君の声を、もう一度

たまごころ

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第19話 彼女の記録

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翌朝、空は驚くほど澄み渡っていた。  
夜の雨を洗い流した風はまだ少し冷たく、草と潮の匂いを強く含んでいた。  
カーテンの隙間から差し込む陽射しを受けながら、結衣はゆっくりと目を覚ました。  

昨夜、病室で眠りにつくとき、確かに「明日、海に行こう」と約束した。  
目を開いた瞬間、その言葉が心の奥に浮かび、まるで夢の続きのように現実を感じた。  

ベッドの脇に置かれたノート。  
悠真が座って書いていたあのノートが机の上で開いている。  
風がページをめくり、端に書かれた小さな文字が目に留まった。  

――「明日、海へ行く」  

その一文を見ただけで、不思議と涙が出そうになった。  
言葉では説明できないが、“これが始まりになる”と直感した。  

支度を整えて病院を出ると、駐車場の前で悠真が待っていた。  
「おはようございます」  
「よく眠れましたか?」  
「はい。少しだけ胸がすっきりしています」  
「今日の海は、記憶にも残るくらい静かですよ」  

彼の言葉どおり、町は夏の終わりの光で包まれていた。  
道路の縁をゆっくりと影が伸び、遠くでカモメが鳴いていた。  

車に乗り込むと、結衣は窓を開けた。  
風が頬を撫で、髪を揺らす。  
流れていく景色はどれも懐かしく、けれど少しずつ違って見えた。  

「海を見るの、久しぶりです」  
「そう言ってましたね。事故のあと、港を避けてたと」  
「ええ。怖かったんです。思い出がそこに全部沈んでいる気がして」  
「今日は、そこに光を当てましょう」  

車はやがて海沿いの道を抜け、白い灯台の見える丘に出た。  
潮騒が近くなり、風が一気に肌に当たる。  

砂浜へ降りていくと、波が足元まで寄せては消えていく。  
光が海面を走り、遠くの空が透き通るような青を見せていた。  

「きれい……」  
結衣は小さくつぶやいて、足を止めた。  

しばらくの沈黙のあと、白い砂の上に腰を下ろす。  
悠真が近くに座ると、彼女はふっと笑った。  
「昨日、先生に言われたんです。“記憶を思い出すより、今の気持ちを記録しなさい”って」  
「記録?」  
「私、ノートをつけてみようと思います。もう二度と忘れないように」  

そう言って、バッグから一冊の新しいノートを取り出した。  
カバーは白で、まだ一文字も書かれていない。  
「ここに、いま感じたことを全部書きたい。昔の記憶も、今日の気持ちも」  

「いいですね。タイトルは決まりましたか?」  
「“彼女の記録”です」  
「彼女?」  
「うん。きっと過去の自分と今の自分、両方を意味してます。どちらも私だから」  

彼女はペンを取り、最初のページを開いた。  
“記録 第一日目”と書いて、少し迷ってから言葉を紡ぐ。  

“海の色は思ったよりも優しい。  
風の匂いが懐かしい。  
そして、隣で笑っている人がいる。”  

書き終え、ペンを止めた瞬間、胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。  

「思い出すことって、こういうことなんでしょうか」  
「きっと、そうですよ。“もう一度知る”ってことだと思います」  

波がゆっくりと寄せてくる。  
結衣は手を伸ばして砂をすくい、さらさらと風に放った。  
「ねえ、五年前の私はどんな人でしたか?」  
「正直者で、まっすぐで、少し頑固。たぶん、今も同じです」  
「ふふ、それなら安心しました」  

彼女は笑って海を見つめる。  
瞳の中に映る光は、どこか懐かしくも新しい。  

「悠真さん」  
「はい」  
「これからもし私が全部の記憶を戻しても、あなたは変わらずにいてくれますか?」  
「もちろん。そのときは、また“初めまして”って言います」  

その言葉に結衣が目を細めた。  
「ずるいですね」  
「ずるいけど、正直です」  

二人の間に軽い笑いが生まれた。  
その笑いは、いつしか波の音のリズムに溶けていく。  

潮が引き、砂浜には風に揺られた貝殻がぽつりと転がっていた。  
結衣がそれを拾い、ノートのページに挟む。  
「これも記録のひとつです。今日の証拠」  

彼女はふと、遠くの海を見つめながら言った。  
「この町、もう少しで秋ですね」  
「そうですね。桜の町って印象が強いけど、秋のこの色も好きです」  
「秋になっても、まだここにいられるかな」  
「いられますよ。君が望む限り」  

風が吹き、彼女の髪が揺れた。  
海の向こうで船の汽笛が鳴る。その音が遠くから過去の記憶を呼び寄せるように聞こえた。  

「ねえ、私、思い出しました」  
「何を?」  
「事故の日の、最後の瞬間。  
あなたが私の名前を呼んだ声――“結衣、行くな”って。  
それがずっと夢の中で響いてた音だった」  

悠真は息をのんだ。  
「それを……」  
「思い出しても不思議と怖くなかった。むしろ、安心したんです。あの瞬間、私はひとりじゃなかったって」  
「君があの時を越えたんですね」  

結衣はうなずいた。  
涙が頬を伝い落ちるが、その表情は穏やかで、澄んだ光を宿していた。  
「もう、あの日を“終わり”だと思わない。今日が私のはじまりです」  
「……きっと、そうです」  

日の光が少しずつ傾きはじめ、海が金色に染まり始める。  
結衣はゆっくり立ち上がった。  
「帰ったら母に話します。東京へ行くことも、この町でやりたいことも。全部、自分の言葉で」  
「立派です」  
「あなたが見守ってくれたからですよ」  

彼女は振り返らず、海を見つめながら言った。  
「悠真さん、ありがとう。私を見つけてくれて」  

波の音がその言葉を包むように打ち寄せる。  
悠真は静かに頷き、隣に立った。  

風に翻るページに、書きかけの文字が揺れていた。  
“記録は続く。過去も未来も、この瞬間も――すべて私の中にある。”  

夕陽が落ち、水平線が朱に燃えた。  
その光の中で、ふたりの影は一つになり、ゆっくりと重なって伸びていった。  

彼女の記録は、確かに今日から始まったのだ。
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