君の声を、もう一度

たまごころ

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第17話 病院の廊下にて

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夏の終わりを告げる朝は、どこか冷たい。  
蝉の声は力を失い、空には薄い雲がかかっていた。  
海風町の街路樹の葉が少しずつ色を変え始め、風の匂いにも秋の気配が混じっていた。  

悠真は駅前のベンチで紙コーヒーを手に、ゆっくりと息を吐いた。  
昨夜――結衣と交わした会話が、まだ頭の中に残っていた。  
東京へ行くかもしれない。  
あの言葉は、穏やかでありながら、切実だった。  

「前に進みたい」  
彼女は確かにそう言った。それは、痛みを知る人の覚悟の声だった。  
だからこそ、彼は止めることが出来なかった。  

スマホに着信が入る。  
画面には「宮川」の名前。彼女の母親だった。  

「もしもし、高瀬さん?」  
「はい。おはようございます、宮川ですか?」  
「はい。突然ごめんなさい。結衣が……今朝、少し倒れたの」  
「え?」  

心臓が一拍早く鳴った。  
「病院に運んで、今は意識はあるけど、念のため検査を受けているの。もし時間があるなら来てほしいって」  
「もちろん、すぐ行きます」  

電話を切ると、コーヒーをベンチに置いたまま立ち上がった。  
走りながら、頭の中でいくつもの場面がよぎる。  
昨日、あんなに元気だったのに――。  

病院は町の外れにある高台の上にあった。  
急な坂道を駆け上がり、受付で名前を伝えるとすぐに案内された。  
白い廊下の奥、ガラス越しに差し込む光が眩しかった。  

看護師が静かに言った。  
「宮川さんでしたら、今は点滴を受けています。意識ははっきりしていますよ」  

病室の前で立ち止まり、手を握りしめる。  
ドアを開けると、結衣はベッドに横たわっていた。頬には少しだけ赤みが戻っていて、眠たげな表情をしている。  
その横には母親が付き添い、安心したように微笑んだ。  

「来てくれてありがとうね」  
「具合は……?」  
「熱中症みたい。でも念のため脳の検査も受ける予定ですって」  
母親が部屋を出て行くと、静寂が戻った。  

「……ごめんなさい」  
結衣の声は掠れていた。  
「そんなに謝らないでください。大したことなくて良かった」  
「心配、かけたから」  
「当たり前ですよ。大切な人が倒れたら、誰だって心配します」  
その言葉に、彼女は小さく笑った。  

「おおげさです」  
「本音です。体調悪い時くらい、人を頼ってください」  
「いつもそう言ってくれますね。でも、誰かを頼るのが怖いんです。きっと前の私が無理をしすぎたから」  

「結衣さん、覚えてますか? この病院」  
「え?」  
「昔、君のお父さんが入院してた病院ですよ。取材がてら見舞いに来たことがあって……あの頃のこと、ふと思い出したんです」  
「そう……だったんですね」  
「君、ベッドの近くで“強くなりたい”って言ってた」  
「強く……」  
「泣かないで笑えるようになりたいって」  

長い沈黙が流れた。  
窓の外の光がゆっくりと揺れ、風でカーテンがはためく音だけが響く。  
結衣がぽつりと呟いた。  
「私、あの日の夢を見たんです」  
「事故の日?」  
「はい。断片的にだけど。――信号の赤が目に残ってて、誰かが走ってきて、名前を呼ばれる声。そこまでで目が覚める」  

彼女の視線は遠く、どこか痛みを宿していた。  
「それ、俺です」  
「……やっぱり、そうですよね」  
「止めようとした。でも、間に合わなかった」  
「あなたが、ずっと抱えてたんですね」  

悠真は息を飲み、手を伸ばして彼女の手に触れた。  
冷たい指先がわずかに震える。  
「君がいなくなった後、俺は何もできなかった。ずっと責めてた。  
でも、こうしてまた会えて、今はそれも含めて君に伝えたいと思ったんです」  

結衣はゆっくりと首を振った。  
「もう、責めないでください。私も責めてました、自分を。  
あなたがどれだけ苦しかったか考えもしないで、逃げたこと」  
「逃げてもいいんです。生きてるなら、それでいい」  
「それを言うの、ずるいです」  
「ずるいくらいでいいんです」  

結衣が少し笑った。  
久しぶりに見る無防備な笑顔だった。  
それを見た瞬間、悠真の胸の奥でほどけていた糸が静かに切れた。  
涙があふれそうになり、堪えるように視線を下げる。  

沈黙が心地よく広がる。  
窓の外で風がカーテンを揺らし、廊下の向こうで誰かの靴音が消えていく。  
やがて結衣が小さく口を開いた。  
「私ね、東京へ行く決意をしようとしてた。でも、今はまだここにいたい気持ちが強いんです」  
「それなら、しばらくこっちにいましょう」  
「あなた、いつも簡単に言う」  
「君の笑顔がここにあるなら、その理由だけで十分です」  

その言葉に、彼女は小さく首を傾けた。  
「私の笑顔、あなたの中で特別なんですか?」  
「うん。俺にとっては世界で一番特別です」  
一瞬、結衣の瞳がわずかに潤んだ。  
「じゃあ、もうしばらく笑っていてもいいですか?」  
「もちろん。ずっとそれを見ていたい」  

病室に沈む光が少しずつ色を薄めていく。  
やがて看護師が来て検査へ連れて行く時間になった。  
結衣は立ち上がり、点滴スタンドを押しながら扉の前で振り返った。  

「悠真さん」  
「はい」  
「私、少しずつだけど思い出せそうです。怖いけど、もう逃げません」  
「隣にいます」  
「約束ですよ」  

彼女が廊下へ出ると、乾いた床の音が一定のリズムで続いていく。  
その後ろ姿を見送る胸の奥で、彼は初めて“過去”に対して感謝する気持ちを覚えた。  

あの日の痛みがなかったら、いま隣にいる彼女にもう一度出会うことはなかった。  
記憶は消えても、心は続いている――その確信だけが残った。  

検査室へ向かう白い廊下。  
その先で振り返るように、結衣が小さく笑って手を振った。  

短く、それでも確かに届く笑顔。  
白い光の中で、その姿はゆっくりと遠ざかっていった。  

悠真は胸の前で手を握り、静かに呟いた。  
「ありがとう。――もう一度やり直せる気がする」  

廊下の片隅で響く心臓の鼓動が、まるで新しい季節のはじまりの合図のようだった。
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