君の声を、もう一度

たまごころ

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第15話 誰のための笑顔

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夜の喫茶seasideには、波の音が遠くから届いていた。  
閉店後の静けさの中で、グラスを磨く音だけが小さく響く。  
カウンターの向こうで、結衣はゆっくりと手を動かしていた。  
昼間に告げた自分の嘘――それが消えるような静寂。  
あの瞬間から、心の奥では何かが確かに変わり始めていた。  

「これで最後のグラスです」  
そう言って彼女は手を止めた。  
「少し歩きませんか?」  
「いいですよ」  

夜風を求めて外に出ると、空には雲間から月がのぞいていた。  
港の照明が海面を照らし、灯りがゆらゆらと揺れている。  
夏の夜は長く、潮の香りの中に少しだけ秋の気配が混じっていた。  

「母が言ってたんです」結衣が口を開いた。  
「“あなたは誰かを幸せにするためじゃなくて、自分が笑うために生きなさい”って。  
事故の後、ずっとその意味が分からなくて。でも最近、少し分かってきた気がします」  

「どうして?」  
「あなたとまた会って、自分の笑い方が変わった気がするから」  
「変わった?」  
「うん。前は、“笑う”って相手を喜ばせたいからのものでした。  
でも今は違う。あなたの隣にいると、自然に笑えるんです」  

夜風が髪をそっと撫でる。  
灯台の光が一定のリズムで回り、波が静かに浜に寄せる。  
淡い潮騒の響きが、ふたりの間を繋いでいた。  

「結衣さん」  
「はい」  
「俺、君に出会ってからずっと思ってたことがあるんです」  
「……何ですか?」  

悠真は少し息を吸ってから、言葉を選んだ。  
「あなたの笑顔は、誰かのために作られたものじゃないほうがきれいだと思う」  
「……」  
「無理して笑わなくてもいいし、悲しい時はそのままでいい。でも、君が心から笑ったら、それだけで全部報われる気がする」  

結衣は少し俯き、肩を震わせて微笑んだ。  
「そんなこと言われたの、初めてです」  
「本当のことですよ」  

「じゃあ……今の笑顔はどう見えますか?」  
彼女がそっと顔を上げた。  
月明かりの下、濡れたような瞳が静かに光っていた。  
自然で、柔らかくて、少し涙が残っている。  

「本物です」  
「よかった」  
「でも、それを俺の前で見せてくれるのは、ちょっとだけずるい」  
「どうして?」  
「好きになるから」  

その一言に、夜の音が一瞬止まった気がした。  
風も、波も、遠くの灯りも、全部が息をひそめて、その場の二人だけを残した。  

「……私も、多分同じです」  
「同じ?」  
「あなたに出会って、忘れてた感情が戻ってきたんです。ちゃんと“誰かを好きになる気持ち”。  
でも、これが恋なのか、過去の記憶の残りなのか、自分でもわからない」  

「それでいいと思う」  
「え?」  
「どっちでも、君が今感じてるものなら、それが真実なんじゃないかと思うから」  

結衣は目を閉じて、深呼吸をひとつした。  
「私、過去の自分の記憶を全部受け止めようと思っています。  
あなたとのことも、事故のことも、怖くてもちゃんと向き合いたい」  
「向き合える?」  
「ええ。逃げてばかりじゃ、同じ場所をぐるぐる回るだけですから。  
でも、もしすべて思い出したら……私はまた別の人間になってしまうかもしれません。それでも、そばにいてくれますか?」  

「もちろんです」  
その言葉は迷いなく出た。  
結衣はゆっくりと頷いた。  
「ありがとう」  

港沿いのベンチに並んで座る。  
遠くの堤防からはカップルの笑い声が聞こえ、空には無数の星が散っていた。  

「そういえば、子どもの頃って星座の形、よく分からなかったけど全部好きでした」  
「俺も。目に見えるもの全部が綺麗で、それで充分だった」  
「そうですね。思い出も同じですね。全部形のないものばかり」  
「そうかもしれない」  

夜空を仰ぐと、灯台の光がぐるりと一周して頬を照らした。  
その一瞬の光の中、彼女の横顔がやさしく浮かび上がる。  
結衣の瞳は、もう怯えていなかった。  

「生きてるだけで、たくさんの小さな嘘をつくんですね」  
「誰でもそうですよ」  
「今日まで、私は“平気なふり”をずっとしてきた気がします。  
でも、そろそろ正直に生きたい」  
「いいと思います。嘘をやめる時って、ちょっと怖いけど、自由でもあるから」  
結衣はうなずいた。  
「あなたと話してると、心がほどけていく感じがします」  
「そうなるように祈ってます」  

彼女が微笑む。  
「祈りなんて久しぶりに聞きました」  
「俺、もともと願うことばっかりしてきた人間だから」  
「どんな願い事を?」  
「“もう一度、君に会えますように”って」  

結衣の表情が少し歪み、唇が震えた。  
「それを聞いたら、泣きそうになります」  
「泣いてもいいです。泣いたあとで笑えば、それでいい」  

風が海面を撫で、波が足元まで寄せては返す。  
結衣は両手を膝に置き、少しの間だけ黙っていた。  
やがて、抑えていた感情がこぼれるように声を発した。  

「私、多分、またこの町を出ると思います」  
「え?」  
「母と話してたんです。東京の知人が、新しいカフェを始めるらしくて。そこを手伝わないかって。  
いつまでも過去の場所にいると、前に進めない気がするんです」  

一瞬、胸の奥がざわめいた。  
彼女がこの町を離れる――  
たぶん、それが彼女にとっての救いであることは分かっていた。  
けれど、心のどこかで「行かないで」と叫びたい気持ちが喉につかえた。  

「そうですか。いい話ですね」  
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど穏やかだった。  
「はい。でも、まだ決めてません。もう一度ちゃんと考えてから」  
「どんな選択をしても、応援します」  
「……ありがとうございます。やっぱり優しいですね」  
「違います。本当は、寂しいです」  

その正直な言葉に、結衣は小さく笑った。  
「正直で嬉しいです」  

夜空に星が瞬き、淡い風が通り抜けていく。  
結衣は立ち上がり、港の先を見つめた。  
「もし東京に行くとしても、またこの町に帰ってきます。その時、あなたがまだここにいたら……もう一度会ってくれますか」  
「そのときも、きっと俺はこの海を見てるはずです」  
「約束ですよ」  

彼女が振り向き、そっと微笑む。  
その笑顔には、もう誰かのための強がりはなかった。  

夜の海辺で交わした約束は、波と一緒に静かに流れていった。  
そして、胸に小さな痛みと温かさを残したまま、長い夜が明けていく。  

――誰のための笑顔でもない笑顔。  
それが、彼女がようやく取り戻した、本当の表情だった。
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