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第20話 涙はまだ知らない
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海からの風が弱まり、夕暮れが町をゆっくりと包み込んでいく。
日中の暑さを忘れさせるような涼しい空気の中で、潮騒が静かに鳴っていた。
その音はどこまでも続くようで、まるで記憶の底に沈む何かを呼び起こすようでもあった。
結衣が病院を退院して一週間が経っていた。
店のシャッターは再び開けられ、喫茶seasideには以前のようなコーヒーの香りが戻っていた。
けれどその空気の中には、ほんの少しだけこれまでとは違う「静けさ」が漂っている。
出発の日が近づいていた。
「……来週、東京へ発ちます」
夕方の店内で、彼女はそう言った。
その表情はどこか穏やかで、迷いの影はなかった。
それでも、悠真の心に沈む何かは消えなかった。
「行く前に、一度だけちゃんとお礼がしたいんです」
「お礼?」
「はい。ずっと背中を押してくれたから。だから、最後にもう一度――あなたにコーヒーを淹れさせてください」
カウンターの中で結衣は手を動かした。
豆を挽く音が響く。
そのリズムに合わせるように、時計の針が小さく音を刻んでいた。
お湯を注ぐと、蒸気に乗って懐かしい香りが立ち上る。
その香りは、五年前と同じだった。
「本当は怖いです」
「何が?」
「思い出した記憶の中の私は、あまり強い人じゃなかった。
それでもこうしてまた誰かを好きになることができて、ちゃんと生きていけるか不安なんです」
「大丈夫ですよ」
悠真は静かに答えた。
「人を好きになることができる人は、絶対に前に進めます」
「そう思いますか?」
「間違いないです」
コーヒーが出来上がり、彼女はカップを両手で包んでゆっくり差し出した。
「この味、覚えていますか」
「もちろん」
一口飲むと、少し酸味のある味が喉を通った。
どこか懐かしく、それでいて新しい。
「五年前の味より深いです」
「そうですか?」
「記憶も味覚も、ゆっくり変わるものですね」
二人の間に笑いがこぼれる。
その笑顔のまま時間が止まればいいと、本気で思った。
「もう泣かないですよね」
結衣が微笑みながら言う。
「泣きません。君が笑ってくれたら、それで十分です」
「そう言う人ほど、最後に泣くんです」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
彼女は小さくため息をつき、視線をカウンターの下に落とした。
「今日の夕方、港に行こうと思ってます。海を見ながら話したいことがあるんです」
*****
夕暮れの港は、空と海の境界が曖昧になるほどの光で満ちていた。
日が沈む直前の時間。
潮の香りに混じって夏の残り香が漂っている。
「ここ、覚えてますか?」
桟橋の先に立った結衣が振り返る。
「五年前、最後にここで話しました」
「忘れるはずがありません」
記憶の中で、同じ場所に若い二人が並んでいた。
あのとき、彼女は突然姿を消した。
何も言わず、手を振るようにして。
そして五年後、同じ季節に再び“ここ”に立っている。
「不思議ですね。失った時間って、ちゃんと戻ってくるんですね」
「戻ってくる人もいれば、戻らない人もいる。でも、君はちゃんと帰ってきた」
「帰る場所を、見つけてくれたからです」
風が吹き抜け、彼女の髪が揺れる。
夕陽の光がその髪を透かし、金色に輝いた。
「ねえ、悠真さん。私、あなたのことが好きです」
その告白は穏やかで、どこまでも自然だった。
「記憶の中のあなたでもなく、過去の誰かでもなく、いま目の前にいるあなたが好きです」
悠真は息を飲んだ。
答えたい言葉はいくつもあったのに、喉が痛くて声にならない。
彼女は微笑んだまま続ける。
「でも、恋をするためにここに戻ってきたわけじゃないんです。
私は、私を取り戻すために来たんです。
あなたに会って、やっとそれができました」
「君はもう十分強いですよ」
「強くなれてたらいいな」
「昔も、今も。どの結衣も、ちゃんと強いです」
沈みかけた太陽が海の向こうに消える。
彼女は少し涙ぐみながら言った。
「泣くつもりなかったんですけど、やっぱりだめみたいです」
「それは涙じゃなくて、光ですよ」
「うまいこと言うんですね」
「五年分、伝えたい言葉が溜まってますから」
彼女は笑って、涙を指先で拭った。
「もし次に会うとき、あなたが別の誰かを好きになっていても、その人を幸せにしてあげてくださいね。
だって、あなたに好きになってもらえたことが、私の幸運だから」
悠真の瞳が濡れた。
「そんなこと言われたら、涙をこらえられませんよ」
「ほらね。結局、泣くのはあなた」
波が足元で砕け、しぶきが小さく跳ねた。
空の端に初めての星が光り始める。
「これで終わりじゃないですよね」
「終わりじゃなくて、始まりです」
「そう言ってくれると思ってました」
彼女が少し離れた場所に歩いていき、夕日に染まる海を見つめた。
背中に光を受け、その姿はまるで消えてしまいそうなほど儚かった。
「……ありがとう。本当に」
「俺の方こそ、ありがとう」
そのあと、長い沈黙が訪れた。
風がやみ、潮騒だけが残る。
お互いに何も言わなくても、胸の奥で同じものが流れていた。
「また、会えますか」
「会えますよ。君がどこにいても」
結衣は微笑んで頷いた。
「涙は、まだちゃんと知らなかったんです。痛みじゃなくて、優しさの涙があること。
それをあなたが教えてくれました」
沈む光の中で、彼女の瞳は涙で輝いていた。
それは悲しみではなく、生きている証のような光だった。
彼女の肩が震え、けれどその笑顔は確かだった。
悠真はゆっくりと歩み寄り、そっと彼女の手を取った。
「泣いていいですよ」
「うん……でも、もう少しだけ我慢します」
風が二人の間を吹き抜け、海の匂いが満ちた。
遠くの空でカモメが鳴く。
「さよならは言いません」
「ええ。私も」
言葉が音にならずに、互いの瞳に吸い込まれていった。
その瞬間、涙はこぼれなかった。
けれど心の奥で確かに泣いていた。
波の音が続く。
日が沈み切ったあと、淡い星々が空に灯り始める。
その光の下で、悠真と結衣の影が並び、重なるように重なって消えた。
涙はまだ知らない。
けれど、きっとこの先に流す涙は、もう悲しみではない。
それだけは、二人とも分かっていた。
日中の暑さを忘れさせるような涼しい空気の中で、潮騒が静かに鳴っていた。
その音はどこまでも続くようで、まるで記憶の底に沈む何かを呼び起こすようでもあった。
結衣が病院を退院して一週間が経っていた。
店のシャッターは再び開けられ、喫茶seasideには以前のようなコーヒーの香りが戻っていた。
けれどその空気の中には、ほんの少しだけこれまでとは違う「静けさ」が漂っている。
出発の日が近づいていた。
「……来週、東京へ発ちます」
夕方の店内で、彼女はそう言った。
その表情はどこか穏やかで、迷いの影はなかった。
それでも、悠真の心に沈む何かは消えなかった。
「行く前に、一度だけちゃんとお礼がしたいんです」
「お礼?」
「はい。ずっと背中を押してくれたから。だから、最後にもう一度――あなたにコーヒーを淹れさせてください」
カウンターの中で結衣は手を動かした。
豆を挽く音が響く。
そのリズムに合わせるように、時計の針が小さく音を刻んでいた。
お湯を注ぐと、蒸気に乗って懐かしい香りが立ち上る。
その香りは、五年前と同じだった。
「本当は怖いです」
「何が?」
「思い出した記憶の中の私は、あまり強い人じゃなかった。
それでもこうしてまた誰かを好きになることができて、ちゃんと生きていけるか不安なんです」
「大丈夫ですよ」
悠真は静かに答えた。
「人を好きになることができる人は、絶対に前に進めます」
「そう思いますか?」
「間違いないです」
コーヒーが出来上がり、彼女はカップを両手で包んでゆっくり差し出した。
「この味、覚えていますか」
「もちろん」
一口飲むと、少し酸味のある味が喉を通った。
どこか懐かしく、それでいて新しい。
「五年前の味より深いです」
「そうですか?」
「記憶も味覚も、ゆっくり変わるものですね」
二人の間に笑いがこぼれる。
その笑顔のまま時間が止まればいいと、本気で思った。
「もう泣かないですよね」
結衣が微笑みながら言う。
「泣きません。君が笑ってくれたら、それで十分です」
「そう言う人ほど、最後に泣くんです」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
彼女は小さくため息をつき、視線をカウンターの下に落とした。
「今日の夕方、港に行こうと思ってます。海を見ながら話したいことがあるんです」
*****
夕暮れの港は、空と海の境界が曖昧になるほどの光で満ちていた。
日が沈む直前の時間。
潮の香りに混じって夏の残り香が漂っている。
「ここ、覚えてますか?」
桟橋の先に立った結衣が振り返る。
「五年前、最後にここで話しました」
「忘れるはずがありません」
記憶の中で、同じ場所に若い二人が並んでいた。
あのとき、彼女は突然姿を消した。
何も言わず、手を振るようにして。
そして五年後、同じ季節に再び“ここ”に立っている。
「不思議ですね。失った時間って、ちゃんと戻ってくるんですね」
「戻ってくる人もいれば、戻らない人もいる。でも、君はちゃんと帰ってきた」
「帰る場所を、見つけてくれたからです」
風が吹き抜け、彼女の髪が揺れる。
夕陽の光がその髪を透かし、金色に輝いた。
「ねえ、悠真さん。私、あなたのことが好きです」
その告白は穏やかで、どこまでも自然だった。
「記憶の中のあなたでもなく、過去の誰かでもなく、いま目の前にいるあなたが好きです」
悠真は息を飲んだ。
答えたい言葉はいくつもあったのに、喉が痛くて声にならない。
彼女は微笑んだまま続ける。
「でも、恋をするためにここに戻ってきたわけじゃないんです。
私は、私を取り戻すために来たんです。
あなたに会って、やっとそれができました」
「君はもう十分強いですよ」
「強くなれてたらいいな」
「昔も、今も。どの結衣も、ちゃんと強いです」
沈みかけた太陽が海の向こうに消える。
彼女は少し涙ぐみながら言った。
「泣くつもりなかったんですけど、やっぱりだめみたいです」
「それは涙じゃなくて、光ですよ」
「うまいこと言うんですね」
「五年分、伝えたい言葉が溜まってますから」
彼女は笑って、涙を指先で拭った。
「もし次に会うとき、あなたが別の誰かを好きになっていても、その人を幸せにしてあげてくださいね。
だって、あなたに好きになってもらえたことが、私の幸運だから」
悠真の瞳が濡れた。
「そんなこと言われたら、涙をこらえられませんよ」
「ほらね。結局、泣くのはあなた」
波が足元で砕け、しぶきが小さく跳ねた。
空の端に初めての星が光り始める。
「これで終わりじゃないですよね」
「終わりじゃなくて、始まりです」
「そう言ってくれると思ってました」
彼女が少し離れた場所に歩いていき、夕日に染まる海を見つめた。
背中に光を受け、その姿はまるで消えてしまいそうなほど儚かった。
「……ありがとう。本当に」
「俺の方こそ、ありがとう」
そのあと、長い沈黙が訪れた。
風がやみ、潮騒だけが残る。
お互いに何も言わなくても、胸の奥で同じものが流れていた。
「また、会えますか」
「会えますよ。君がどこにいても」
結衣は微笑んで頷いた。
「涙は、まだちゃんと知らなかったんです。痛みじゃなくて、優しさの涙があること。
それをあなたが教えてくれました」
沈む光の中で、彼女の瞳は涙で輝いていた。
それは悲しみではなく、生きている証のような光だった。
彼女の肩が震え、けれどその笑顔は確かだった。
悠真はゆっくりと歩み寄り、そっと彼女の手を取った。
「泣いていいですよ」
「うん……でも、もう少しだけ我慢します」
風が二人の間を吹き抜け、海の匂いが満ちた。
遠くの空でカモメが鳴く。
「さよならは言いません」
「ええ。私も」
言葉が音にならずに、互いの瞳に吸い込まれていった。
その瞬間、涙はこぼれなかった。
けれど心の奥で確かに泣いていた。
波の音が続く。
日が沈み切ったあと、淡い星々が空に灯り始める。
その光の下で、悠真と結衣の影が並び、重なるように重なって消えた。
涙はまだ知らない。
けれど、きっとこの先に流す涙は、もう悲しみではない。
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