封されていなかったんです」  

丁寧に封を切ると、中から折りたたまれた一枚の紙が出てきた。  
結衣が息を詰めたまま広げる。  

便箋には見覚えのある筆跡。  
それは悠真の字だった。  

“結衣へ。もう一度この町で会いたい。五年先でも十年先でも、君を探す。”  

時が止まる。  
彼自身、その手紙を出した記憶が曖昧だった。  
事故の後、何をどうすればいいのかわからなくなって、ただ手紙を書いては出せずに持ち歩いていた。  
まさか、それが彼女の手元に渡っていたとは。  

「これ、あなたですよね」  
「……ああ」  
「どうして、出したことも覚えていないんですか」  
「多分、怖かったんだ。本気で誰かを待つって、気持ちを壊しそうで」  

結衣はしばらく沈黙し、手紙を胸に抱えた。  
「私も嘘をついてました。少し前に、全部思い出したんです。でも、怖くて言えなかった」  
「……全部?」  
「ええ。あなたのことも、最後に別れた日のことも」  

その声は震えていた。  
「思い出した瞬間、嬉しさよりも悲しさの方が強くて。だから、今日までは“知らないふり”をしてたんです。ごめんなさい」  

悠真はただ首を振った。  
「いいんです」  
「いいわけないですよ。ずっと嘘をついてました。あなたが優しくしてくれるたびに、心が痛かった」  
「それでも、また君に会えてよかった。どんな形でも」  

涙が結衣の頬に伝った。  
「私、忘れてたわけじゃなかった。思い出せなかったんじゃなくて、自分で閉じてたんです。あの日の痛みを」  
「結衣……」  
「でも、今は大丈夫です。全部受け止められそう」  

彼女が手紙をテーブルに置いた。  
そして、少し力を抜いた笑顔で言った。  
「ねえ、悠真さん。花火のとき、私に言いましたよね。“何があっても俺はここにいる”って」  
「言ったね」  
「その言葉、信じてもいいですか」  
「もちろん」  

彼女はゆっくり立ち上がり、彼の方へ一歩近づいた。  
灯りに照らされた瞳が、涙に濡れて輝いている。  

「ありがとう。……もう、小さな嘘はつかない」  
「俺も」  

やがて、店内に時計の針の音だけが残った。  
窓の外では波の音が静かに続いている。  
結衣がカウンター越しに手を伸ばした。  
悠真はその手を、今度こそ迷わず握った。  

重なった手の温もりが、過去の痛みを少しずつ溶かしていく。  

「あの日の約束、もう叶いましたね」  
「うん。でも、これからも続けよう」  

夜の海風がカーテンを揺らした。  
二人の手の間で、長い時間が静かに結び直されていった。
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