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第21話 雪の夜の告白
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十二月の海風町には、もうあの夏の匂いはなかった。
潮風に混じるのは、冷えた空気と遠くの焚き火の煙の香り。
町の商店街には小さなイルミネーションが並び、人々の吐く息は白く光っていた。
悠真は、駅の改札前に立っていた。
結衣が東京へ発って、もう四か月が経つ。
彼女から届く手紙は月に一度。
「お店、順調です」「少し失敗したけど、やっと常連さんができました」と、読みながら笑ってしまうような明るい文ばかりだった。
返信を書くたびに、心が静かに温まる。
それでも、次第に何かが足りなく感じ始めていた。
彼女が書く手紙の行間に、ほんのわずかな“寂しさ”が滲むのに気づいたのは、一通前の手紙からだ。
――「冬になったら、またこの町に行きたいな。あなたの見ていた海の色が恋しくなるんです」
その一文が、悠真の胸の奥をずっと引っかけたままだった。
行かなければならない気がした。
理由なんていらなかった。
列車を降りると、吐く息が白く霧のように浮かぶ。
雪がほのかに舞い降り、コートの肩に溶けては消える。
東京の光も音もない、静かな冬の駅。
そこに佇むひとりの女性の姿を見た瞬間、世界が音を止めた。
「……結衣?」
「やっぱり、来てくれたんですね」
彼女はマフラーに顔をうずめながら微笑んだ。
頬は少し赤く、吐く息が風に溶けていった。
「驚いた。手紙にも何も書いてなかったのに」
「書いたら、“来てほしい”って言葉になっちゃう気がして」
「それでも、勝手に来ましたよ」
「ええ。やっぱりあなたはそういう人だと思ってました」
二人の笑い声が、冷たい夜にやわらかく広がる。
駅前の灯りが点り、雪がその光を受けて舞った。
「喫茶店のほう、順調ですか?」
「うん。おかげさまで。でも……」
「でも?」
「忙しすぎるんです。仕事をしてると、人って考えないようにできてるんですね。だから気づいたんです」
「何に?」
「忙しくしてるほど、誰かを想ってるんだって」
その言葉に、悠真は少し息をのんだ。
「だから、今日呼びたくなったんです。たぶん、ちゃんと話したくなったんです」
彼女の目が静かにこちらを見ている。
真剣で、けれどどこか懐かしい光が宿っていた。
「歩こうか」
「うん」
凍ったアスファルトの上に、二人の足音が続く。
冷たい風が耳を撫で、店の軒先から流れるラジオが小さく響いている。
曲名は知らないけれど、懐かしい旋律が雪を揺らしていた。
港までは十五分ほど。
灯台の光がゆっくりと海に反射していた。
降り積もる雪を照らすようなその灯りが、どこか現実味を薄くしている。
「夏にここで見た夕陽を覚えてますか」
「もちろん。君の涙が光ってた」
「恥ずかしいこと言わないでください」
「本当ですよ」
結衣は少しうつむき、ポケットから何かを取り出した。
それは、一冊のノートだった。
あの『彼女の記録』。夏の日に書き始めると誓ったノート。
「まだ続けてたんですね」
「はい。でも、途中で止まってしまいました」
「どうして?」
「同じことばかり、書くようになったんです。“あなたがいない”って」
彼女の手の中で、ノートの角がわずかに濡れていた。
吐く息の暖かさで雪が溶けたのだろう。
「今日、続きを書くつもりでここに来たんです。それで、どう書いたらいいか考えたら――答えが出てしまった」
「どんな答えですか?」
結衣は雪の降る空を見上げた。
「あなたに、会いたい」
その一言が静かに落ちた。
「それだけで十分だと思った」
「あの時の“また会える”って言葉、守ってくれたんですね」
「さすがに五年は待たせ過ぎましたけど」
「五年も、よく待ってくれましたね」
彼女は笑いながら、瞳を潤ませた。
雪の夜の光が、ゆっくりと頬に降りていく。
「私、東京で新しい人たちと出会っても、毎日どこかであなたを考えてました。
あの風の匂いとか、喫茶店のカップの並べ方とか……全部あなたを思い出すきっかけになるんです。
忘れたくても、忘れられなかった」
悠真は答えを探すように、ポケットの中で拳を握った。
「俺も同じです。どんな景色を見ても、君がいないと完成しない気がしてました」
「それ、ずるい言い方」
「正直なだけです」
風が吹き、結衣の肩に雪が降り積もる。
その小さな白を指で払うと、彼女がくすっと笑った。
「ねえ、覚えてますか。昔、私が“涙は優しいものだ”って言ったの」
「うん、よく覚えてます」
「いまやっと、それが分かった気がします。悲しいことで流れる涙じゃなくて、あふれた想いが涙になるんですね」
「結衣」
「はい」
「俺はたぶん、ずっと君に救われてきた」
「そんなこと――」
「本当です。あの日、もし君がいなかったら、今の俺は存在していません」
沈黙が落ちる。
結衣はゆっくりと顔を上げ、光の薄い瞳で彼を見つめた。
唇が小さく震えたあと、ほんの一歩近づいた。
「私、もう逃げません。好きなんです。あなたが」
悠真は言葉の代わりに、そっとその手を取った。
彼女の指先は冷たかったが、その奥の鼓動は確かに生きていた。
互いの手の温度がゆっくりと混ざっていく。
雪が舞う。港の灯りがぼんやりとかすみ、ふたりだけの世界を作り上げた。
「これが、私の最後の記録です」
「最後?」
「今日でこのノートは終わり。でも、これからはあなたと一緒に新しいページを作っていきます」
「俺も、その新しい記録に名前を書いていいですか」
「もちろんです」
彼女の声は震えていた。
けれど、その震えは悲しみではなかった。
凍える風の中で、心だけが確かに温かかった。
「雪、止みませんね」
「止まなくてもいいかもしれません」
「どうして?」
「この雪が溶ける頃には、きっとまた会えるから」
二人は小さく笑い合った。
そして、指先を離さぬまま、ゆっくりと顔を寄せた。
雪の冷たさと、互いの温もりが同時に伝わる。
港の灯りの下で、二人の影が重なった。
それはまるで凍てついた冬の中に咲く、ひとつの花のようだった。
結衣が小さな声で言う。
「この夜のこと、絶対に忘れません」
「俺も。これが“涙をまだ知らない”君への答えです」
雪が止むことなく降り続けた。
光の粒が空を舞い、世界を白く染めていく。
その中で、二人の姿は静かに融合するようにして、温かな闇の中へと溶けていった。
もう何も言葉はいらなかった。
ただ、降り積もる雪が二人の心を包み、過ぎた年月の痛みを完全に覆い隠していった。
雪の夜、思い出も、涙も、愛も――すべてがそこにあった。
潮風に混じるのは、冷えた空気と遠くの焚き火の煙の香り。
町の商店街には小さなイルミネーションが並び、人々の吐く息は白く光っていた。
悠真は、駅の改札前に立っていた。
結衣が東京へ発って、もう四か月が経つ。
彼女から届く手紙は月に一度。
「お店、順調です」「少し失敗したけど、やっと常連さんができました」と、読みながら笑ってしまうような明るい文ばかりだった。
返信を書くたびに、心が静かに温まる。
それでも、次第に何かが足りなく感じ始めていた。
彼女が書く手紙の行間に、ほんのわずかな“寂しさ”が滲むのに気づいたのは、一通前の手紙からだ。
――「冬になったら、またこの町に行きたいな。あなたの見ていた海の色が恋しくなるんです」
その一文が、悠真の胸の奥をずっと引っかけたままだった。
行かなければならない気がした。
理由なんていらなかった。
列車を降りると、吐く息が白く霧のように浮かぶ。
雪がほのかに舞い降り、コートの肩に溶けては消える。
東京の光も音もない、静かな冬の駅。
そこに佇むひとりの女性の姿を見た瞬間、世界が音を止めた。
「……結衣?」
「やっぱり、来てくれたんですね」
彼女はマフラーに顔をうずめながら微笑んだ。
頬は少し赤く、吐く息が風に溶けていった。
「驚いた。手紙にも何も書いてなかったのに」
「書いたら、“来てほしい”って言葉になっちゃう気がして」
「それでも、勝手に来ましたよ」
「ええ。やっぱりあなたはそういう人だと思ってました」
二人の笑い声が、冷たい夜にやわらかく広がる。
駅前の灯りが点り、雪がその光を受けて舞った。
「喫茶店のほう、順調ですか?」
「うん。おかげさまで。でも……」
「でも?」
「忙しすぎるんです。仕事をしてると、人って考えないようにできてるんですね。だから気づいたんです」
「何に?」
「忙しくしてるほど、誰かを想ってるんだって」
その言葉に、悠真は少し息をのんだ。
「だから、今日呼びたくなったんです。たぶん、ちゃんと話したくなったんです」
彼女の目が静かにこちらを見ている。
真剣で、けれどどこか懐かしい光が宿っていた。
「歩こうか」
「うん」
凍ったアスファルトの上に、二人の足音が続く。
冷たい風が耳を撫で、店の軒先から流れるラジオが小さく響いている。
曲名は知らないけれど、懐かしい旋律が雪を揺らしていた。
港までは十五分ほど。
灯台の光がゆっくりと海に反射していた。
降り積もる雪を照らすようなその灯りが、どこか現実味を薄くしている。
「夏にここで見た夕陽を覚えてますか」
「もちろん。君の涙が光ってた」
「恥ずかしいこと言わないでください」
「本当ですよ」
結衣は少しうつむき、ポケットから何かを取り出した。
それは、一冊のノートだった。
あの『彼女の記録』。夏の日に書き始めると誓ったノート。
「まだ続けてたんですね」
「はい。でも、途中で止まってしまいました」
「どうして?」
「同じことばかり、書くようになったんです。“あなたがいない”って」
彼女の手の中で、ノートの角がわずかに濡れていた。
吐く息の暖かさで雪が溶けたのだろう。
「今日、続きを書くつもりでここに来たんです。それで、どう書いたらいいか考えたら――答えが出てしまった」
「どんな答えですか?」
結衣は雪の降る空を見上げた。
「あなたに、会いたい」
その一言が静かに落ちた。
「それだけで十分だと思った」
「あの時の“また会える”って言葉、守ってくれたんですね」
「さすがに五年は待たせ過ぎましたけど」
「五年も、よく待ってくれましたね」
彼女は笑いながら、瞳を潤ませた。
雪の夜の光が、ゆっくりと頬に降りていく。
「私、東京で新しい人たちと出会っても、毎日どこかであなたを考えてました。
あの風の匂いとか、喫茶店のカップの並べ方とか……全部あなたを思い出すきっかけになるんです。
忘れたくても、忘れられなかった」
悠真は答えを探すように、ポケットの中で拳を握った。
「俺も同じです。どんな景色を見ても、君がいないと完成しない気がしてました」
「それ、ずるい言い方」
「正直なだけです」
風が吹き、結衣の肩に雪が降り積もる。
その小さな白を指で払うと、彼女がくすっと笑った。
「ねえ、覚えてますか。昔、私が“涙は優しいものだ”って言ったの」
「うん、よく覚えてます」
「いまやっと、それが分かった気がします。悲しいことで流れる涙じゃなくて、あふれた想いが涙になるんですね」
「結衣」
「はい」
「俺はたぶん、ずっと君に救われてきた」
「そんなこと――」
「本当です。あの日、もし君がいなかったら、今の俺は存在していません」
沈黙が落ちる。
結衣はゆっくりと顔を上げ、光の薄い瞳で彼を見つめた。
唇が小さく震えたあと、ほんの一歩近づいた。
「私、もう逃げません。好きなんです。あなたが」
悠真は言葉の代わりに、そっとその手を取った。
彼女の指先は冷たかったが、その奥の鼓動は確かに生きていた。
互いの手の温度がゆっくりと混ざっていく。
雪が舞う。港の灯りがぼんやりとかすみ、ふたりだけの世界を作り上げた。
「これが、私の最後の記録です」
「最後?」
「今日でこのノートは終わり。でも、これからはあなたと一緒に新しいページを作っていきます」
「俺も、その新しい記録に名前を書いていいですか」
「もちろんです」
彼女の声は震えていた。
けれど、その震えは悲しみではなかった。
凍える風の中で、心だけが確かに温かかった。
「雪、止みませんね」
「止まなくてもいいかもしれません」
「どうして?」
「この雪が溶ける頃には、きっとまた会えるから」
二人は小さく笑い合った。
そして、指先を離さぬまま、ゆっくりと顔を寄せた。
雪の冷たさと、互いの温もりが同時に伝わる。
港の灯りの下で、二人の影が重なった。
それはまるで凍てついた冬の中に咲く、ひとつの花のようだった。
結衣が小さな声で言う。
「この夜のこと、絶対に忘れません」
「俺も。これが“涙をまだ知らない”君への答えです」
雪が止むことなく降り続けた。
光の粒が空を舞い、世界を白く染めていく。
その中で、二人の姿は静かに融合するようにして、温かな闇の中へと溶けていった。
もう何も言葉はいらなかった。
ただ、降り積もる雪が二人の心を包み、過ぎた年月の痛みを完全に覆い隠していった。
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