君の声を、もう一度

たまごころ

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第23話 失くした時間、見つけた想い

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春の空は薄い霞の向こうでぼんやりと光っていた。  
風はやわらかく、海風町の通りには新しい季節の匂いが漂っている。  
桜の花びらが咲き始め、路地を吹き抜けるたびに、まるで記憶の断片のように舞い上がった。  

その日、悠真は喫茶seasideのカウンターに立っていた。  
カップを磨きながら、開いたままのドアから吹き込む海風を感じていた。  
彼女が東京へ戻ってから二週間。  
音の少ないこの町に再びひとりの時間が戻ってきた。  

「それでも、この静けさは嫌いじゃないな」  
思わず口の中で呟く。  
以前の孤独とは違っていた。  
今は「想い」が残っている。  
それが彼女の存在を証明してくれるようだった。  

焙煎機の音を止めると、ポケットの中でスマホが震えた。  
画面には“宮川結衣”の名前。  
胸が一瞬跳ねる。  
受話器を耳に当てると、聞き慣れた柔らかい声が響いた。  

「おはようございます。朝、早すぎませんでしたか?」  
「いや、大丈夫。いつもの時間ですよ」  
「この前教えてくださったブレンド、やっと理想の味に近づきました。  
でも、あなたが淹れたのとは少し違うんですよ」  
「そりゃあ、まだ君の手になじんでないからですよ」  
「ふふ、そうかもしれません」  

どこか東京の雑踏を感じる音が微かに混ざっている。  
彼女の話し声の後ろで、店のベルが鳴り、客の笑い声がした。  
遠くにいるはずなのに、まるで同じ空間にいるような錯覚を覚えた。  

「今日は、少し時間ありますか?」  
「あります。どうしたんですか?」  
「ひとつ、お願いしたいことがあるんです」  
「なんでも言ってください」  
「この町の写真を送ってほしいんです。店の外でも、海でも。  
あの町で過ごした時間を、“今”の私の中で確かめたい」  

「分かりました。ちゃんと撮ります」  
「ありがとう。……やっぱり、あなたに話すと落ち着く」  

そう言って電話の向こうの音が少し遠ざかる。  
人の足音、カップの触れる音、彼女が「いらっしゃいませ」と言う声。  
その全てが懐かしくて、目の奥が熱くなった。  

電話を切ったあと、悠真はカメラを肩に掛け、表に出た。  
空は少し曇っていたが、町の空気は静かで穏やかだった。  
港、坂道、桜並木、灯台――彼女と歩いた道すべてをゆっくり巡った。  

撮りながら思った。  
「記憶って、時間を超えて残るんだな」と。  
それは蓄積でも蘇生でもない。  
ただ、心の中で形を変えながら生き続けるもの。  

海辺に立つと、遠くの水平線に明るい筋が走っていた。  
その光景が、少し前の冬の夜をふと思い出させた。  
雪の中で交わした言葉。  
凍えるような空気の中で見つけた確かな温もり。  

「失くした時間は、全部ここにあったんだな」  

レンズ越しに波を覗く。  
潮の匂いが風と一緒に鼻をくすぐる。  
音が、光が、香りが、すべてが彼女と過ごした季節と繋がっていた。  

そのとき、背後から声が届いた。  
「写真家の顔になってますよ」  
驚いて振り向くと、そこに結衣が立っていた。  

ライトグレーのコートに花柄のスカーフ、髪は少し短くなっている。  
「どうして……ここに?」  
「早く会いたくて、来ちゃいました」  
彼女は少し照れたように笑った。  

「仕事が一段落ついたんです。  
それで気づいたんですけど、私、東京でどんなに忙しくても心がこの町に置いてきぼりのままでした」  
「帰ってきてくれたんですね」  
「ええ。戻ってくるって決めたら、胸のつかえがすっと消えたんです」  

二人で港を歩く。  
波打ち際を踏むたび、白い泡が足元に広がり、すぐに跡形もなく消えた。  

「東京では毎日が早かったです。時間があっという間に過ぎて、それを追いかけるだけで終わってました」  
「この町は時間が流れるのが遅いですからね」  
「ええ。でも、ゆっくりでいいと思うようになりました。失くす時間があっても、その分、大切なものが増えるって」  

彼女の言葉に頷く。  
言葉はいつもシンプルだが、心に届くまでの深さが違う。  

「悠真さん」  
「うん」  
「本当は、電話で気づいたんです。  
距離って、心に壁を作るようで、でもその壁があるからこそ、また越えたくなるんだなって」  
「越えてきてくれて、ありがとう」  

桜の花びらが、ふたりの間にひとひら落ちた。  
結衣がそれを拾い、ノートを開く。  
懐かしい「彼女の記録」の続きのページ。  

“春、再び帰る。  
失くした時間は、想いの中でずっと生きていた。  
それを見つけた今、もう何も怖くない。”  

書き終えたあと、彼女は笑った。  
「このページを“第零章”って呼ぶことにしました。ここから始まる話だから」  
「いいネーミングですね」  
「そうでしょう?」  

港に立つ風がやさしく背を押してくる。  
穏やかな午後の光の中で、悠真はふと思った。  
彼女と過ごす時間は、形を変えながらも続いていくのだと。  

「ねえ、次の季節、どこに行きたいですか」  
「そうですね。桜が咲き終わったら、山の方へドライブしたい」  
「いいですね。じゃあ、そのときまた、新しい記録をつけます」  
「タイトルはどうする?」  
「“ふたりの記録”で」  

結衣が瞬きをして笑った。  
その笑顔は、春の光よりもまぶしかった。  

港に打ち寄せる波が静かに音を立てて消える。  
五年前に壊れた時間が、ようやく穏やかに重なり合った瞬間だった。  

「結衣」  
「はい?」  
「ありがとう。……戻ってきてくれて」  
「こちらこそ。あなたがここを残してくれたから、帰る場所ができた」  

穏やかで小さな世界。  
境界線も終わりもない、ただ続いていく時間の流れの中で――  
失くしたはずの時が、確かに心の中に見つけられたような気がした。  

ふたりの指先がそっと重なる。  
海風が吹き抜け、桜の花びらがまたひとひら舞った。  
その白い光が、永遠に続く春の約束のように二人を包んでいた。
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