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第24話 凍える朝
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夜明け前の海風町は、透きとおるような静けさに包まれていた。
冬の名残が頬を刺すほどの冷気に変わり、遠くの海面から薄い靄が立ち上っている。
港の漁灯が一つ、また一つと消えていくころ、悠真はすでに喫茶seasideの店先に立っていた。
「今日は、少し寒いですね」
少し遅れて結衣が現れた。
ダッフルコートの首元までボタンを留め、両手に紙袋を抱えている。
「この町で迎える朝は、どうしてこうも澄んでるんでしょう」
「きっと海が町全体を冷やしてるんですよ」
「でも、嫌いじゃないんです。冬の匂いも」
結衣はそう言って笑った。
その笑顔の奥には、ほんの少しの緊張と覚悟が見えた。
二人は店に入ると、無言で灯りをつけた。
カウンターの中にはまだ夜の名残があり、窓から射す薄青い光が壁の模様を淡く照らしている。
「それ、何を持ってきたんですか?」
悠真が紙袋を指さすと、結衣は小さく頷いた。
「これ、実家の倉庫で見つけたものなんです」
「倉庫?」
「ええ。片づけをしてたら、箱の奥から出てきて。……あなたが撮った写真でした」
結衣が袋の中から一枚の写真を取り出した。
それは五年前、この町で撮った写真だった。
港の手前に立つ二人の後ろ姿。
光の加減で輪郭が半分ほど滲んでいたが、確かにそこに“過去の彼ら”がいた。
「覚えてますか?」
「覚えてます。取材のあとに撮った写真ですね。あの日は風が強くて」
「そう、あなたがカメラを手にして、“最後に残そう”って言った」
「まさか、残り続けるなんて思わなかった」
結衣は手の中の写真を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「この写真を見た時、やっぱりこの町に戻ってきてよかったと思いました」
「戻ってきて、何か変わりましたか?」
「ええ。……記憶って、なくすより怖いのは、変わってしまうことなんですね。
昔の自分が確かにここにいたのに、今の私はもうその人ではない。
でも、それでも、この場所で新しい自分を作れる気がしたんです」
しばらく二人は黙っていた。
店内に漂うコーヒーの香りと、外から差し込む冬の光がゆっくりと混じり合う。
「あなたに渡したいものがあるんです」
結衣が紙袋の奥からもう一つ、小さな箱を取り出した。
「これ、なんですか?」
「私のお父さんの古い時計です。止まったまま動かないけど、持っていてほしい」
「どうして俺に?」
「動かない時間って、誰かに渡せばまた進むような気がするんです」
優しい笑みの中に、どこか切なさが混じっていた。
悠真は箱を受け取り、手の中でその重みを感じた。
小さな懐中時計。盤面には細かい傷がついている。
「君のお父さん、大事にしてたんですよね」
「ええ。昔、“時間は形じゃなく心で測るものだ”って言ってました」
「素敵な言葉ですね」
二人の間に暖かい空気が流れる。
けれど、それは同時に“別れの気配”でもあった。
彼女の目の奥には、今にも旅立ちの光が宿っている。
「明日、東京に戻ります」
その言葉が静かに落ちた。
待っていたはずの現実なのに、悠真の心に広がるのは緩やかな喪失だった。
「本当は、この町にもう少しいたかったんです。
でも、東京の店に新しいプロジェクトが始まって、どうしても戻らなきゃいけなくて」
「分かりました。君の道が動き出したんですね」
「あなたに出会ってから、ずっと止まってた時間が動いたんです。
きっとあの時計も、また動き出すと思う」
悠真はゆっくり頷いた。
「向こうでも頑張ってください。君ならきっと大丈夫です」
「頑張ります。でも……」
「でも?」
「やっぱり寂しいです」
「俺も寂しいですよ」
結衣の目が光って、すぐに伏せられた。
「この町を出ても、あなたの笑顔を忘れないようにします」
「忘れませんよ。君がこの町を思い出す限り、俺はここにいます」
外の空が淡く明るくなり始めていた。
夜の青が消え、朝の白に染まっていく。
店の外に出ると、海辺には薄い氷が張り、風がそれを少しずつ揺らしていた。
朝日がそれを照らし、小さな結晶がきらりと光る。
「……春が来ますね」
「ええ。でも、今日のこの寒さ、きっと忘れません」
結衣がポケットから手を出して、掌を広げた。
その手はまだ少し震えていた。
悠真は静かにその手を包み込んだ。
指先から伝わるぬくもりが、凍える空気の中でゆっくりと溶けていく。
「ねえ、悠真さん」
「うん」
「この手の温度、ちゃんと覚えていてくださいね。
もしいつかまた会えた時、あなたの手を握ってこの温度を確かめたいから」
「約束します」
結衣は微笑み、彼の手を離した。
そして海の方を向く。
陽光が少し強くなり、海面を散らす光が目に眩しかった。
「今までは逃げていた東京に、今度はちゃんと向き合ってきます」
「うん。もう逃げない君なら、大丈夫です」
「あなたも、ちゃんとこの町を守ってくださいね」
「約束します」
潮風がふたりの髪を揺らし、透明な空気を震わせた。
遠くで汽笛が鳴る。
それは、新しい季節の合図のようにも聞こえた。
結衣が少しだけまぶしそうに目を細めて言った。
「もし時間が止まってくれたとしても、私はきっとまた歩き出してしまうと思う。
でも、そのたびにこの町とあなたを思い出せるなら、どこへでも行けるんです」
悠真は頷いた。
「行ってください。そして、またここに帰ってきてください」
「ええ、必ず」
その瞬間、東の空から朝日が昇った。
凍える朝の冷気が、わずかに温もりを帯びていく。
光が二人を包み、冬の終わりを静かに告げていた。
結衣はひとつ深呼吸をすると、振り返って笑った。
「ありがとう。……どうか、幸せでいてください」
「君も」
そうして彼女は歩き出した。
凍てついた道の上で、朝の光が足跡を照らす。
その先に続くのは、消え失せてしまった時間ではなく、これから積み重ねられる未来だった。
悠真はしばらく立ち尽くしたまま、空へと視線を上げた。
白い息がひとつ、ゆっくり空へ昇る。
そして彼は小さく呟いた。
「ありがとう、また会える日まで」
冬の空がふたりを見守るように静まった。
その光が降り注ぐ中で、凍える朝は確かに春のはじまりを告げていた。
冬の名残が頬を刺すほどの冷気に変わり、遠くの海面から薄い靄が立ち上っている。
港の漁灯が一つ、また一つと消えていくころ、悠真はすでに喫茶seasideの店先に立っていた。
「今日は、少し寒いですね」
少し遅れて結衣が現れた。
ダッフルコートの首元までボタンを留め、両手に紙袋を抱えている。
「この町で迎える朝は、どうしてこうも澄んでるんでしょう」
「きっと海が町全体を冷やしてるんですよ」
「でも、嫌いじゃないんです。冬の匂いも」
結衣はそう言って笑った。
その笑顔の奥には、ほんの少しの緊張と覚悟が見えた。
二人は店に入ると、無言で灯りをつけた。
カウンターの中にはまだ夜の名残があり、窓から射す薄青い光が壁の模様を淡く照らしている。
「それ、何を持ってきたんですか?」
悠真が紙袋を指さすと、結衣は小さく頷いた。
「これ、実家の倉庫で見つけたものなんです」
「倉庫?」
「ええ。片づけをしてたら、箱の奥から出てきて。……あなたが撮った写真でした」
結衣が袋の中から一枚の写真を取り出した。
それは五年前、この町で撮った写真だった。
港の手前に立つ二人の後ろ姿。
光の加減で輪郭が半分ほど滲んでいたが、確かにそこに“過去の彼ら”がいた。
「覚えてますか?」
「覚えてます。取材のあとに撮った写真ですね。あの日は風が強くて」
「そう、あなたがカメラを手にして、“最後に残そう”って言った」
「まさか、残り続けるなんて思わなかった」
結衣は手の中の写真を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「この写真を見た時、やっぱりこの町に戻ってきてよかったと思いました」
「戻ってきて、何か変わりましたか?」
「ええ。……記憶って、なくすより怖いのは、変わってしまうことなんですね。
昔の自分が確かにここにいたのに、今の私はもうその人ではない。
でも、それでも、この場所で新しい自分を作れる気がしたんです」
しばらく二人は黙っていた。
店内に漂うコーヒーの香りと、外から差し込む冬の光がゆっくりと混じり合う。
「あなたに渡したいものがあるんです」
結衣が紙袋の奥からもう一つ、小さな箱を取り出した。
「これ、なんですか?」
「私のお父さんの古い時計です。止まったまま動かないけど、持っていてほしい」
「どうして俺に?」
「動かない時間って、誰かに渡せばまた進むような気がするんです」
優しい笑みの中に、どこか切なさが混じっていた。
悠真は箱を受け取り、手の中でその重みを感じた。
小さな懐中時計。盤面には細かい傷がついている。
「君のお父さん、大事にしてたんですよね」
「ええ。昔、“時間は形じゃなく心で測るものだ”って言ってました」
「素敵な言葉ですね」
二人の間に暖かい空気が流れる。
けれど、それは同時に“別れの気配”でもあった。
彼女の目の奥には、今にも旅立ちの光が宿っている。
「明日、東京に戻ります」
その言葉が静かに落ちた。
待っていたはずの現実なのに、悠真の心に広がるのは緩やかな喪失だった。
「本当は、この町にもう少しいたかったんです。
でも、東京の店に新しいプロジェクトが始まって、どうしても戻らなきゃいけなくて」
「分かりました。君の道が動き出したんですね」
「あなたに出会ってから、ずっと止まってた時間が動いたんです。
きっとあの時計も、また動き出すと思う」
悠真はゆっくり頷いた。
「向こうでも頑張ってください。君ならきっと大丈夫です」
「頑張ります。でも……」
「でも?」
「やっぱり寂しいです」
「俺も寂しいですよ」
結衣の目が光って、すぐに伏せられた。
「この町を出ても、あなたの笑顔を忘れないようにします」
「忘れませんよ。君がこの町を思い出す限り、俺はここにいます」
外の空が淡く明るくなり始めていた。
夜の青が消え、朝の白に染まっていく。
店の外に出ると、海辺には薄い氷が張り、風がそれを少しずつ揺らしていた。
朝日がそれを照らし、小さな結晶がきらりと光る。
「……春が来ますね」
「ええ。でも、今日のこの寒さ、きっと忘れません」
結衣がポケットから手を出して、掌を広げた。
その手はまだ少し震えていた。
悠真は静かにその手を包み込んだ。
指先から伝わるぬくもりが、凍える空気の中でゆっくりと溶けていく。
「ねえ、悠真さん」
「うん」
「この手の温度、ちゃんと覚えていてくださいね。
もしいつかまた会えた時、あなたの手を握ってこの温度を確かめたいから」
「約束します」
結衣は微笑み、彼の手を離した。
そして海の方を向く。
陽光が少し強くなり、海面を散らす光が目に眩しかった。
「今までは逃げていた東京に、今度はちゃんと向き合ってきます」
「うん。もう逃げない君なら、大丈夫です」
「あなたも、ちゃんとこの町を守ってくださいね」
「約束します」
潮風がふたりの髪を揺らし、透明な空気を震わせた。
遠くで汽笛が鳴る。
それは、新しい季節の合図のようにも聞こえた。
結衣が少しだけまぶしそうに目を細めて言った。
「もし時間が止まってくれたとしても、私はきっとまた歩き出してしまうと思う。
でも、そのたびにこの町とあなたを思い出せるなら、どこへでも行けるんです」
悠真は頷いた。
「行ってください。そして、またここに帰ってきてください」
「ええ、必ず」
その瞬間、東の空から朝日が昇った。
凍える朝の冷気が、わずかに温もりを帯びていく。
光が二人を包み、冬の終わりを静かに告げていた。
結衣はひとつ深呼吸をすると、振り返って笑った。
「ありがとう。……どうか、幸せでいてください」
「君も」
そうして彼女は歩き出した。
凍てついた道の上で、朝の光が足跡を照らす。
その先に続くのは、消え失せてしまった時間ではなく、これから積み重ねられる未来だった。
悠真はしばらく立ち尽くしたまま、空へと視線を上げた。
白い息がひとつ、ゆっくり空へ昇る。
そして彼は小さく呟いた。
「ありがとう、また会える日まで」
冬の空がふたりを見守るように静まった。
その光が降り注ぐ中で、凍える朝は確かに春のはじまりを告げていた。
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