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脅し(1)
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真雪はいつものように昼過ぎに起きた。もぞもぞと布団から這い出る。
たくさん寝ているはずなのに、なぜかあくびが出た。穀潰しのくせに、と心の中でつぶやく。
真雪は寝巻きを脱いで、スウェットに着替えた。ふと、スウェットの袖に汚れがあることに気づいた。食事のときになにかこぼしたのかもしれない。真雪は箪笥からジャージを出してきた。スウェットからジャージに着替える。
着替えたあと、そうっと扉を開けて部屋の外に出た。汚れたスウェットを持って脱衣所に向かう。
階段を下りて、きょろきょろと周りを見渡す。誰もいなくて真雪はホッとする。
真雪は脱衣所に行くと、洗濯ものかごにスウェットを放り込んだ。そこで、あ、と思った。同じ寝巻きをずっと着ている。寝巻きもついでに洗濯してもらおうかと思った。
真雪は自室へ戻った。寝巻きを持ってまた脱衣所に向かおうとした。
——だが、かすかにひとの気配を感じた。真雪はおそるおそる部屋の穴をのぞく。
夏尋がいた。真雪はがっかりした。
夏尋は床のラグの上に膝を立てて座っている。なにをしているのだろうと思って見ていたら、股の間ですばやく手を上下させている。……自慰をしている。
また気まずいタイミングで見てしまったと真雪は思った。真雪は穴をのぞくのをやめた。
夏尋が部屋にいるかどうかを確認する目的では穴は役に立っているが、本来は開いているはずがないものだ。夏尋は、あまり穴を意識しないのだろうかと真雪は疑問に思った。
こちらは穴を通して弟を見ているが、弟はこちらを見るのか?
見る目的がないと真雪は考えた。真雪は基本的にずっと部屋にいるし、なにか変わったことをしているわけでもないし、夏尋にとって見る意義がない。それに、くずの兄に弟は興味なんかないだろう。華々しい大学生活を送っているのだから、こちらに興味を割くはずがない。順風満帆な人生の唯一の汚点としてなら、真雪を意識しているかもしれないが……。
真雪は腹が減ってきた。でも、夏尋と部屋の外で会う可能性を考えると、キッチンに行きづらい。
そういえば、と真雪は思い出した。こういうときのために備えて、菓子パンを部屋に少し持ってきていたのだった。パソコンデスクの隅に、菓子パンが二つある。真雪はそのうち一つを手に取った。
食パン生地にチョコレートを挟み込んだパンだった。包装を破って、かぶりつく。
「けほっ……んん」
部屋の中で食べられるのがいいが、飲み物がないのには困った。パンが気管に入りそうになって、真雪はむせた。
落ち着いてから食べるのを再開する。飲み物が欲しくなる。しかたないが、キッチンに行こうと真雪は思った。
パンを食べ終えて、真雪は静かに部屋を出た。階段を下りてキッチンへと向かう。
キッチンの冷蔵庫には、お茶が入っていた。真雪はコップに注いでそれを飲んだ。冷たいお茶がのどに染み渡ってすっきりする。
階段を下りてくる足音が聞こえてきて、真雪は体を強張らせた。こっちに来ないでほしい、来ないでほしいと頭の中で念じる。
「真雪」
真雪の祈りは実らず、夏尋は話しかけてきた。自慰をしていたところを見られていたなんて、夏尋は思っていないのだろう。真雪は夏尋の目が見られなくて、首と上半身の辺りで視線をふらふらさせた。
「真雪、さっきは大丈夫だった?」
「……?」
なんのことを言っているのだろうと真雪は思った。真雪が黙っているので、夏尋が補足してくる。
「むせてなかった?」
「——……ああ」
のどに突っかかりながら、真雪は声を出した。喋るのは久しぶりだ。たぶん、変な声だった。夏尋から指摘されないかとどきどきする。
部屋に穴が空いているから、自室でパンを食べてむせている音が夏尋にも聞こえたのだろう。真雪は、恥ずかしいような、どうでもいいような、そんな気分だった。
「俺にもお茶ちょうだい」
お茶の入った容器は真雪の手元にある。真雪は、なにも言わずにそれを夏尋に差し出した。
夏尋は自分のコップに注ぐと、お茶を一気に飲み干した。ふう、と一息ついて、コップをキッチンの天板に置いた。
二人とも黙ったままそこにいた。夏尋はこの場を去らない。真雪は、夏尋の顔を盗み見た。
夏尋はにやけるのを我慢するように、唇をもごもごさせていた。なにがおかしいというのだろう。真雪は心の奥がすっと冷えるような心地がした。
「なにかおかしいか?」
真雪は言った。心臓がばくばくした。普段ろくに喋らないくせに、喧嘩を売るようなことを言ってしまった。
夏尋はぽかんとしたあと、慌て始めた。
「ううん。なにもおかしくない。え、真雪、なにか怒ってる……?」
夏尋はびくびくし始めた。それを見て、真雪にいらいらが募る。なぜ自分相手に夏尋はびくびくしているのか? なんだか、自分がひどい人間みたいだ。他人を傷つけないために、孤独でいるというのに。
「心当たりがあるんだな?」
真雪は、思ったよりも低い声が出て自分で驚いた。脅しているような口調になった。やはり、自分にはひとを傷つける才能がある。
「あ……」
夏尋は図星を突かれたかのように、うろたえた。少し、夏尋が可哀想にも見えてくる。ろくでなしの兄貴になじられて、困窮している様があわれだ。
「真雪、あの……」
夏尋は、自分の服の胸のあたりをつかんで、苦しげにしている。なにか弁明しようとしている。真雪にはそんな価値はないのに。
「ごめん、俺……時々、真雪のことを見てた」
「?」
話の筋が見えない。
真雪は苛立って聞いた。
「僕のことを見てた? なにを? どうやって?」
夏尋はびくつきながら説明する。
「俺と真雪の部屋に、穴が開いてるだろ? そこから、真雪の部屋が見えるんだ。俺は……たまにそこから真雪をのぞいてた」
真雪には意外だった。夏尋は真雪が夏尋を見ていたように、真雪を見ていたのか。
たくさん寝ているはずなのに、なぜかあくびが出た。穀潰しのくせに、と心の中でつぶやく。
真雪は寝巻きを脱いで、スウェットに着替えた。ふと、スウェットの袖に汚れがあることに気づいた。食事のときになにかこぼしたのかもしれない。真雪は箪笥からジャージを出してきた。スウェットからジャージに着替える。
着替えたあと、そうっと扉を開けて部屋の外に出た。汚れたスウェットを持って脱衣所に向かう。
階段を下りて、きょろきょろと周りを見渡す。誰もいなくて真雪はホッとする。
真雪は脱衣所に行くと、洗濯ものかごにスウェットを放り込んだ。そこで、あ、と思った。同じ寝巻きをずっと着ている。寝巻きもついでに洗濯してもらおうかと思った。
真雪は自室へ戻った。寝巻きを持ってまた脱衣所に向かおうとした。
——だが、かすかにひとの気配を感じた。真雪はおそるおそる部屋の穴をのぞく。
夏尋がいた。真雪はがっかりした。
夏尋は床のラグの上に膝を立てて座っている。なにをしているのだろうと思って見ていたら、股の間ですばやく手を上下させている。……自慰をしている。
また気まずいタイミングで見てしまったと真雪は思った。真雪は穴をのぞくのをやめた。
夏尋が部屋にいるかどうかを確認する目的では穴は役に立っているが、本来は開いているはずがないものだ。夏尋は、あまり穴を意識しないのだろうかと真雪は疑問に思った。
こちらは穴を通して弟を見ているが、弟はこちらを見るのか?
見る目的がないと真雪は考えた。真雪は基本的にずっと部屋にいるし、なにか変わったことをしているわけでもないし、夏尋にとって見る意義がない。それに、くずの兄に弟は興味なんかないだろう。華々しい大学生活を送っているのだから、こちらに興味を割くはずがない。順風満帆な人生の唯一の汚点としてなら、真雪を意識しているかもしれないが……。
真雪は腹が減ってきた。でも、夏尋と部屋の外で会う可能性を考えると、キッチンに行きづらい。
そういえば、と真雪は思い出した。こういうときのために備えて、菓子パンを部屋に少し持ってきていたのだった。パソコンデスクの隅に、菓子パンが二つある。真雪はそのうち一つを手に取った。
食パン生地にチョコレートを挟み込んだパンだった。包装を破って、かぶりつく。
「けほっ……んん」
部屋の中で食べられるのがいいが、飲み物がないのには困った。パンが気管に入りそうになって、真雪はむせた。
落ち着いてから食べるのを再開する。飲み物が欲しくなる。しかたないが、キッチンに行こうと真雪は思った。
パンを食べ終えて、真雪は静かに部屋を出た。階段を下りてキッチンへと向かう。
キッチンの冷蔵庫には、お茶が入っていた。真雪はコップに注いでそれを飲んだ。冷たいお茶がのどに染み渡ってすっきりする。
階段を下りてくる足音が聞こえてきて、真雪は体を強張らせた。こっちに来ないでほしい、来ないでほしいと頭の中で念じる。
「真雪」
真雪の祈りは実らず、夏尋は話しかけてきた。自慰をしていたところを見られていたなんて、夏尋は思っていないのだろう。真雪は夏尋の目が見られなくて、首と上半身の辺りで視線をふらふらさせた。
「真雪、さっきは大丈夫だった?」
「……?」
なんのことを言っているのだろうと真雪は思った。真雪が黙っているので、夏尋が補足してくる。
「むせてなかった?」
「——……ああ」
のどに突っかかりながら、真雪は声を出した。喋るのは久しぶりだ。たぶん、変な声だった。夏尋から指摘されないかとどきどきする。
部屋に穴が空いているから、自室でパンを食べてむせている音が夏尋にも聞こえたのだろう。真雪は、恥ずかしいような、どうでもいいような、そんな気分だった。
「俺にもお茶ちょうだい」
お茶の入った容器は真雪の手元にある。真雪は、なにも言わずにそれを夏尋に差し出した。
夏尋は自分のコップに注ぐと、お茶を一気に飲み干した。ふう、と一息ついて、コップをキッチンの天板に置いた。
二人とも黙ったままそこにいた。夏尋はこの場を去らない。真雪は、夏尋の顔を盗み見た。
夏尋はにやけるのを我慢するように、唇をもごもごさせていた。なにがおかしいというのだろう。真雪は心の奥がすっと冷えるような心地がした。
「なにかおかしいか?」
真雪は言った。心臓がばくばくした。普段ろくに喋らないくせに、喧嘩を売るようなことを言ってしまった。
夏尋はぽかんとしたあと、慌て始めた。
「ううん。なにもおかしくない。え、真雪、なにか怒ってる……?」
夏尋はびくびくし始めた。それを見て、真雪にいらいらが募る。なぜ自分相手に夏尋はびくびくしているのか? なんだか、自分がひどい人間みたいだ。他人を傷つけないために、孤独でいるというのに。
「心当たりがあるんだな?」
真雪は、思ったよりも低い声が出て自分で驚いた。脅しているような口調になった。やはり、自分にはひとを傷つける才能がある。
「あ……」
夏尋は図星を突かれたかのように、うろたえた。少し、夏尋が可哀想にも見えてくる。ろくでなしの兄貴になじられて、困窮している様があわれだ。
「真雪、あの……」
夏尋は、自分の服の胸のあたりをつかんで、苦しげにしている。なにか弁明しようとしている。真雪にはそんな価値はないのに。
「ごめん、俺……時々、真雪のことを見てた」
「?」
話の筋が見えない。
真雪は苛立って聞いた。
「僕のことを見てた? なにを? どうやって?」
夏尋はびくつきながら説明する。
「俺と真雪の部屋に、穴が開いてるだろ? そこから、真雪の部屋が見えるんだ。俺は……たまにそこから真雪をのぞいてた」
真雪には意外だった。夏尋は真雪が夏尋を見ていたように、真雪を見ていたのか。
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