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第1話

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 赤い夕日に照らされた黄金色の田んぼ。艷やかな稲は収穫時を知らせている。少しずつ虫や蛙たちも鳴き始め、夜の訪れを感じさせていた。

 カタカタッ、と田んぼのあぜ道を自転車で駆け抜けていく青年は、すうっと土と草木の香りを肺の中へと吸い込んだ。

 彼の金髪は稲たちと同じように輝き、日焼けた肌も夕日に赤く染められていた。服装もカラフルなヴィンテージウィンドブレーカーに、ケミカルウォッシュのデニムがよく似合っている。90年代のリバイバル、スポーティーでラフなのが彼のお気に入りであった 。しかし、季節としては些か軽装で、寒そうにも見える。
 背負った四角いリュックは、荷物がパンパンに詰められており、かなり重たそうだ。けれど、若さゆえだろうか、彼の足は軽快にペダルを漕いでいく。
 
 彼の意識は背中の重さより、目に映る雄大な原風景に奪われていた。幼さの残る彼の顔に似合った大きな瞳は、きらきらと光が零れ落ちそうな程輝いている。

 彼の名は、佐々岡ささおか 真昼まひる旧姓・・小泉こいずみである。



「たっだいま~帰りました~!」
 高い丘の上にある一軒の平屋。妙な威圧感のある門構えから、それなりに古くきちんとした家柄であろうことは伺える。
 玄関先に自転車を停めた真昼は、帰ってきたことを中の人に元気よく報せた。少し高さのある彼の声は、その溌剌さと相まって、辺りによく響く。屋根に止まっていた鳥たちが、思わず驚きばさりばさりと羽を鳴らして飛んでいくほど。

 使い込み過ぎのスニーカーを脱ぎながら、古い木の匂いが充満する玄関を上がる。古い民家ではあるが手入れが行き届いており、ホコリや汚れも少ない。
 住んでいる人は、随分と丁寧で綺麗好きであるのが伝わる。傷の少ないつるつるの木の床も、沢山ある小物たちの頭にホコリが被っていないのも、その証明の一つだ。
 真昼は靴下を履いた足で、つるつるな床の上をスケートリンクのように滑りながら、台所へと向かう。危ないのはわかっているのだが、ついついやりたくなってしまう。なので、誰も見てない時にこっそりと遊んでいた。

 台所の入口にある赤いビーズでできた珠暖簾たまのれんをくぐり、 年季の入ったキッチンを素通りする。そして、その奥に置かれた新品で綺麗な冷蔵庫の前に立った。
 扉を開けると冷気がふわりと真昼に降り注がれる。中には、常備菜や野菜などが綺麗に並べられていた。

(これなら入りそうだな)
 真昼は四角いリュックを床に下ろし、チャックを開いた。そこには買ってきた食材等が、ごちゃりと入れられていた。

 納豆や、豆腐、醤油、その他諸々。冷蔵庫の空いている僅かな詰めていると、タンタンとゆっくりな足音ともに誰かが近づいてきた。

「真昼君、おかえり」
 しっとりと掠れ気味な落ち着いた低音。
 そっと擦り寄ってくる背中の温かさは、真昼の身体中へと伝播し、遂には頬を赤く染めていく。
 この家に居る相手というのは限られており、考えずとも声の主は誰だかわかった。

義父とうさん、ただいま戻りましたっす!」
 振り返ってそこにいたのは、白髪まじりの壮年の男性。少し困り顔で、皺や少し下がり気味の眉尻が何とも哀愁を漂わせている。
 彼は、佐々岡 史人ふみと。この家の主人であり、真昼の妻の・・父である。
 半年前の四月に、史人の娘である佐々岡有寿ありすと真昼は結婚した。
 そして、結婚してすぐ、この神奈川の奥地にあるこの家に同居している。

「寒くなかったかい」
 史人はなんだか心配そうに真昼の手を優しく触れた。
 乾燥しているのか、いつもよりもザラつきがある無骨な指。硬くなった皮膚は、趣味の日曜大工のせいだと真昼は聞いた。

 史人がこうして心配するのもわかる。今日は急に冷え込んだこともあり、衣替えが間に合ってはいないまま外に出てしまった。
 そして、秋風を浴びながら自転車を漕いできたため、比較的に体温が温かい真昼ですら、野晒しにしていた手は冷たく冷え切っていた。いつも体温が低く心地よいと感じる史人の指先すら、少し温かいと感じるのだから相当だ。
 少し遠慮がちに触れる史人の指を、真昼は悪戯っ子のように捕まえて、ぎゅっと握りしめる。

「少し寒かったっすね。ほら、冷たいでしょ。いつも行ってる商店のおばちゃん、今旅行中でいなかったから、奥まで行っちゃいました!」
 冷蔵庫に向いていた身体を、史人の方に向き直し、元気に答える真昼。史人はその言葉に少し驚きつつも、「知らなかった」と頭を横に振った。
 この田舎にも商店というものがいくつか点在する。と言っても、個人商店のため物によっては数十キロ先にしかないとかもよくあること。
 しかも、このような休みが急にあったりするため、いかに店主と仲良くなっていくことが住むうえで大事だったりする。
 真昼はまだ来て半年だが、元より人懐っこい性格のため、個人商店の人から事前にその情報を知っていた。
 けれど、長年住みつつも周りの人たちと距離を置いていた史人は、どうやら知らなかったよう。

「すまない、私が醤油をこぼしてしまったせいで」
「気にしないでくださいよ、そういうことは誰でもありますって」
 ものすごく落ち込んだのか、しょんぼりと眉尻をさらに下げて首を垂らす史人。真昼は相変わらずだなあと思いながら、史人の両頬を優しく包み込む。どうやら彼もまた外にいたのか、頬の皮膚は冷たくなっていた。
 すりっ。史人は真昼の手に自分の顔の重みを預ける。

 同居を始めた頃の気難しさはどこへやら、ここ数ヶ月で随分とこの五十路手前の男は甘えん坊になったようだ。

「真昼くん、有寿は今日も帰ってこないらしい」
 可愛いなあと思っていた隙を狙われて、史人の顔は手を抜けてぐいっとさらに一歩前にと近づく。真昼の視界は、一瞬にして暗く翳り、まるで太陽が月に食われたかのようだった。

 有寿。真昼の妻で、史人の娘である彼女は、現在とあるグッズメーカーの営業企画として働いている。かなりの仕事人間であり、今は単身赴任をしている最中だ。本当は今日帰ると聞いていたため、ご馳走でも作ろうと二人で話していた。
 しかし、今日も彼女は帰ってこないようだ。
 それが意味することを、真昼はよく知っていた。
  
 渋い茶の味、白檀の香り、少し固い唇。
 史人は渋めのお茶が好きで、白檀のお香を焚くのが好き。唇の乾燥は、ケアをしていないからだろう。
 ぬるりと唾液を纏った肉薄な舌が、唇の間をなぞるように優しく舐める。
 突拍子もないのに、どこか遠慮がちなところが、この人らしい。真昼は控えめで怯えがちな舌を、煽るように唇の肉で挟み捕らえた。

 それは史人の遠慮を断ち切る一打になる。抑えていたものが雪崩れるように溢れ出した。
 真昼が抑えつけられた冷蔵庫。揺れた衝撃のせいか、ぽろりとキャラクター物の磁石が転がる。そして、背中の下敷きになったゴミの日の紙がぐしゃりと音を立てる。
 しかし、そんなことに気を配る余裕なんてものは、この二人にはない。

 手で、唇で、自然で、熱で、史人は真昼の全てに甘えようとしてくる。

 諦観のような瞳に宿る欲の焔が燃え盛るこの瞬間、真昼の心が暗い充足感に満ちる。

「真昼くん、真昼くん」
「ふ、みと、さっんっん……」
 名前を呼びながら、真昼の日に焼けた首元に食らいつき、赤黒い噛み跡を残し続ける。真昼もまた、密事の時だけの・・・・・・・名前呼びで応える。
 昼行灯のような人と近所から言われている無害な男が、肉欲を剥き出しにし、若い男の肉を食らっていた。
 普段は見える所に跡を残さないのに珍しい。

 真昼は鈍痛するその場所を感じながら、大きな赤ちゃんをあやすように史人を抱きしめる。
 ハリコシが失われた柔らかい髪の毛を撫でる。

 いや、もしかしたら、この腕にいる人は、赤ちゃんなのかもしれない。
 なんて、思いながら史人から与えられる甘え痛みを教授し続ける。
 暫くして、やっと首筋を十分噛み尽くしただろう史人がゆっくりと顔を上げた。

 互いの視線の先には互いの瞳孔。
 虹彩に鏡写しされる自分の姿を見る。
 ああ、まさに、馬鹿な熱に浮かされている姿だ。
 あの夏の日からは随分と経ってしまったのに、二人の心に着いた火種は大きくなるばかりだ。
 暑い夏の夜、縁側で花火の音を聞きながら、一線を越えたあの日から。

 ◇◇◇

 あれは、二ヶ月前。
 真昼が結婚をし、引っ越して初めての夏だった。
 
 
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