君の声を、もう一度

たまごころ

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第27話 約束の証

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初夏の風が、海風町を包み込んでいた。  
昼下がりの気温は穏やかで、道端の紫陽花が濡れたように色を映している。  
喫茶seasideのドアを開けると、カランと懐かしいベルの音が鳴った。  
悠真は二か月ぶりにこの店の香りを深く吸い込み、心の奥に染みこませた。  

「いらっしゃいませ――」  
聞き慣れた声に顔を上げる。  
カウンターの奥には結衣が立っていた。  
白いエプロン姿、少し短くなった髪が肩にかかり、以前より凛とした表情をしていた。  

「……帰ってきたんですね」  
「ただいま、ですかね?」  
「ええ。きっとその言葉が一番似合うと思います」  

二人は小さく笑い合った。  
懐かしい会話が、ゆっくりと時間を溶かしていく。  
店には潮風が入り込み、風鈴がかすかに鳴った。  

「東京での仕事は?」  
「おかげさまで、うまくいってます。けど、やっぱりこの町を離れていると落ち着かなくて」  
「分かります。ここはそういう場所だから」  
「だから、今日戻ってきたんです。ある約束を果たしに」  

結衣がそう言うと、カウンターの引き出しから一枚の封筒を取り出した。  
宛名には“高瀬悠真様”と書かれている。  
それは、あの日――春の終わりに送られた封筒と同じ筆跡だった。  

「これ、手紙の返事です」  
悠真は息を飲み、封を切った。  
中には便箋一枚と、小さな押し花が挟まっていた。  
淡いピンクの桜の花びら。彼女が封筒に添えていた春の記憶が、そこにあった。  

便箋には、丁寧な字でこう綴られていた。  

“あなたの手紙を読みながら、あの日の海を思い出しました。  
時間は戻らなくても、想いは何度でもやり直せる――そう信じられるようになりました。  
だから今度は私から、ひとつの約束を贈ります。  
もしもいつか迷ったら、この町でまた会いましょう。  
その時こそ、“本当の始まり”を迎えたい。  
海風町に吹く風が、私たちの未来を優しくつなぎますように。”  

手紙を読み終えた悠真の目に、淡い光が宿った。  
封筒の中にはもう一つ、小さな紙片が入っている。  
開くと、そこには見慣れた懐中時計の絵が描かれており、下には短い言葉があった。  

――「時を渡すその人へ。止まった針を動かすのは、もう一つの心です。」  

悠真は無意識のうちにポケットから例の懐中時計を取り出した。  
止まったままだった針を、親指でそっと撫でる。  
その瞬間、ほんのわずかに内部から金属のきしむ音がした。  
針が一度だけ震え、少しだけ動いた。  

「……今、動きましたよね?」  
結衣が信じられないような表情で呟いた。  
「覚えてますか? 君のお父さんが言ってた、“時間は形じゃなく心で測る”って言葉」  
「ええ。まさか、本当に針が動くなんて」  
「たぶん、止まってたのは時計じゃなくて、俺たちの気持ちの方だったんですよ」  

結衣は静かに頷き、目を伏せた。  
「お父さん、この時計を“約束の証”って呼んでたんです。  
誰かと約束した時に預けて、またその人に会えた時、時を動かして返すって」  
「じゃあ、これは受け取るべきじゃないですね。返さなきゃ」  
「いいえ。あなたに持っていてほしい。  
だって、今動き出したその時間は、きっとあなたと私のものだから」  

二人の視線が交わる。  
その空気の中で、過去と現在がひとつに重なっていく感覚があった。  
彼女と出会った春。再会した夏。記憶を取り戻した冬。  
そして今、春をもう一度迎えたこの瞬間――それら全ての時間がここに集まっていた。  

「ねえ、悠真さん」  
「うん」  
「私、この店を少しの間預かりたいんです。今度は自分の力で、ちゃんとやってみたい」  
「もちろん。君がやるなら、ここはきっともっといい場所になる」  
「でも、条件があります」  
「条件?」  
「あなたも一緒にいてください」  

一瞬、時間が止まったように感じた。  
「……一緒に?」  
「ええ。あなたがいてくれるなら、この店は本当の“再会の場所”になると思うんです」  

悠真は笑いながら、自分でも驚くほど自然に言葉を返した。  
「喜んで。ここは君と俺の居場所です」  

ふたりのあいだに静かな風が流れた。  
外では潮の香りを含んだ風が窓を揺らしている。  
結衣は窓の外を眺めながら、少しだけ目を細めた。  

「東京でも思ってたんです。やっぱりこの町に風が吹くと、私の心も動く気がして」  
「この風は、君の帰り道ですね」  
「そうかもしれません」  

カウンターに座り、二人でコーヒーを飲む。  
その味は、懐かしさよりも新しい記憶の始まりに近かった。  
窓の外には小さな帆船が行き交い、空は少しずつ金色に染まり始めている。  

「ねえ、覚えてますか。五年前に初めて来た日のこと」  
「覚えてます。あの日は桜が咲き始めで」  
「私、あなたに“また会おう”って言い残して、結局別れちゃったんですよね」  
「でも、こうしてまた会ってます」  
「ええ。だから今は、もう“また”とは言いません」  
「じゃあ、なんて?」  
「“これからも”って言います」  

その言葉を聞いて、悠真の胸の奥で何かが柔らかく解けた。  
もう続いていく未来を、悲しみではなく希望として見つめられるようになったのかもしれない。  

結衣は立ち上がり、カウンターから外を見つめた。  
「夕陽が沈みますね」  
「潮が引いていく」  
「毎日見慣れてる景色なのに、今日は特別に感じます」  
「それはきっと、君が戻ってきたからですよ」  

窓の外で、光がゆっくりと沈んでいく。  
橙色の空に、金色の波が輝く。  
その光を背に、結衣がぽつりと言った。  

「私、もう逃げません。この町でも、過去の自分とも」  
「うん」  
「だから、この瞬間を“約束の証”にしたいんです」  
「いい証ですね」  

風鈴が、小さく音を鳴らした。  
その音は、まるで静かに二人の誓いを祝福するようだった。  

手の中の懐中時計はもう止まっていない。  
わずかに針を刻みながら、静かに時を進めている。  
その音に合わせるように、結衣が軽く言った。  

「さて、明日に備えて豆を挽き直しますか」  
「忙しくなりますよ」  
「いいんです。その方が、ちゃんと生きてる気がするから」  

外の空には初夏の星が瞬き始めていた。  
流れる風の中に、桜の花びらが一枚だけ舞い残っている。  
それはまるで――過去と未来をつなぐ最後の証のように見えた。  

針の音が静かに響く。  
“チク、タク、チク、タク”――二人の心臓の音と重なりながら、確かに時を刻んでいた。  

店の奥から、柔らかな灯りが洩れる。  
その中で、結衣と悠真は同じコーヒーの香りを吸い込み、同じ空気を共有していた。  

それが、この町で果たされた“約束”の証だった。
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