君の声を、もう一度

たまごころ

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第18話 記憶の断片

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病院の窓をたたく夕立の音が、どこか規則的に聞こえていた。  
雨粒はガラスの表面を滑り落ち、光る筋をいくつも描いている。  
夏の終わりを知らせるような湿った風が吹き込み、カーテンをかすかに揺らしていた。  

悠真は病室の椅子に腰を下ろし、ベッドの横で静かにノートを開いていた。  
ページには、彼女と再会してからの日々が細かく綴られている。  
取材ノートの隙間にあふれ出した言葉は、もう記事のためのものではなかった。  
それは五年前に途中で途切れた物語の続きであり、自分のための手記だった。  

「……うまく書けないな」  
ペン先が小さな音を立てて止まる。  
そのとき、ベッドの上で寝返りをうった結衣の声がした。  

「書き物するときの癖、変わってませんね」  
目を開けた彼女が窓の外を指さし、くすりと笑う。  
「いつも、集中してるときは余分な力が入る。昔と同じ姿勢」  
「気づいてたんですか?」  
「当たり前です。あなた、昔から真面目すぎる」  

半分冗談のような口調なのに、胸の奥にほんのり温かさが広がる。  
彼女が“昔と同じ”と言ってくれることが嬉しかった。  

「目、覚めたんですね」  
「少し眠ってたみたい。夢を見てました」  
「夢?」  
「ええ。……懐かしい風景。小さな公園で、夕陽の中を誰かが歩いてきて、その人の顔がまぶしくて――」  
言葉が途切れ、少し間を置いたあとに続く。  
「その人が私の名前を呼ぶんです。結衣って。やさしい声で。なのに、どうしても顔が見えない」  

悠真の指先が、膝の上でかすかに震えた。  
「それは、きっと俺ですね」  

彼女の瞳がこちらを向いた。  
「あなた……だったんですか」  
「根拠はありません。でも、それを聞いてなぜかそんな気がした」  
彼女は数秒の沈黙のあと、小さく微笑んだ。  
「そうかもしれませんね」  

雨は止む気配を見せず、空の色を灰色にしていた。  
彼女の髪に少しかかる光が透明に見えた。  

「思い出すたびに少しずつ痛い。でも、もう怖くないんです。  
あの時の自分に“ちゃんと生きてるよ”って言ってあげられる気がして」  
「きっと、これまで頑張り過ぎてたんですよ」  
「どうしてそんなこと分かるんですか?」  
「俺もそうだったから。前に進むって言いながら、振り返ることを恐れてた」  

結衣は一瞬だけ目を閉じる。  
「あなたがいてくれて、もう一度想い出に触れる勇気が出ました。もしひとりだったら、思い出すことすらできなかった」  
「一緒にいるために来たんです」  
その言葉に、彼女は息を詰まらせて笑った。  
「そんなふうにまっすぐ言う人、ずるいです」  
「じゃあ、ずるいままでいさせてください」  

その瞬間、廊下の向こうから看護師の声がした。  
「検査結果、すぐ先生がお話するそうです」  
結衣が静かに「ありがとう」と答え、再び少し沈黙が訪れた。  

「検査って聞くと、まだ少し怖いですね」  
「大丈夫。どんな結果でも、俺がいる」  
「……頼もしいですね」  
「一応、こう見えても覚悟してますから」  

扉の向こうでノックの音がして、医師が入る。  
穏やかな表情でカルテを手にしていた。  
「検査結果ですが、脳には問題はありません。記憶に関する器質的な異常も見られません。  
つまり――精神的な衝撃によるものが主原因だったということです」  

結衣は安堵の息を漏らした。  
医師はメモを閉じ、静かに部屋を出て行った。  

「よかった」  
「ええ……やっと、少し終わった気がします」  
「終わりじゃなくて、始まりですよ」  
「始まり?」  
「記憶を“取り戻す”んじゃなくて、そこから“生き直す”ことができる」  

彼女はしばらくその言葉を噛みしめるように口を閉じていた。  
やがて笑みを湛えて言う。  
「それなら、あなたも一緒に生き直してくれますか?」  
「当然です」  

外の雨音が少し軽くなった。  
病室の時計が静かに時を刻み、やわらかな時間が流れる。  

「ねえ」  
結衣の声が小さく響いた。  
「この前、私が東京へ行くって話、覚えてますか」  
「もちろん」  
「行くことにしました。でも、病院を出るまではまだ少し時間があります」  
「そうですか」  
「だから――もう少しだけ、この町で過ごしたいんです。あなたと」  

悠真は頷いた。  
病院の窓を開けると、湿った風の中に海の匂いが混じっていた。  
遠くで雷が鳴り、白い閃光が水平線を照らした。  

「明日、晴れたら海に行きませんか」  
「いいですよ。何時でも」  
「海を見たら、あの頃の私にちゃんとさよならできそうで」  

その言葉が胸にしみる。  

「じゃあ、晴れを願いましょう」  
「ええ」  

雨音は次第に弱まり、夜の匂いが広がり始めた。  
病室の照明の下、彼女の顔はどこか穏やかで、眠りに落ちる前の子どものようだった。  

「こうして誰かに“おやすみ”を言われるの、どれくらいぶりだろう」  
「おやすみ」  
「ありがとう」  

彼女が目を閉じ、呼吸のリズムがゆっくりと落ち着いていく。  
外の空では、しだいに雲が流れ、月が顔を覗かせた。  

悠真は椅子に戻り、開きっぱなしのノートを見下ろした。  
気づけば、ページの隅に知らぬ間に書き足していた文字がある。  

――「明日、海へ行く」  

それはまるで、自分の中で止まっていた物語が再び動き出した証のようだった。  

窓の外では波の音が遠くで響き、夜の海が見えないまま広がっていた。  
記憶という名の海。その中に沈んだものたちが、静かに目を覚まそうとしていた。
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