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おいしい

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「おいしい」

「好きなだけどうぞ」

 窓から差し込む光が当たって、彼の瞳がダイヤモンドダストみたいに煌めく。

 にわかに信じられなかった。

 今こうしている現実が分からなかった。昨日まで確かに苛まれていた凄惨な快楽と苦痛と痛みと絶望と不安とまるで無縁の世界にいることが。そんな汚い自分を見ても、それでも笑顔を向けてくれるミチルが。喉を通った温かさが、指にまで広がる。喉と鼻の奥がきゅう、と締め付けられた。目がすごく痛くなったと思ったら、視界がぶれる。水の中にいるみたいにゆらゆら揺れて、すぐ鮮明になる。

 ミチルが顔に手を伸ばしてくるのが見えた。

「泣くほど美味しい?」

「……しょっ、ぱい」

「あは! 鼻水だよそれ! 絶対鼻水!」

 ポップコーンみたいに笑ったミチルは、その笑顔のまま春人を抱きしめてくれた。春人はミチルの肩口に顔をつけて、塩辛さが通り過ぎるのをじっと待つ。全然通り過ぎない。たまにしゃっくりみたいに体が跳ねた。

「あり、が、と……」

 嗚咽の合間に、春人は言った。

「た、すけて、くれ、て……ありが、……っ……」

 上手く言葉にならない。喋れば喋るほど干からびそうになるくらい目から涙が零れて、ミチルの肩口を濡らしてしまう。ミチルは背中を優しくさすってくれた。

「もう海もいないし、撮られた写真も全部消したし、野乃花にも話つけたから……小夜が教えてくれたんだよ。野乃花が春人になにか吹き込んだ気がするって、仕返ししてやりたくて見てたんだって」

 思いがけない人の名前を聞いて、春人は顔を上げた。小夜が……?

「あとでお礼言わないとね」

 ミチルが苦笑しながら弾んだ声で言う。春人は頷いた。頭を撫でてくれる。

「心配しないでね。今まで通り学校も行けるし、ちゃんと卒業もできる。まあ……授業とテストを落とさなかったらの話だけど……?」

 彼が少しいたずらに笑う。

 春人もつられて少し笑った。




 
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