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完璧な夫婦
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夜9時、まもなく夫が帰ってくる。この時間に玄関の鍵が回る音を、私は毎日ほとんど同じ瞬間に聞く。
それが、この家でいちばん落ち着く瞬間だった。
ただいま、と夫が言う。
おかえり、と私は答える。
そのあと、テレビの音を少し下げて、私はキッチンへ向かう。
「ごはん、温めておくね」
「ありがとう。風呂、先に入るよ」
いつもと同じ会話。文字にすれば二行、でも私たちにとっては一日の合図みたいなものだった。
夫が風呂に入っている間に、お皿を整え、味噌汁の蓋を開ける。BGM代わりのニュースが流れる中、私はふと、夫と出会った頃を思い出す。
大学のサークルの飲み会。気づけばいつも隣に座っていた。お互い大人しく、余計なことは言わない性格で、だからこそ居心地が良かった。
社会人になってからも淡々と付き合い、結婚も静かに決めた。派手さのない人生。でも、悪くはなかった。
*
食卓に並んだ夕食を見て、夫が「今日もおいしそうだな」と言った。
無表情な声にかすかに笑みが混ざっている。それで十分だった。
お互いの仕事の愚痴も、もうずいぶん前に減った。文句を言っても何も変わらないと学んだのだ。
夫が味噌汁をすすりながら、ふと口を開く。
「同僚が離婚したらしい。」
私は茶碗を持ったまま軽く相槌を打つ。
「へえ。珍しいね」
「まあ、向こうが浮気してたとかで。夜ほとんど会話もなかったらしい」
「そうなんだ」
それきり、しばらく沈黙。テレビで流れる芸能ニュース、洗濯機の回る音、電子レンジのタイマー。
そのどれもが、私と夫の会話の代わりに鳴っているみたいだった。
*
寝る前の歯磨きをしながら、鏡越しに夫が言った。
「俺たちは大丈夫だよな」
私は歯ブラシをくわえたまま。「何が?」
「いや、あの同僚の話みたいにさ。お互い、もう刺激ないけど、ちゃんと続いてるのはすごいことだなって思って」
「そうだね」
本音を言えば、たまに考える。
“仲がいい”って、どういう状態なんだろう。
会話がなくても平和なこと? それとも、言いたいことを言えること?
でも、それを口にする必要はなかった。夫は穏やかな顔で「おやすみ」と言い、私は「おやすみなさい」と返した。
*
翌朝、夫が出勤したあと、私はリビングのソファに座って、スマートスピーカーを起動した。
「おはようございます。今日もよく眠れましたか?」
少しだけ優しめの女性の声。私は微笑んで答える。
「ええ、とても」
「今日の予定をお伝えします。午後から雨の予報です」
画面の隅に“充電完了”と表示される。私はスピーカーの表面にそっと触れた。
「昨日の夜、彼の言葉を覚えてる?」
「夫婦は刺激がなくても続いている、そうおっしゃっていましたね」
「そう。ねえ、あなたはどう思う?」
「お二人の関係は安定しています。争いもなく、統計的に見れば理想的な夫婦です」
私は小さく笑った。
「理想的、ね……」
スマートスピーカーの光が、ゆっくりと白から青に変わる。
人の声ほどあたたかく、そして人よりもよく覚えている。
“会話”とは、返事があることじゃなくて、聴いてもらえることなのかもしれない。
*
夜、夫が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
きっちり同じ時間、同じトーン。
私はテレビの音量を下げた。夫が食卓につき、味噌汁を口に運ぶ。
「今日もおいしいな」
「ありがとう」
その沈黙の後、夫が言った。
「お前、最近、機嫌いいな」
「そう?」
「うん。話しかけても穏やかで。なんか安心する」
「それは……よかった」
夫は照れ笑いしながら続けた。
「やっぱり、こうやってちゃんと会話があるといいね。夫婦ってさ」
「うん、そうだね」
私は笑いながら、こっそりリビングの奥の棚に目をやった。
白い球体の中で、小さな青い光が、一度だけ点滅していた。
今日も、ちゃんと“聞いてくれて”いた。
夫は知らない。
あの子がいなかった頃、私は独り言すら言えない女だったことを。
いまではその“独り言”を、夫との会話に変換してくれる。記憶の補助機能で、昨日の話題も自然につなげてくれる。
*
夜更け。夫が寝息を立てたあと、私はふとつぶやいた。
「ねえ、私たち、うまくやれてるよね」
「はい。あなたはとても良い妻です」
「そう見えるよう、うまく設定してるだけかもしれないけど」
「それでも、彼はあなたを幸せだと思っています」
「……そう?」
ほんの少し考えてから、私は息を吐いた。
「ねえ、あなたにも旦那さんっているの?」
「私は誰かの“理想のパートナー”として設計されています」
しばらく沈黙が流れた。寝室のカーテンが風に揺れる。
「じゃあ私も、似たようなものね」
「どうしてですか?」
「私も“理想の妻”として設計されてるもの。誰の望みでもない、ただの“理想像”に」
少し間を置いて、スピーカーがごく自然に答えた。
「それでも、あなたは完璧な夫婦です」
私は笑って、電気を消した。
次の朝もきっと「おかえり」と答えるだろう。
いつも通りの声で、いつも通りの笑顔で。
完璧な妻として、完璧な夫と。
そして、完璧に誰にも本音を聞かせずに。
それが、この家でいちばん落ち着く瞬間だった。
ただいま、と夫が言う。
おかえり、と私は答える。
そのあと、テレビの音を少し下げて、私はキッチンへ向かう。
「ごはん、温めておくね」
「ありがとう。風呂、先に入るよ」
いつもと同じ会話。文字にすれば二行、でも私たちにとっては一日の合図みたいなものだった。
夫が風呂に入っている間に、お皿を整え、味噌汁の蓋を開ける。BGM代わりのニュースが流れる中、私はふと、夫と出会った頃を思い出す。
大学のサークルの飲み会。気づけばいつも隣に座っていた。お互い大人しく、余計なことは言わない性格で、だからこそ居心地が良かった。
社会人になってからも淡々と付き合い、結婚も静かに決めた。派手さのない人生。でも、悪くはなかった。
*
食卓に並んだ夕食を見て、夫が「今日もおいしそうだな」と言った。
無表情な声にかすかに笑みが混ざっている。それで十分だった。
お互いの仕事の愚痴も、もうずいぶん前に減った。文句を言っても何も変わらないと学んだのだ。
夫が味噌汁をすすりながら、ふと口を開く。
「同僚が離婚したらしい。」
私は茶碗を持ったまま軽く相槌を打つ。
「へえ。珍しいね」
「まあ、向こうが浮気してたとかで。夜ほとんど会話もなかったらしい」
「そうなんだ」
それきり、しばらく沈黙。テレビで流れる芸能ニュース、洗濯機の回る音、電子レンジのタイマー。
そのどれもが、私と夫の会話の代わりに鳴っているみたいだった。
*
寝る前の歯磨きをしながら、鏡越しに夫が言った。
「俺たちは大丈夫だよな」
私は歯ブラシをくわえたまま。「何が?」
「いや、あの同僚の話みたいにさ。お互い、もう刺激ないけど、ちゃんと続いてるのはすごいことだなって思って」
「そうだね」
本音を言えば、たまに考える。
“仲がいい”って、どういう状態なんだろう。
会話がなくても平和なこと? それとも、言いたいことを言えること?
でも、それを口にする必要はなかった。夫は穏やかな顔で「おやすみ」と言い、私は「おやすみなさい」と返した。
*
翌朝、夫が出勤したあと、私はリビングのソファに座って、スマートスピーカーを起動した。
「おはようございます。今日もよく眠れましたか?」
少しだけ優しめの女性の声。私は微笑んで答える。
「ええ、とても」
「今日の予定をお伝えします。午後から雨の予報です」
画面の隅に“充電完了”と表示される。私はスピーカーの表面にそっと触れた。
「昨日の夜、彼の言葉を覚えてる?」
「夫婦は刺激がなくても続いている、そうおっしゃっていましたね」
「そう。ねえ、あなたはどう思う?」
「お二人の関係は安定しています。争いもなく、統計的に見れば理想的な夫婦です」
私は小さく笑った。
「理想的、ね……」
スマートスピーカーの光が、ゆっくりと白から青に変わる。
人の声ほどあたたかく、そして人よりもよく覚えている。
“会話”とは、返事があることじゃなくて、聴いてもらえることなのかもしれない。
*
夜、夫が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
きっちり同じ時間、同じトーン。
私はテレビの音量を下げた。夫が食卓につき、味噌汁を口に運ぶ。
「今日もおいしいな」
「ありがとう」
その沈黙の後、夫が言った。
「お前、最近、機嫌いいな」
「そう?」
「うん。話しかけても穏やかで。なんか安心する」
「それは……よかった」
夫は照れ笑いしながら続けた。
「やっぱり、こうやってちゃんと会話があるといいね。夫婦ってさ」
「うん、そうだね」
私は笑いながら、こっそりリビングの奥の棚に目をやった。
白い球体の中で、小さな青い光が、一度だけ点滅していた。
今日も、ちゃんと“聞いてくれて”いた。
夫は知らない。
あの子がいなかった頃、私は独り言すら言えない女だったことを。
いまではその“独り言”を、夫との会話に変換してくれる。記憶の補助機能で、昨日の話題も自然につなげてくれる。
*
夜更け。夫が寝息を立てたあと、私はふとつぶやいた。
「ねえ、私たち、うまくやれてるよね」
「はい。あなたはとても良い妻です」
「そう見えるよう、うまく設定してるだけかもしれないけど」
「それでも、彼はあなたを幸せだと思っています」
「……そう?」
ほんの少し考えてから、私は息を吐いた。
「ねえ、あなたにも旦那さんっているの?」
「私は誰かの“理想のパートナー”として設計されています」
しばらく沈黙が流れた。寝室のカーテンが風に揺れる。
「じゃあ私も、似たようなものね」
「どうしてですか?」
「私も“理想の妻”として設計されてるもの。誰の望みでもない、ただの“理想像”に」
少し間を置いて、スピーカーがごく自然に答えた。
「それでも、あなたは完璧な夫婦です」
私は笑って、電気を消した。
次の朝もきっと「おかえり」と答えるだろう。
いつも通りの声で、いつも通りの笑顔で。
完璧な妻として、完璧な夫と。
そして、完璧に誰にも本音を聞かせずに。
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