契約結婚のはずなのに、殿下の甘い誘惑に勝てません!

綾瀬ありる

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1巻

1-2

 小鳥のさえずりに目を覚ませば、そこは見覚えのない部屋だった。頭が割れるように痛くて、うめき声をあげる。
 枕元の水差しに気がついて、震える手で水を飲むと、やっとひと心地つく。改めて部屋の中を見回しているところに、コンコンとノックの音、続いて若い女性の声が聞こえた。

「お目覚めでしょうか……」

 びくり、とアンジェリカの肩が跳ねる。慌てて着衣を確認すると、いつのまにかきちんと寝間着を着せられていた。特に乱れた様子はなく、おかしなところはないように思える。
 そうこうしているうちに、もう一度部屋の扉をノックする音がし、続いてがちゃりとノブを下げる音がした。返答がないため、様子を見ようと先程の声の主が入室したのだろう。

「あ……」

 お仕着せを身につけた侍女とおぼしきその女性と目が合う。アンジェリカは一瞬身体をこわばらせたが、彼女はやわらかな微笑みを浮かべた。

「起きていらしたのですね。お嬢さま、お身体の方はもう……?」
「あ、え、ええ……あの、わたくし……?」
「昨日は驚きましたわ。殿下に呼ばれて参りましたら……なんでも、舞踏会で具合が悪くなられたとか? 部屋を用意するようにとのおおせで」

 朗らかな声が、事情を説明してくれる。どうやら、殿下の部屋でいただいた飲み物が良くなかったようだ、とアンジェリカは遅ればせながら気がついた。おそらく、酒精しゅせいの強い飲み物であったのだろう。酩酊めいていしたところを介抱されたらしい。

「あ、ありがとうございます」
「いえ、お礼でしたら殿下に……と申し上げたいところなのですが、殿下は既に公務に出られておいでで」

 シャッ、とカーテンを開ける音がして、部屋の中が明るくなる。

「起きたら、ご自宅へお送りするようにとのことでした。ええ、もちろんきちんとご家族には説明させていただきます。ご安心くださいね」

 そう言うと、侍女が胸をどんと叩く仕草をする。それがおかしくて、アンジェリカは思わず笑ってしまった。


 ――あの後は、大変だった。
 アンジェリカは、あの日のことを思い出してくすりと笑う。夜のうちに連絡が行っていたとはいえ、父は青くなったり赤くなったりしていたし、兄は呆れた顔をしていたものだ。
 だが、何事もなかったとついてきてくれた侍女が説明をしてくれたし、エグバートもメッセージを持たせてくれていた。それで、ようやく納得してもらえたのだ。
 あれを二人の馴れ初めとするのならば、確かにエグバートの言う通り、伝統にのっとったことになる。

(それにしても、殿下に求婚されるなんて、これから大変ね……)

 寝台から窓の外を見上げて、アンジェリカはため息を漏らす。

「私、うまくやれるのかしら……」

 父には、エグバートとデイヴィットが話をしてくれることになっている。それから巻き起こるだろう騒ぎを予想して、アンジェリカはもう一度大きなため息をついた。


 エグバートと契約を交わして二か月ほど過ぎた頃、ロイシュタ王国は社交シーズンを迎えた。その間、何度か兄への差し入れを口実に王宮に行ったり、反対にエグバートがヴァーノン家をお忍び訪問したりもしたが、公式の場で彼と会うのはあれ以来初めてとなる。 
 社交シーズン最初の舞踏会は、王宮で開催されるのが通例だ。デビューを迎えた貴族の子女のお披露目ひろめのためである。
 広いホールにはシャンデリアがきらめき、既に集まった人々のさざめく声が、奏でられる調べに乗ってゆらゆらとたゆたっている。
 国王への拝謁はいえつを済ませたデビュタントたちは、ホールで初めての舞踏会に頬を紅潮させてあたりを見回していた。
 その会場に、エグバートのエスコートを受けて、アンジェリカが姿を現す。
 すると、途端にざわめきが大きくなった。
 それもそうだろう。氷の王子と呼ばれる王太子が、とろけるような笑みを浮かべているのも初めてなら、女性をエスコートしている姿を見せるのも初めてなのだ。緊張に震える指先をぎゅっと握り締めて、アンジェリカはどうにか正面を向いた。
 ざわめきは二人の周囲を取り囲むばかりで、二人に直接声をかける者はいない。それだけがアンジェリカにとっては救いだ。王太子の婚約者として、みっともない姿をさらすことは避けたい。
 このまま時が過ぎてほしい。毅然きぜんとした姿を保とうと背筋を伸ばすアンジェリカを見て、エグバートがかすかに笑った。

「かわいいアンジェリカ、そんなに固くならないで。ほら、もうじき音楽が始まる。一曲どうかな?」
「ええ、喜んで」

 顔が近い。頬を染めたアンジェリカと、それを愛おしそうに見つめるエグバートの姿に、周囲からはため息が漏れた。それは、羨望か嫉妬か――はたまた別の感情か。
 二人がホールの中央へゆっくりと進む。それを合図にしたかのように、デビュタントたちもそれぞれの相手と顔を見合わせ、進み出る。
 やがて、姿を現した国王の手が上がると、楽団は最初の一曲を奏で始めた。

「かわいいアンジェリカ、きみはダンスの名手だね」
「殿下ほどでは」

 初めて二人で踊るというのに、ぴったりと息が合う。軽やかにステップを踏み、くるりとターンを決めた。エグバートの安定したリードのおかげもあって、アンジェリカはダンスに没頭する。こんなに軽やかに踊れたのは初めてだ。自然と笑みがこぼれて、緊張がうすれてゆく。
 やがて曲が終わりを迎える。一曲で終えるのは惜しいが、いつまでも踊っているわけにもいかない。視線をあげ、最後の礼をとろうとすると、微笑むエグバートと目が合った。それは、今までの意地悪な笑みとも、とろけるような笑みとも違う――アンジェリカが見たことのない、自然な微笑みだ。
 アンジェリカの胸が、どくんと音を立てる。握られた手が、そこだけ熱い。

「殿下……」
「名残惜しいけど、そろそろ行こうか」

 一瞬でその微笑みをひっこめて、作り物めいた笑顔を貼り付けたエグバートがアンジェリカをうながした。少しだけ残念に思ったものの、うながされるままにダンスの輪から抜け出す。

「さて、本日のメインイベントといこう、かわいいアンジェリカ」

 耳もとでささやかれて、アンジェリカはごくりとつばを呑み込んだ。今日は舞踏会を楽しむために来たわけではないことを思い出したのだ。大丈夫、と言うようにエグバートがアンジェリカの腰を引き寄せる。

「それにしても、何なんですか」
「何が?」
「その、かわいい――ってやつですよ。やりすぎじゃないですか?」
「いやだな、本当のことを言っているだけだよ」

 小声で交わすやりとりの最後に、唇が頬をかすめる。ひゃ、と声をあげそうになって、ぎりぎりのところで踏みとどまった。頬が熱くてたまらない。
 そんなこと、本当は思ってもいないくせによく言うものだ。自分の顔の造りくらい、自分が一番知っている。可もなく不可もない、十人並みというやつだ。アンジェリカはため息をついてから、エグバートをにらみつけた。

「そんな顔しても、かわいいだけだよアンジェリカ」

 くすくす笑うエグバートに連れられて、アンジェリカはとうとうその日一番の大舞台に立った。緩い螺旋らせんを描く階段を数歩、導かれるようにしてあがってゆく。到着すると、一礼して、エグバートが言葉を発した。

「父上」
「おお、そちらが……? ああ、ヴァーノン伯爵の……」
「ご存知でしたか。ええ、ヴァーノン伯爵の息女で、アンジェリカ嬢です」

 紹介されて、アンジェリカは礼をとった。

「ただいまご紹介いただきました、アンジェリカでございます」
「よい、顔をあげよ」

 国王の許しを得て、ゆるやかに顔を上げる。にこやかに微笑む壮年の王は、なるほどエグバートに面差しが似ていた。いや、逆か――エグバートが王に似ているのだ。
 すると、何年後かにはエグバートもこういう顔になるのだろうか。ちらりと浮かんだ考えに、アンジェリカは内心で苦笑した。
 その頃、自分たちはどうなっているのだろう。この顔になったエグバートを、近くで見ることがあるのだろうか。
 浮かんだ考えを、慌てて追い出す。少なくともそれは今考えることではなかった。

「アンジェリカ嬢とは、去年の仮面舞踏会で出会いまして」
「ほう、そんな話は聞いていなかったがな」

 国王とエグバートの会話は、どうやら二人の出会いについてのもののようだ。隣に立つ王妃は、黙ってその様子を眺めている。
 エグバートはあまり、王妃には似ていないのだな、とアンジェリカは思った。

「ええ、残念ながらその場では振られてしまいまして。その後も、こっそりと彼女に求愛し続けていたのです」
「でっ……殿下……!」

 作り話にも程がある。慌てたアンジェリカがエグバートの言葉を止めようとするが、国王はそれを聞いてからからと笑った。

「そうかそうか、なるほどな」
「ようやく受け入れてもらえて、私は天にも昇る心地でした」
「はは、それほどにか」
「ええ、私は今、この方に夢中なんです」
「まぁ……お熱いこと」

 それまで黙っていた王妃が、ころころと笑う。その表情を見て、アンジェリカは先程の感想を改めた。なるほど親子だ。この表情、エグバートによく似ている。――いや、ともう一度考え直す。王と同じだ。エグバートが王妃に似ているのだ。

「――エグバート、ヴァーノン伯爵には?」
「無論、お話ししてあります」
「うむ……皆の者!」

 パン、と大きく手を打ち鳴らす音が辺りに響く。徐々にざわめきがしずまり、人々の視線が集中した。その光景に一歩引きそうになったアンジェリカを、エグバートの腕が支える。
 腰にまわされた腕の温かさに、ほっと息が漏れた。ここで無様な姿をさらすわけにはいかない。よろけそうな足に力を入れて、エグバートの顔を見る。

「この場を借りて、皆に喜ばしい発表がある」

 国王の力強い声が、辺りを揺らした。エグバートに寄り添って、アンジェリカは一歩前に踏み出す。今度は集中する視線にひるむことなく、しっかりと前を向いた。
 隣に立つエグバートがそれを見て頷くと、ゆっくりと口を開いた。

「聞いてくれ。私、エグバートはヴァーノン伯爵のご息女アンジェリカと婚約をした。皆、祝ってほしい」

 わっ、と歓声があがる。その場にいる全員にグラスが配られると、それぞれ思い思いに掲げ音を立てて合わせる。アンジェリカも、エグバートとグラスを合わせ微笑み合った。
 その様子は、どこからどう見ても相愛の恋人同士だ。少なくとも、エグバートの演技は完璧だった。見破られるとしたらきっと自分の方だろう。
 おかしくなって、ついくすくすと笑いだす。そんなアンジェリカを見て目を細めたエグバートが、耳元に口を寄せた。

「これでもう逃げられないよ、かわいいアンジェリカ」
「あら、逃がしてくださる気があったんですか?」

 アンジェリカの言葉に、一瞬目を見開いて、エグバートが笑う。とても自然なその笑顔は、噂の「氷の王子」らしさは微塵みじんもなかった。



   第二話 初夜とはどんなものかしら


 時の経つのは早いもので、あの婚約披露からたった三か月でこの日――結婚式を迎えてしまった。通常であれば、婚約期間を一年は設けるところだが、これまで女性に見向きもしなかったエグバートが結婚すると言い出したのである。気が変わらないうちに、と国王直々の命令で超スピードで結婚式の準備が進んだのだ。
 王宮の一角に設けられた花嫁の控え室で、アンジェリカは花嫁衣装に身を包んでいる。王族にのみ使用することを認められる意匠を盛り込んだドレスは、ため息が出るほど――重い。この上に、バルコニーでのお披露目ひろめにはマントを羽織はおるのだと言うが、それがまた重い。手に持つのだと示された錫杖しゃくじょうも重たいし、何より頭に着けるティアラも重い。
 素晴らしい衣装には違いないのだが、こんなに重くては移動するのも一苦労だ。これを着て、大聖堂の長い絨毯じゅうたんの上を歩くのかと思うと、それだけでため息が出る。
 ふう、と息を吐いたアンジェリカを見て、侍女たちがくすくすと笑った。

「アンジェリカさま、今からそのように緊張なさっては……今日は先が長いのですから」

 そう声をかけるのは、あの日アンジェリカを介抱してくれた侍女だ。名をブリジットという。落ち着いて見えるが、年齢はアンジェリカと変わらないというから驚いた。
 そのブリジットに向かって、アンジェリカは曖昧に笑う。緊張からではなく、ドレスが重いのが憂鬱ゆううつで、と言ったら彼女はどんな顔をするだろう。羨望のまなざしでアンジェリカを――いや、ドレスを眺めている彼女の夢を壊すのはしのびない。
 まして、エグバートとアンジェリカの間に恋とか愛とか、そういったものが欠片かけらもないことを知ったら。
 ――いまや、エグバートとアンジェリカの恋物語は、王都中の乙女たちの憧れなのだとブリジットは興奮気味に語っていた。あの伝統の仮面舞踏会で出会い、恋に落ちた二人。伯爵令嬢であるアンジェリカは、身分を気にして身を引こうとする。しかし、諦めきれないエグバートは、毎夜部屋を訪ねては愛をささやく……
 それを聞かされて、笑わなかった努力だけは褒めてほしいものだ。

「……そうね、今日は一日よろしくね」
「おまかせください!」

 ブリジットがどんと胸を叩いて請け合った。そのかわいらしい姿に、口元がほころぶ。
 この場にいるブリジットより年かさの侍女たちも、その姿をにこやかに見守っている。いい職場だな、と素直に思う。
 そこへ、部屋の扉をノックする音が響いた。はい、と答えたのは扉近くにいた侍女だ。名前は確か、ベリンダと言ったはずである。
 そのベリンダが、扉の向こうの声と二言三言交わす。振り向くと、扉を開けて兄が入ってきた。次兄のデイヴィットである。

「へえ、馬子にも衣装とはよく言ったもんだ」
「喧嘩を売りに来たの? お兄さま」

 唇をとがらせたアンジェリカの頭を、デイヴィットの大きな手が撫でた。幼少期には何度もされた仕草だが、大きくなってからはない。意外にも優しい手つきでそれを行うと、デイヴィットは目線で侍女に退出をうながした。
 一礼して、侍女たちが部屋を出る。おそらく侍女たちは、嫁ぐ前の最後の兄妹きょうだいの時間などと考えていると思うが、デイヴィットとはこれからも顔を合わせる機会がいくらでもある。なんといっても、アンジェリカの夫となるエグバートの近衛このえ騎士なのだから。

「……お兄さま?」
「アンジェリカ。俺がこんなことを言えた義理じゃないが……殿下のこと、よろしく頼む」

 その言葉に、アンジェリカは目を丸くした。普通、兄がそれを言う相手は自分ではなくエグバートではなかろうか。そう思いながらも、兄の青い瞳が――アンジェリカと同じ色をしたそれが、妙に真剣だったから、戸惑いながらも頷く。

「頼んだぞ。何があっても、殿下を信じてお傍にいてさしあげてくれ」
「――はい」

 その返答を聞いて、デイヴィットがほっとした表情になる。もう一度、アンジェリカの頭をぽんぽんと叩く。

「こうするのも、最後かな」
「そう、ですね」

 しばし、部屋の中に沈黙が落ちた。少しだけ、しんみりとした空気が流れる。それを断ち切るかのように、デイヴィットが笑顔を作った。

「そうだ、これを一番に言わなきゃいけなかったな――おめでとう、アンジェリカ。幸せになるんだぞ」
「ありがとう、お兄さま……」

 既にやしきを出る時に、父母と、参列するために王都へ来てくれた長兄夫婦と同じやり取りを交わしてきた。が、それでもアンジェリカの目にじわりと涙がにじむ。

「ば、ばか……化粧が崩れるぞ」
「どうせ、塗っても塗らなくても変わりません」

 憎まれ口をたたくアンジェリカを、困ったように見つめて兄は微笑んだ。

「ばーか。今日のおまえは――その、綺麗だよ」

 ぽん、と大きなてのひらがもう一度アンジェリカの頭に置かれる。必死に涙をこらえて、アンジェリカは笑ってみせた。


 大聖堂に、おごそかな鐘の音が響く。白を基調とし、所々に金の装飾をらした大聖堂は、王宮の敷地内にあって唯一市民の立ち入りが許された場所である。
 しかし、王族の――しかも、王太子の結婚式が行われる今日、さすがに市民の立ち入りは制限され、中を埋めるのは王太子の結婚に立ち会う栄誉をあたえられた一部の貴族たちだけだ。
 両側に居並ぶ貴族たちの間を、アンジェリカは父に腕を取られてゆっくりと歩く。中央では、夫となるエグバートがじっと待っている。悠然と立つその姿は、花嫁の対となるような意匠をらした白い礼服。濃紺の礼服姿もきりりとしていたが、こちらの衣装もまたエグバートの美しさを引き立て、一点の曇りもない貴公子ぶりだ。
 この方の隣に立つのか、と今更ながらアンジェリカは身震いした。結婚式の主役は花嫁だと言うが、今回に限っては新郎が主役だ。

「さあ、アンジェリカ」

 父にうながされ、エグバートが差し出す手に、自分の手を重ねる。一度それをぎゅっと握ったエグバートが、微笑んでその手を腕へと誘導する。

「殿下――よろしくお願いいたします」
「もちろんです」

 花嫁の父と新郎とが、短い挨拶あいさつを交わした。ぽん、と背中を叩かれて一歩前へ踏み出す。じわり、と胸が熱くなり、アンジェリカは振り返りたくなる衝動を必死にこらえた。
 そのまま、ゆっくりと一歩ずつ、神官長の待つ祭壇の前へ歩いていく。

「エグバート・ロイシュタ。誓いの言葉を」
「私、エグバート・ロイシュタは、生涯妻アンジェリカを愛し、いかなる苦難からも守り、また、全ての喜びを分かち合うことを誓います」

 神官長にうながされ、エグバートが誓いの言葉を述べる。

「アンジェリカ・ヴァーノン。誓いの言葉を」
「私、アンジェリカ・ヴァーノンは、生涯夫エグバートを愛し、いかなる苦難からもたすけ、くじけた時は支え――また、全ての喜びを共にすることを誓います」

 アンジェリカもまた、震えそうになる声をどうにか押しとどめて誓いの言葉を述べた。そのまま頭を下げ、次の神官長の言葉を待つ。静まり返った大聖堂に、神官長の声が響いた。

「二人を、神の聖名のもと、夫婦と認めます。それでは両人、誓いの口づけを」

 その言葉を合図に、互いに向き合う。翠玉すいぎょくの瞳が、アンジェリカを優しく見つめた。どうしたことか、それだけで心臓が破裂しそうなほどに痛い。
 頬に手を添えられて、ゆっくりと目を閉じる。唇にそっと触れる温かさを感じて、不意にアンジェリカは気が付いた。
 ――これが、自分たちが初めて交わす口づけだ。
 エグバートは分からないが、アンジェリカにとってはまさに初めての口づけである。かあ、と頬に血が上って、その顔を見られたくなくてうつむこうとする。
 その初々しさに、周囲からは微笑ましい視線が送られた。
 こうして、二人は無事に夫婦となったのである。


 場所を移して行われた披露宴は、盛大なものだった。バルコニーでのお披露目ひろめの後、重いドレスを引きずって移動した先では、今度は大勢の賓客ひんきゃくたちがかわるがわるあいさつに訪れる。それに笑顔で応えながら、アンジェリカは内心でため息をついた。

(ドレスが、重い……早く終わらないかしら……)

 新郎新婦は、披露宴を中座するのがこの国の習わしである。それに従って、エグバートはアンジェリカを抱え上げると微笑んで退室する旨を告げた。
 その姿は、おおむね好意的な視線で見送られる。

「重いでしょう、エグバートさま……あ、歩けますから……」

 かなりの量を飲んでいたように見えたのに、エグバートの足取りは全く危なげない。しかし、婚礼衣装のドレスがかなり重いことを身をもって知っているアンジェリカは、エグバートにそう声をかけた。

「婚礼の日は、新郎は寝室まで花嫁を運ぶものでしょう?」
「それは……でも、王宮は広いですから……」

 披露宴を行った広間から、エグバートの――これからは、アンジェリカも共に生活することになる――部屋は遠い。三か月の間、王宮に通って地理を頭に入れたアンジェリカは、途中で降ろしてもらおうともがいた。

「ほら、暴れない」

 細身の身体のどこにこんな力があると言うのか、もがくアンジェリカを器用に押さえつけて、エグバートはどんどん進む。その表情は、楽し気ですらあった。
 せめて自分にできることは落ちないようにしっかり掴まることくらいだ。首に手を回し、ぎゅっとしがみつくと、彼の身体が見た目よりもしっかりしているのがダイレクトに伝わってくる。
 男兄弟しかいない家庭で育ったとはいえ、こんな風に密着する機会などないに等しい。初めて感じる男の身体の硬さ、その力強さに眩暈めまいがしそうだ。

「さて、着いたよ」

 部屋の前で控えていた騎士が、扉を開ける。今日の護衛が兄でなかったことにアンジェリカは感謝した。こんな姿を見られるなんて、想像しただけでも恥ずかしすぎる。
 室内に入り、煌々こうこうあかりがついた部屋をエグバートの足がつかつかと横切っていく。二つ目の扉が、侍女の手で開かれた。おめでとうございます、の声にエグバートが何か答えている。しかし、既に恥ずかしさで飽和状態のアンジェリカの耳には何と言ったのかよく聞き取れなかった。
 その扉が静かに閉められて、途端に部屋の中が薄暗く感じる。寝室だ、と気が付いた時には、アンジェリカはそっと寝台に降ろされていた。その手つきが存外優しくて、胸がざわつく。まるで、大切なものとして扱われているようでくすぐったい。
 ただ、都合がいいから選ばれただけだと頭では分かっているのに――。アンジェリカの胸が、ちくんと痛みを覚えた。
 こんな風にされたら、勘違いしてしまいそうになる。
 ――そんなことを考えていたせいだろうか、アンジェリカは自分の置かれた状況に気付いていなかった。

湯浴ゆあみをする? ……と聞きたいところだけど」

 エグバートの声がやけに近くで聞こえる。え、と思った時には既に端整な顔が間近にあった。アンジェリカに覆いかぶさった彼が、ちゅ、と音を立てて唇を合わせる。
 後ろ頭を探っていた指が、器用に動いて結い上げた赤い髪を解く。ぱらりと落ちたそれを、手櫛てぐしいた。
 そのまま抱え込まれて、口づけがだんだんと長くなっていく。息苦しくて開けた口の隙間から、ぬるりと何かが侵入した。

「え、あ……⁉」

 アンジェリカの困惑をよそに、エグバートの舌が口腔こうこう内を蹂躙じゅうりんする。唾液の混じり合うぐちゅぐちゅという音が聞こえて、アンジェリカは真っ赤になった。
 歯列をぐるりと舐められたかと思うと、舌の付け根をくすぐられる。唇をふさがれたアンジェリカは「ん、ん」と言葉にならない声を発した。どちらのものとも分からない唾液が喉を滑り落ち、飲み切れなかった分をじゅっと吸い取られる。その行為だけで、頭がくらくらしてきた。じわじわと、身体の奥が熱くなる。
 アンジェリカとて、夫婦がねやで何をするかくらいは母から教えられていた。だから、この行為の先にあるのが子作りのためのものだと知識では知っている。
 だが、それが自分とエグバートとで行われることは想像していなかった。仲睦まじい夫婦のふりをする以上、初夜も執り行ったふりをするだけだと思い込んでいたのだ。


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