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第一記録【ボディコンの妖精】
しおりを挟む昭和60年、5月。
オフィスの空気は、いつだって白くよどんでいる。
朝から絶え間なく焚かれるタバコの煙が、天井の蛍光灯にまとわりついているからだ。
「……ふぅ」
私は小さく息を吐いて、ワープロのキーボードから手を離した。
カタカタという乾いた打鍵音と、黒電話のベルの音。
そして、おじさんたちの咳払い。
それが私の世界のBGMだ。
私の名前は、佐々木洋子。29歳。
この中堅商社に勤めて11年目になる。
世の中は「男女雇用機会均等法」だなんて騒がしいけれど、高卒で入社した私には関係のない話だ。
私の仕事は清書とお茶汲み、そして誰にも期待されないまま、ただそこにいること。
29歳、か……。
窓ガラスに映る自分を見る。
ひっつめた黒髪に、流行遅れの事務服。
19歳で結婚して、今年で10年目になる。子供はいない。
夫の剛とは、もう何年もまともに会話をしていない。
「飯」「風呂」「寝る」。
彼が私に向ける言葉は、家電製品へのコマンド入力みたいだ。
私は、この会社の、そしてこの社会の「背景」なんだと思う。
「おい佐々木君、そろそろ10時だよ」
「はい、ただいま」
課長の声に反射的に立ち上がる。
給湯室へ向かい、使い込まれた急須に茶葉を入れる。
慣れた手つきでお湯を注ぎながら、私はふと、フロアの奥に視線をやった。
そこだけ、空気が違った。
私から見て斜め前の席。
先週配属されたばかりの新任係長、高橋徹(とおる)さん。
24歳。私より5つも年下。
噂では社長の遠縁にあたる御曹司らしいけれど、そんな肩書きが霞むくらい、彼はキラキラしていた。
最新のダブルのスーツを着こなし、髪は流行りのテクノカット。
海外研修帰りだという彼は、電話で英語を話したりしている。
まるでトレンディドラマの俳優が、間違えてこの古臭い事務所に迷い込んだみたいだ。
……私とは、住む世界が違うわ
遠くから眺めるだけの存在。
私なんかが話しかけたら、空気が汚れてしまいそうだ。
私はお盆に湯呑みを並べると、感情を殺して「お茶配りマシーン」になりきった。
部長、課長、先輩……順番にお茶を置いていく。
そして最後に、彼の席へ。
「失礼します」
小声で呟いて、湯呑みを置こうとした時だった。
「あ、ありがとうございます」
え?
思いがけず、爽やかな声が降ってきた。
顔を上げると、高橋係長が書類から目を離し、私を真っ直ぐに見上げていた。
「いつも美味しいお茶、ありがとうございます。……あ、その指の絆創膏、大丈夫ですか?」
彼は私の荒れた指先を見て、ふわりと微笑んだ。
その瞬間、彼のつけている外国製のコロンの香りが、タバコの臭いをかき消して鼻腔をくすぐった。
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てた。
私を見る目。
ゴミを見るような夫の目とは違う、透き通った瞳。
10年間、分厚い氷の下に閉じ込めていた何かが、パキリと音を立てて割れる感覚。
だめ。
勘違いしちゃだめ。
彼はただの挨拶で……。
自分を戒めようとした、その時だ。
――ピロリロン♪
脳ミソの芯が痺れるような、電子音が響いた。
「え?」
周りを見渡す。誰も反応していない。
気のせいかと思った直後、私の視界――高橋係長の顔の真横に、それはいきなり出現した。
『ハロー、迷える子羊ちゃん』
紫色のボディコンスーツ。
派手に立ち上げたワンレンの前髪。
真っ赤なルージュを引いた美女が、重力を無視して、高橋係長のデスクの上に優雅に腰掛けていたのだ。
「ひっ!?」
私が短い悲鳴を上げても、高橋係長はキョトンとしている。
見えてないの!?
美女は手に持った派手な羽扇子(ジュリ扇)をバサリと振ると、私に向かってウインクをした。
『あら、いい男。久しぶりに上玉じゃない』
彼女がそう言うと同時、私の視界に、ピンク色の半透明な板が浮かび上がった。
まるで、子供が遊んでいるファミコンの画面みたいに。
【システム起動:恋愛攻略コンサルタント】
【ターゲット捕捉:高橋 徹(Lv.24)】
「な、なによこれ……!」
『アタシの名前は明菜先生♡ってそんなことより自己紹介は後よ、洋子』
美女――明菜と名乗る幻覚は、高橋係長の顔を覗き込みながら、ニヤリと笑った。
『彼の瞳孔が開いたわ。今の絆創膏の件、ただの気遣いじゃないわね』
明菜は空中に指を走らせる。
すると、高橋係長の頭の上に、緑色の文字と矢印が表示された。
高橋 徹のステータス
好感度:微増(↑)
性欲値:測定中……
弱点:年上の「隙」
『チャンスよ。今、彼の心に貴女という「異物」が入り込んだ。……さあ、どうする?』
目の前に、二つの選択肢ウィンドウが点滅する。
【A:お辞儀をしてすぐに立ち去る(変化なし)】
【B:少し恥じらって「よく見てますね」と微笑む(好感度UP)】
『Aを選べば、貴女は明日も「背景」のまま。でもBを選べば……』
明菜先生と名乗る人?は、悪魔のように、でもどこか楽しげに囁いた。
『この男、貴女のものにできるかもよ?』
私のものに?
彼が?
そんなこと、あるわけがない。
あっていいわけがない。
私はブンブンと首を横に振った。
そして震える指で、ボタンを押す。
――選んだのは、【A】だ。
「し、失礼しましたっ!」
私は彼から逃げるように深く頭を下げると、お盆を抱えてきびすを返した。
背後で高橋係長が「あ……」と何か言いかけた気配がしたけれど、振り返る余裕なんてない。
コツン、コツン、コツン。
早足で逃げる私の後ろから、硬質なハイヒールの音がついてくる。
『はぁ……。あんたってば本当にチキンね』
呆れたような声。明菜だ。
彼女は私の斜め後ろを、滑るように浮遊しながらついてくる。
『どうして逃げたの?今のは絶好のフラグ建設チャンスだったのに』
「うるさいっ!ついてこないでよ!」
私が給湯室の前で振り返って叫ぶと、通りかかった庶務の女の子が、変なものを見る目で私を見た。
あ……
そうだ。
他の人には、彼女が見えていないんだった。
顔から火が出るほど恥ずかしい。
『クスッ。安心して洋子。アタシとの会話は脳波通信(テレパシー)よ。声に出さなくても、心の中で念じれば通じるわ』
明菜は私の顔の周りを、鬱陶しいハエのように飛び回る。
『ほら、もっと自然に。呼吸をするように私と話しなさい』
……意味わかんない!消えて、お願いだから!
私は頭を抱えて、廊下の奥へと走った。
とにかく、一人になれる場所へ行きたい。
たどり着いたのは、階段の踊り場にある休憩スペースだった。
そこには無骨な自動販売機が二台、低い唸り声を上げて並んでいる。
ガコン、という重たい音とともに、私は缶コーヒーを取り出し、近くのベンチにへたり込んだ。
プシュッ。
プルタブを開ける音が、静かに響く。
冷たいコーヒーを流し込むと、少しだけ動悸が収まった気がした。
『落ち着いた?』
気づけば、明菜が私の隣に座っていた。
ベンチに足を組み、短いスカートから伸びた艶かしい太ももを惜しげもなく晒している。
……あんた、なんなのよ。幽霊?
問いかけると、明菜はジュリ扇をパタリと閉じて、面白そうに笑った。
『幽霊なんて湿っぽいものと一緒にしないで。改めて自己紹介するわね』
彼女は空中で一回転すると、ビシッとポーズを決めた。
『アタシは明菜先生。しがない通りすがりの「愛欲コンサルタント」よ』
愛欲……コンサル?
『そう。専門は深層心理学に性科学、それから恋愛工学。趣味は、貴女みたいな退屈な女が、道を踏み外していく様を特等席で眺めること』
彼女は悪びれもせず言った。
『まあ言ってみれば、人の不幸が大好物な、悪魔のキューピッドってとこかしら』
悪魔って……。私に何をさせる気?不倫なんて、そんな破廉恥なこと……
『ハレンチ?』
明菜は鼻で笑った。
『ねえ洋子。貴女は「不倫」だなんて言葉で思考停止してるけど、どうして人はパートナーがいるのに、別の人に惹かれるか知ってる?』
彼女は私の手から缶コーヒーを奪った
『それはね、脳のバグなのよ』
バグ?
『人間も所詮は哺乳類。DNAには「より優秀な遺伝子を残せ」ってプログラムが刻まれてるの。でもね、結婚制度っていう社会のルールが、その本能に蓋をしてるだけ』
明菜の指先から、またホログラムのような図形が浮かび上がった。
断面図に、赤や青の光が点滅している。
『貴女の脳内では今、PEA(フェニルエチルアミン)っていう恋愛ホルモンがドバドバ分泌されてるわ。これはね、脳内麻薬の一種よ。覚醒作用があって、食欲を減退させて、瞳孔を開かせる』
彼女は講義をする教授のように、ジュリ扇でその図を叩いた。
『結婚して三年も経てば、このホルモンは枯渇するの。夫に対してドキドキしないのは、貴女が悪いんじゃない。脳が「そのオスはもう安全(つまらない)」だと判断して、ホルモン供給を止めたからよ』
明菜の顔が、私の顔のすぐ近くまで寄ってくる。
『でも、新しいオス――あの若い高橋係長を見た瞬間、
貴女の脳は10年ぶりに緊急配給を始めた。「おい、ここに新鮮な遺伝子があるぞ! 捕獲しろ!」ってね』
そんな……生物実験みたいに言わないでよ
『事実よ。貴女が感じたときめきの正体は、ただの化学反応。ロマンチックでもなんでもない、種の保存のための強制プログラムなの』
明菜は私の耳元に唇を寄せ、甘く、毒を含んだ声で囁いた。
『抗えるわけないじゃない。だって貴女は今、10年ぶりに「生き物」に戻ったんだから』
生き物に、戻った。
その言葉が、妙に腑に落ちてしまった。
さっき高橋係長と目が合った時の、あの心臓の跳ね方。
あれは確かに、私がまだ女という生き物であることの証明だった。
『さあ、楽しくなってきたわね、洋子』
明菜は空中に浮かぶウィンドウを操作し、新しい文字を表示させた。
【メインクエスト:高橋係長と「秘密の共有」をする】
【期限:今週の金曜日まで】
『覚悟を決めなさい。このゲーム、クリアするまでログアウト不可よ?』
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