悪の献身 〜アイドルを夢見る少年は、優しい大人に囲まれて今日も頑張ります〜

木曜日午前

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第52話 悪いことばかりでもない

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水族館も終わり、夕方頃俺は久々に宿舎に戻ることになった。まだ、誰も帰っていないはずの宿舎に帰るのは寂しくもあるが、あの暮らしに戻れるほど心が正直ついていかないのだ。
 昼過ぎのイルカショー見た後くらいにセファンさんから、「目標は達成したし、お家に帰ってゆっくりしてな」と連絡が来たときは、横にいたジノ兄さんにぎゅうぅと抱きついてしまったくらいだ。
 
 手には乳首消毒用の液が握られており、ここ何週間は安定するまで丁寧に扱う必要がある。
 思えば、メンバーに見られるかもしれなくて、その時どう言い訳するのがいいのだろうか。
 目下一番の問題について考えながら、テレビ局を中継して乗り込んだタクシーの中で必死に考えたが、答えが出るより先に着いてしまった。
 
 ジノ兄さんから貰ったお金で料金を払い、タクシーから降りると、案の定何人かのファンたちがそこにいた。そのうち、三人組の女性たちがこそこそと日本語で話している。
 
「シグだ……ラッキーじゃない、来てよかった」
「日本帰らなかったのかな?」
「でも、たしかさ……」
 
 どうやら、俺の出自のことを話しているのがわかる。隠してもいないし、俺の同じ養護施設の子が卒アルとかをバラしているのは事務所も把握している。
 
 こそこそとこちらを見て話す姿は、昔小学生の時にも同じようにやられていたから、なんとも悲しい気持ちにさせられる。
 
 そんなことは嫌なので、さっさと宿舎に入ろうと少しだけ頭を下げて、逃げるように宿舎に駆け込んだ。
 
「シグレッ……」
 
 入る瞬間、誰かが横から声を掛けた気がしたが、俺は反応することはできなかった。
 そして、駆け込むように入った宿舎の部屋。一つだけおかしいとしたら、妙に空調がちゃんとしていたことだ。
 
 しかも、玄関には見たことない靴が一足脱ぎ捨てられている。その靴を直し、自分もまた部屋に上がると、台所やテーブルに出前で頼んだだろう食べ残しが残っていた。異臭はしないので、今日頼まれたもののよう。
 
「誰かいるー?」
 
 いるかもしれない誰かに声を掛けてみると、だんっと何かが転げた音がする。それは、ジウとダウンの部屋から聞こえた。
 
 ガチャッ
 
 扉が開くとともに出てきたのは、随分隈が酷く、肌が荒れに荒れたダウンだった。
 
「え、ダウン、その肌どうしたの?」
「徹夜でミックステープに入れる曲作ってた、そしたら肌荒れた」
 
 ミックステープ。アルバムやシングルとは違い、売買目的としていない曲集のことだというのは、以前ダウンから教えてもらっていた。
 
「すごいね」
「すごかねぇよ、俺は作りたいものを作ってるだけだし。次のタイトルでも選ばれず、俺の曲が表に出ないのが嫌なだけだ」
 
 不機嫌そうに言い切る姿に、流石だなあと感心してしまう。たしかに、この前のデビューアルバムは『iridescent』のイメージに合わせるために、純粋なダウンの曲は一曲しか無かった。
 
「てか、いいとこに来たから、ちょっと歌ってくんね?」
 
 ぼおっとデビューアルバムのことを思い出していると、不意にダウンからとんでもない提案をされた。
 
「え?」
「いつもパート無いけど、その高い歌声俺好きなんだよな、この男女の曲なんだけどいけるっしょ」
 
 あっけに取られている内に、引きづられるようにして宿舎内にある作業室へと連れてかれる。
 そして、色々書き込まれた楽譜を渡された。
 
「女側友人で探すかと思ったけど、まじ助かったわ」
「俺でいいのかな」
「いいっていいって、そのほうがバカ・・に邪推されないしな」 
 
 バカと言い切る彼に、俺はハハッと引き笑いをする。そして、楽譜を見て、何となく音を追って見る。たしかに、キーは高めだが俺の音域なら問題なく歌える範囲だ。
 ちょっとばかり口ずさめば、ダウンはしっかりと聞いてくれて、「もっとこうしたほうがいい」とか「それ採用だわ」とかリアクションをくれる。
 思えば、ジウとのレコーディングの時、俺はパートが短いため、さっさと終わってしまうことが多い。
『墨』の時もだが、こうして自分の歌に対して、意見をもらえることは嬉しかった。
 
 曲のタイトルは、「ナイトタイムコール」。
 一人の青年が夜、好きな子に電話する歌だ。 
 繰り返し歌うサビ部分、他はダウンのラップ。
 苦悩する男の子は、伝えたい言葉が言えず空回り、女の子はその空回りを聞かされながらも電話を取る歌だ。
 
「Baby 深夜に響く 特別な音」
「このコール以外で起きることはないわ」
「今日も待つの その言葉を」
「私が答えたい その言葉を」
 
 自分のパートがしっかりあるのも嬉しい。
 何度も何度も歌っては調整して、最終的には素敵な曲が完成した。自分でもこんなにも可愛らしい声出るんだなあと、少しばかり感心してしまう。少しばかり気恥ずかしさはあるけれど。
 
「いいね、ミックステープこれで出すわ」
 
 そう笑うダウンに、本当に役に立てたようでよかったとホッと胸を撫で下ろした。
 
「マネージャーとかに聴かせないの?」
「別にいいでしょ。このアカウント管理は俺がやれって言われたし。本来なら更新もすんなとか言われそうだけど、このアカウントも宣伝には必要だから残してんだろうし。詰めが甘いこの会社の悪いところだよ、本当に」
「詰めが甘いね……たしかにね……」
 
 ダウンの悪態を隣で聞きながら、パソコンの画面を見る。見たことないの画面の中のアプリたち。それを駆使して、素敵な曲を作り上げているのだから凄い。
 
「あ、もう、シグレ兄、終わりだからゆっくりしてなよ」
「そう? ご飯いらない?」
「いらない。ジャンクフード食いすぎて胃もたれた」
 
 なんともラッパー・ダウンらしい言葉に、思わず吹き出しそうになるのを堪え、「じゃあ、朝ごはんは優しいの作るね」と言って、作業室から出ていく。
 
 俺も、あまりお腹空いてないし、なによりも昼間飲んだ鎮痛剤が切れてきていた。
 プロテインだけを適当に作り、それを飲んだあと薬を服用する。少しばかり胃の負担をかけることになりそうだが、今は手段を選べない。
 
 風呂に入り、乳首を消毒し、あまり胸に負担がかからないようにして、布団に入る。色々あって疲れた身体は、すぐに睡魔に襲われ、逆らうことなく眠りについた。
 
 そして、その日の夜、この曲はダウンがソロラッパー時代から使っているアカウントに投下される。
 俺が疲れて眠っている最中、その曲が人から人へと話題になり、朝起きる頃にはショート動画投稿サイトにてとんでもないムーブを起こしてしまったのだ。
 
 
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