君の声を、もう一度

たまごころ

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第28話 春を迎えに行く

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青く澄んだ空が町を包んでいた。  
海風町に本格的な春が訪れるのは、いつも少し遅い。  
桜はすでに葉をつけ始めていたが、坂道を吹き抜ける風はいまだ甘い花の香りを含んでいる。  

喫茶seasideの扉を開けると、心地よい音が鳴った。  
カラン、とあの変わらない響きが店内に満ちる。  
「おはようございます」  
結衣の声がカウンターの奥から聞こえる。  
白いシャツの袖を軽く捲り上げ、彼女は新しいカップを磨いていた。  

「おはよう。今日もいい天気ですね」  
「ええ。桜が散って、かわりに新しい風が吹いてる感じです」  
「春が本気を出してきましたね」  

結衣はくすりと笑うと、ふと外に目を向けた。  
「実は、今日この後、みんなで花畑の丘に行く予定なんです」  
「花畑……菜の花ですか?」  
「はい。去年あなたと行った場所、覚えてますか?」  
「ああ、あそこ。覚えてますよ」  
「実は、あの丘の近くに小さな木を植えたんです。父と一緒に行った日の記念樹。五年前の春に」  
「へえ、それは知りませんでした」  
「まだ小さい木なんですけど、今年ようやく蕾がついたんです。だから今日、見に行こうと思って」  

言葉を聞いて、悠真の胸がゆっくりと温まった。  
あの木も、彼女も、時間の流れの中でちゃんと育っていたのだ。  

「よかったら、一緒に行きませんか?」  
「もちろん」  

昼過ぎ、二人は店を閉め、車で海沿いの道を走った。  
潮風が窓から吹き込み、春の光が反射してきらめく。  
丘の手前には、広がる一面の菜の花畑。  
風が吹くたび、波のように黄色が揺れていく。  

「わあ……今年もきれい」  
結衣が車を降り、小走りで花の中に入っていった。  
その後ろ姿を追いながら、悠真も笑う。  

「変わってないですね、君は」  
「どこがですか?」  
「好きなものを見つけたら、すぐに駆け出すところですよ」  
「だって、待ってたんですもん。五年ぶりに、春らしい春を」  

風がふたりの間をくぐり抜け、花びらが舞った。  
菜の花の向こうには、彼女が話していた小さな木があった。  
まだ背丈ほどの高さだが、枝の先には見事に蕾がついている。  

「頑張ってますね、この子」  
「ええ。最初は折れそうなくらい弱かったのに、今は春を迎える力がある。  
多分、父も嬉しいと思います」  

彼女は木の根元にしゃがみ、そっと触れた。  
「私もこの町で、やっと根を張れた気がするんです。  
昔は、流れてるだけの時間が怖かったけど、今は止まってほしくないって思える」  

悠真はポケットから懐中時計を取り出した。  
「見てください」  
「……動いてます」  
「少しずつですけど、ちゃんと。君が帰ってきた日から針が少し早くなった気がします」  
「不思議ですね。まるでこの時計まで生きているみたい」  
「きっと、心で動いてるんですよ」  

結衣は目を細めて頷いた。  
「時間って、残酷でも優しいものなんですね。  
私たちが止まっても、また春を教えてくれる」  

二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。  
菜の花を揺らす風の音。鳥のさえずり。  
そのどれもが、過去の記憶と同じくらい鮮やかだった。  

ふと、丘の上から見える海を指さして結衣が言った。  
「ずっと向こうに、うっすら見える灯台。あそこまで歩きたいんです」  
「けっこう距離ありますよ?」  
「歩きましょうよ。途中で風が変わるかもしれません」  

二人はゆっくりと歩き出した。  
土の感触、花の香り、風のぬくもり――どれもが懐かしい。  
途中で結衣が立ち止まり、振り返った。  
丘の上の小さな木が、遠くで光を浴びて揺れている。  
「この光景、ちゃんと覚えておきたいです」  
「写真、撮りますか?」  
「いいえ。もう心に焼きついてます」  

しばらく歩くと、風の向きが変わった。  
潮風が背中からではなく、正面から頬にあたる。  
遠くで灯台の白い塔が見え始める。  
その姿が、少し昔、ふたりで見上げた記憶と重なった。  

「行きましたよね、ここ。取材終わりに」  
「ええ。懐かしい」  
「そのとき、あなた、すごく真剣に空を撮ってました」  
「覚えてるんですね」  
「その横顔、今でも忘れられません」  

緩やかな坂を登り切ると、風が一段と強くなった。  
海の光が目を細めるほど眩しい。  
灯台の壁に陽が反射して、淡い金色に染まっている。  

「ねえ、悠真さん」  
「うん?」  
「もういちど、約束しませんか?」  
「どんな?」  
「どんな季節が来ても、好きな景色を忘れないこと」  
「いい約束ですね。じゃあ、俺も一つ」  
「なに?」  
「君が笑っている限り、この町を守ること」  

結衣は笑って頷いた。  
「約束の証、増えましたね」  
「また時計の針が進んじゃうかもしれません」  
「それでいいんです。時間が進むのは、次の春に向かう証だから」  

二人は灯台の影の下に腰を下ろした。  
青い海が遠くまで続き、波の音が途切れなく響いてくる。  
結衣がそっと呟く。  
「ここに来ると、不思議と泣きそうになるんです。幸福すぎて」  
「泣いていいですよ」  
「もう、それはあなたのセリフですね」  

静かに笑いながら、彼女は目を閉じた。  
そして、薄く唇を開く。  
「ありがとう。過去も未来も、今の私も――全部繋げてくれたのはあなたです」  
「こちらこそ。君がこの町に春をくれました」  

風が海の匂いを運ぶ。  
花びらが舞い、空がほのかに霞んで見えた。  
遠くで汽笛が鳴り、季節の音が重なって広がっていく。  

結衣は懐からノートを取り出した。  
“彼女の記録”の続きのページを開く。  
そこに、今日の一文を静かに書き込む。  

“春を迎えに行った日。  
潮の匂いと風の温度を覚えている。  
あの日の私が見た光は、きっと永遠に消えない。”  

書き終わると、ペンを置き、微笑んだ。  
悠真はその横顔を見ながら、ふと気づいた。  
海を照らす光と彼女の髪が、まったく同じ色をしている。  
それは季節の境目で輝く一瞬の光だった。  

「春を迎えに行くって、こういうことなんですね」  
「え?」  
「君と同じ景色を見ようとすることです」  

彼女は穏やかに頷いた。  
そして立ち上がり、丘の方を振り返る。  
「あの木も、また来年はきっと花を咲かせますね」  
「その頃には、俺たちも少し変わっているかもしれない」  
「変わっても、また同じ春を見ましょう」  

風がふたりの頬を撫でた。  
春の光が包み込み、海が静かに咲くようにきらめいた。  

それはまるで、季節そのものが二人を祝福しているようだった。  
心の中に、やわらかな風が吹く。  
そしてまた、次の春へ――ふたりは歩き出した。
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