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第30話 桜の下で
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春が再び、海風町に戻ってきた。
冬の名残をわずかに残した冷たい空気の中に、桜のつぼみが淡く膨らみ始めている。
五年前にも同じようにこの町で桜を見上げたことを思い出すと、悠真の胸には懐かしさと静かな痛みが広がった。
喫茶seasideの窓辺から見える通りには、人々の笑い声が溶け合っていた。
観光に訪れた家族、手をつないで歩く学生たち、春を告げる風の中で散る花びら。
そのすべてが優しくて、どこか夢の続きのようだった。
「そろそろ咲きますね」
カウンター越しに結衣がつぶやく。
白いシャツの袖をまくり、薄いピンクの髪飾りをつけている。
相変わらず忙しそうに動きながらも、その表情は以前より穏やかだった。
「今日はお客さん多いな」
「桜が咲くと、お店も少し特別な空気になりますね。
不思議です。何も変わってないのに、何かが変わった気がする」
「それは、時が流れてる証拠ですよ」
彼女は頷き、カウンターに手をついた。
「時が流れても、この場所は変わらないでいてほしいです。ここに来ると、自分を取り戻せるから」
「この店は、君がきっとそうしてくれてるんですよ」
その言葉に結衣は微笑んだ。
「やっぱり、あなたの言葉はずるいですね」
「褒め言葉として受け取ります」
ふと、カウンターの上に懐中時計が置かれていた。
針は静かに時を刻み、以前止まっていたそこには確かな鼓動が宿っていた。
「気づきました? あれ、止まらなくなったんです」
「ほんとだ。もう完全に直ったようですね」
「あなたが戻したんですよ」
「そんなことないです。君の手で戻したんです」
結衣は少し照れくさそうに頬を染めた。
そして視線を窓の外へ向ける。
「午後、少し店を抜けてもいいですか?」
「いいですよ。どこか行くんですか?」
「桜並木を歩きたいんです。あの丘の方まで」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
*****
午後、町の喧噪を抜け、二人は並木道を歩いていた。
桜は八分咲き。淡い花びらが風に流れ、陽光の中でゆっくり舞っている。
道の端には、お花見を楽しむ家族連れやカメラを構える人の姿。
その笑い声が、まるで春そのものの響きのようだった。
「覚えてますか? この道を歩いたの、最初はあなたとじゃなかったんです」
「そうなんですか」
「高校の帰りによくこの道を通ってました。
でも、そのときはただ通り過ぎるだけの場所でした。
あなたと歩いてから、初めて“この道はこんなにきれいだったんだ”って思えたんです」
桜の枝が風に揺れ、光が二人の足元をさざめかせる。
その光景があまりにも穏やかで、悠真は思わず息をついた。
「記憶って、場所の中に住んでるんですね。
僕もこの町に来てから、何度も君を思い出してました」
「でも、本当に思い出してたのは、私じゃなくて“あのときの自分”なんですよね?」
「かもしれませんね。
過去の自分たちは、どこかでまだこの町を歩いている気がします」
丘に続く石段を登ると、見晴らしのいい場所に出た。
町と海が一望できる高台。
その中央に、かつて植えた若木が立っていた。
昨年よりも大きく、枝を広げ、見事に花を咲かせていた。
「咲きましたね」
結衣がそっと枝に手を伸ばす。
花びらが指先をくすぐるように舞い、風がやさしく髪を撫でた。
「この木、私たちみたいですよね」
「どうしてですか?」
「嵐にも倒れず、少しずつ強くなって、やっと今年、花を咲かせた」
「本当にそうですね。昔の俺たちに教えてあげたいですよ」
「“生きてるだけでいいよ”って言ってあげたい」
二人は並んで木の下に座った。
眼下には広がる海。波の音が遠くから絶え間なく届いてくる。
結衣はひとつ深呼吸をして、そっと言った。
「実は、少しだけ東京に行かなきゃいけないんです」
「また?」
「うん。けれど、今回は帰る場所があるから大丈夫。
怖くないんです。この町がある限り」
「すぐ戻ってくるってことですね」
「はい。……あなたが待ってくれるなら」
「もちろん。ずっと待ちます」
結衣は微笑み、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
一片の花びらが彼女の肩に落ち、それを悠真が指で取る。
「この花びら、春の証拠として君に預けます」
「ありがとう。でも、今年の春は全部覚えておきたいです」
風が吹くたび、桜の花びらが雪のように舞った。
木陰の光が揺らめき、結衣の頬を照らす。
その横顔があまりにも穏やかで、悠真は言葉を失った。
「ねえ、悠真さん」
「うん」
「もう怖くないです。過去も、未来も、全部受け止められます。
思い出も痛みも、全部あってよかったと思える」
「それはきっと、君がこの町に帰ってきてくれたからだ。
俺も君に出会って、やっと前に進めた」
結衣は静かに頷いたあと、空を見上げた。
「この町に吹く風って、不思議ですね。
どんな季節でも、泣きたい気持ちを優しく包んでくれる」
「それがたぶん、“君の声”なんですよ」
「私の?」
「そう。君の声が、この町全体に響いてる気がするんです。
誰かに優しく届くように」
その言葉に、結衣の目が少し潤んだ。
「ありがとう。その言葉、一生忘れません」
桜の木の下に二人の影が重なっている。
風が止まり、世界が一瞬だけ静まり返った。
結衣はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「悠真さん、“ありがとう”って言葉じゃ足りないです」
「じゃあ、来年もここで春を見ましょう。それが本当のありがとうです」
「はい。約束です」
風が再び吹き、桜が一斉に舞い上がる。
光の粒が空へと昇り、丘の上は淡い霞のように白く染まった。
「ねえ、聞こえますか?」
「何を?」
「桜の音。咲くたびに、“また生きていこう”って言ってるみたい」
「確かに、そんな感じがします」
二人は静かに笑った。
海のほうから潮の香りを運ぶ風が吹き、町の鐘の音がかすかに響く。
桜の下、時間がゆっくりと流れていく。
季節はめぐり、記憶も変わってゆく。
けれど、この瞬間だけは永遠のように穏やかだった。
重なる影の中で、悠真は心の中でひとつの言葉を繰り返した。
――君の声を、もう一度。
その声がある限り、自分は何度でも春を迎えに行ける。
花びらが舞う音の中、ふたりはそっと手を重ねた。
その温もりが、未来への約束のように確かなものであった。
そして、丘の上の桜が最後の一吹きで花を散らすと、
春の陽射しが柔らかく二人を包み込んだ。
世界が光に満たされる中で――
ふたりの物語は、静かに、新しいページを開いた。
冬の名残をわずかに残した冷たい空気の中に、桜のつぼみが淡く膨らみ始めている。
五年前にも同じようにこの町で桜を見上げたことを思い出すと、悠真の胸には懐かしさと静かな痛みが広がった。
喫茶seasideの窓辺から見える通りには、人々の笑い声が溶け合っていた。
観光に訪れた家族、手をつないで歩く学生たち、春を告げる風の中で散る花びら。
そのすべてが優しくて、どこか夢の続きのようだった。
「そろそろ咲きますね」
カウンター越しに結衣がつぶやく。
白いシャツの袖をまくり、薄いピンクの髪飾りをつけている。
相変わらず忙しそうに動きながらも、その表情は以前より穏やかだった。
「今日はお客さん多いな」
「桜が咲くと、お店も少し特別な空気になりますね。
不思議です。何も変わってないのに、何かが変わった気がする」
「それは、時が流れてる証拠ですよ」
彼女は頷き、カウンターに手をついた。
「時が流れても、この場所は変わらないでいてほしいです。ここに来ると、自分を取り戻せるから」
「この店は、君がきっとそうしてくれてるんですよ」
その言葉に結衣は微笑んだ。
「やっぱり、あなたの言葉はずるいですね」
「褒め言葉として受け取ります」
ふと、カウンターの上に懐中時計が置かれていた。
針は静かに時を刻み、以前止まっていたそこには確かな鼓動が宿っていた。
「気づきました? あれ、止まらなくなったんです」
「ほんとだ。もう完全に直ったようですね」
「あなたが戻したんですよ」
「そんなことないです。君の手で戻したんです」
結衣は少し照れくさそうに頬を染めた。
そして視線を窓の外へ向ける。
「午後、少し店を抜けてもいいですか?」
「いいですよ。どこか行くんですか?」
「桜並木を歩きたいんです。あの丘の方まで」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
*****
午後、町の喧噪を抜け、二人は並木道を歩いていた。
桜は八分咲き。淡い花びらが風に流れ、陽光の中でゆっくり舞っている。
道の端には、お花見を楽しむ家族連れやカメラを構える人の姿。
その笑い声が、まるで春そのものの響きのようだった。
「覚えてますか? この道を歩いたの、最初はあなたとじゃなかったんです」
「そうなんですか」
「高校の帰りによくこの道を通ってました。
でも、そのときはただ通り過ぎるだけの場所でした。
あなたと歩いてから、初めて“この道はこんなにきれいだったんだ”って思えたんです」
桜の枝が風に揺れ、光が二人の足元をさざめかせる。
その光景があまりにも穏やかで、悠真は思わず息をついた。
「記憶って、場所の中に住んでるんですね。
僕もこの町に来てから、何度も君を思い出してました」
「でも、本当に思い出してたのは、私じゃなくて“あのときの自分”なんですよね?」
「かもしれませんね。
過去の自分たちは、どこかでまだこの町を歩いている気がします」
丘に続く石段を登ると、見晴らしのいい場所に出た。
町と海が一望できる高台。
その中央に、かつて植えた若木が立っていた。
昨年よりも大きく、枝を広げ、見事に花を咲かせていた。
「咲きましたね」
結衣がそっと枝に手を伸ばす。
花びらが指先をくすぐるように舞い、風がやさしく髪を撫でた。
「この木、私たちみたいですよね」
「どうしてですか?」
「嵐にも倒れず、少しずつ強くなって、やっと今年、花を咲かせた」
「本当にそうですね。昔の俺たちに教えてあげたいですよ」
「“生きてるだけでいいよ”って言ってあげたい」
二人は並んで木の下に座った。
眼下には広がる海。波の音が遠くから絶え間なく届いてくる。
結衣はひとつ深呼吸をして、そっと言った。
「実は、少しだけ東京に行かなきゃいけないんです」
「また?」
「うん。けれど、今回は帰る場所があるから大丈夫。
怖くないんです。この町がある限り」
「すぐ戻ってくるってことですね」
「はい。……あなたが待ってくれるなら」
「もちろん。ずっと待ちます」
結衣は微笑み、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
一片の花びらが彼女の肩に落ち、それを悠真が指で取る。
「この花びら、春の証拠として君に預けます」
「ありがとう。でも、今年の春は全部覚えておきたいです」
風が吹くたび、桜の花びらが雪のように舞った。
木陰の光が揺らめき、結衣の頬を照らす。
その横顔があまりにも穏やかで、悠真は言葉を失った。
「ねえ、悠真さん」
「うん」
「もう怖くないです。過去も、未来も、全部受け止められます。
思い出も痛みも、全部あってよかったと思える」
「それはきっと、君がこの町に帰ってきてくれたからだ。
俺も君に出会って、やっと前に進めた」
結衣は静かに頷いたあと、空を見上げた。
「この町に吹く風って、不思議ですね。
どんな季節でも、泣きたい気持ちを優しく包んでくれる」
「それがたぶん、“君の声”なんですよ」
「私の?」
「そう。君の声が、この町全体に響いてる気がするんです。
誰かに優しく届くように」
その言葉に、結衣の目が少し潤んだ。
「ありがとう。その言葉、一生忘れません」
桜の木の下に二人の影が重なっている。
風が止まり、世界が一瞬だけ静まり返った。
結衣はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「悠真さん、“ありがとう”って言葉じゃ足りないです」
「じゃあ、来年もここで春を見ましょう。それが本当のありがとうです」
「はい。約束です」
風が再び吹き、桜が一斉に舞い上がる。
光の粒が空へと昇り、丘の上は淡い霞のように白く染まった。
「ねえ、聞こえますか?」
「何を?」
「桜の音。咲くたびに、“また生きていこう”って言ってるみたい」
「確かに、そんな感じがします」
二人は静かに笑った。
海のほうから潮の香りを運ぶ風が吹き、町の鐘の音がかすかに響く。
桜の下、時間がゆっくりと流れていく。
季節はめぐり、記憶も変わってゆく。
けれど、この瞬間だけは永遠のように穏やかだった。
重なる影の中で、悠真は心の中でひとつの言葉を繰り返した。
――君の声を、もう一度。
その声がある限り、自分は何度でも春を迎えに行ける。
花びらが舞う音の中、ふたりはそっと手を重ねた。
その温もりが、未来への約束のように確かなものであった。
そして、丘の上の桜が最後の一吹きで花を散らすと、
春の陽射しが柔らかく二人を包み込んだ。
世界が光に満たされる中で――
ふたりの物語は、静かに、新しいページを開いた。
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