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1巻
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エーレンフリートも、どうにも仕事が手につかない様子だ。そもそも休暇中であるので、そこは問題ではないのだが。一応、といった態で手にしていた書類をもとの山に戻すと、彼はバルトルトの正面に陣取った。
「昨夜はルイーゼさまは先におやすみになってしまわれたんでしょう? なんだってそんな、一睡もしてません、みたいな顔をしてらっしゃるんです?」
エーレンフリートが腰を下ろしたタイミングで、バルトルトは気になっていたことを聞いてみた。まさか、いくらなんでも、一晩中見張っていたとは言わないだろう。
その問いに、エーレンフリートが再び渋面になった。
「……その……一晩中、顔を見て――いや、見張っていた。寝たと見せかけて抜け出すかもしれないからな」
「おおっと、まさかのところを突いてくるとは、さすが陛下ですね……」
思わずソファからずり落ちそうになって、バルトルトが姿勢を正す。だが、エーレンフリートはそんな彼の反応には特段興味を示さず、何か他のことに気を取られているようだった。
「あと……その、あれはなんなんだ……」
「あれ?」
「その……ルイーゼは、なんというか……柔らかすぎないか……?」
吹き出さなかっただけでも褒めてほしい、とバルトルトは本気でそう思った。だから、変な表情になってしまったことには目をつぶってほしい。
柔らかすぎる、ときたか――とバルトルトは必死になって笑いをこらえているのだが、エーレンフリートは真剣だ。真剣な表情で、自分の手を見つめている。
それもそうだよな、とバルトルトはなんとか笑いを収めて同じように真面目な表情を取り繕った。なんといってもエーレンフリートは童貞なのだ。
当たり前に、女性の身体に触れる機会などなかったはずである。そこで、バルトルトは閨事の先輩らしくエーレンフリートに教えてやることにした。
まあ、なんでも自分より優秀にソツなくこなすエーレンフリートに勝てる部分があったことで、ちょっぴり優越感に浸ってもいたのだが。
「いいですか、陛下。女性の身体というものは、当然男性のものとは全く違います」
「それくらいは、見ればわかる」
むっすりとした顔で答えたエーレンフリートの前に手のひらを突き出して、バルトルトは「まあまあ」と宥めた。
「陛下は鍛錬なさっておいでですから、余計に驚かれたかもしれませんが……女性というのは、柔らかいのが普通なんです」
「あんなにか⁉」
「そうです」
言いながら、バルトルトは自分が初めて女体に触れた時のことを思い出した。あれはいくつの時だったか。ふにゅ、と指が沈む感触に、いたく感動したことだけは覚えている。そういえば、ここのところ、皇帝の結婚準備に駆り出されていたおかげで随分とご無沙汰だ。
そこまで考えてから、んん、とバルトルトは首を傾げた。
「……あの、陛下? つかぬことをお伺いしますが……いったいどこを……その、柔らかいと……?」
問いかけられたエーレンフリートの顔が、何を思い出したのか、真っ赤になった。あ、これは、とバルトルトは理解する。
だが、そんなバルトルトの(ちょっと下世話な)想像とは裏腹に、童貞の皇帝はピュアであった。
「全体的に、だ」
「全体的」
全く同じ言葉をオウムのように繰り返して、バルトルトはまじまじと目の前の二十八歳を見つめた。
これは、もしかしなくても自分の手に負えない問題なのかもしれない。長きにわたり皇帝の側近を務め、あらゆる無理難題に対応してきたつもりの彼だが、少し自信を喪失しつつあった。
だが、そんなバルトルトの心情などまったく気付かぬ様子で、エーレンフリートは続ける。
「その、寝台に運んでやったのだが……その時も妙にくにゃくにゃしていた。それで、触れていると、どきどきとして不安なのに妙な安心感もある。あれはなんだ……? こう……腕の中にあると……安らぎと同時にもっと触りたいというか……身体が妙に熱くもなるし……」
――陛下、それは多分あれです、健全な男なら誰でも持っている性欲というやつの現れです。
最後にはぶつぶつと独り言のように呟きだしたエーレンフリートにそう突っ込みたかったが、バルトルトは黙っていることを選んだ。
それにしても羨ましいような悲しいような、そんな話である。実際に見たルイーゼは、肖像画の二割増し美人であったし、スタイルもいい。あの身体を一晩ただ文字通りの意味で抱いていただけで他に何もできず、顔を見ているだけで済ませたとなれば、そりゃあ寝不足の酷い顔にもなる。心の底から深く同情したいと思う。
そこはさておいて、心配していたよりもずっと正常な反応を示しているようだから、もうあとは自分で頑張ってほしい。大丈夫、みんな通った道なのだから、エーレンフリートだって自力でやり遂げられるはず。優秀な皇帝陛下に万歳。そんなことより正直自分だってそろそろ本命としっぽりやりたい。
遠い目をしたバルトルトは、自身の結婚について真剣に考え始めていた。
◇
その話題のルイーゼが目を覚ましたのは、男二人が執務室で実りのない会話をしているのと同じ頃――昼を少し過ぎた頃のことであった。寝すぎたせいか、少し頭が痛い。
もぞもぞと起き上がると、ベッドサイドには水差しとグラスが置かれていて、はっとして目をやったテーブルセットの上は綺麗に片付けられている。
当然のことながら、振り返っても寝台の中にはエーレンフリートの姿はなく、少ししわの寄ったシーツに触れるとすでに冷たくなっていた。
随分と早くに目を覚まして出て行ったのだと思われる。情けなさに、思わずため息がもれた。
「ああ……やってしまったわ……」
さすがのルイーゼも、昨夜がいわゆる初夜だということは理解していた。というか、エーレンフリートがやってきた時にきちんと覚悟だって決めていたはずだ。
というのに、まさかの寝落ち。その挙句、寝坊までしてしまった。
――ど、どうしよう……さすがに陛下も呆れたわよね……
相互理解どころの話ではなかった。そもそも会話さえ成立していたかどうかすら怪しい。エーレンフリートはどうやら寡黙な性質らしく、ルイーゼが何を話しても返答は短かった。いや、女嫌いというからには、あれが女性全般に対する通常の態度なのだろうか。そもそも、緊張していたルイーゼは何を話したのかよく覚えていないので、返答に困っていた可能性もある。
そして――と再びそこに思考が戻って、ルイーゼは項垂れた。
寝落ちである。しかも、寝台に自分で入った記憶がないところをみると、エーレンフリートの手を煩わせてしまったことは明白だ。ルイーゼの気分は地の底まで沈んだ。
言い訳をさせてもらえるのなら、ルイーゼはかなり疲れていた。朝早くから城に移動して風呂に入れられ、花嫁衣裳を着せられ、それが終わったら大教会へ移動。
ほとんど夢見心地だった挙式では、エーレンフリートの行動に振り回され、再び城に戻れば戴冠式にお披露目、そしてとどめの宴席だ。
だから、仕方がなかったのだ――そう、思ってほしい。
「ああ、神さま……どうか、陛下がお怒りでありませんように……」
女性不信の女嫌い、だけどちょっぴり優しいエーレンフリートを怒らせていないかどうか。それが今のルイーゼの心配事だった。
寝坊したことを反省し、寝室から恐る恐る顔を出したルイーゼの着替えを手伝ってくれたのは、二人の女官である。ちなみに、女官というのは皇城に努める女性の総称で、ここにいる二人の役割は通常の侍女に相当する。
顔を合わせるのは、これが三回目だ。エーレンフリートとの婚約が決まり、顔合わせと称して城に上がった日が一回目。ただ、この日は結局エーレンフリートの都合で顔合わせは叶わず、女官長と皇妃付き女官二名を紹介されただけで終わった。
薄い茶色の髪の元気そうな少女がイングリット・ツェッテル。今年十五になったばかりで、子爵家の娘だという。そしてもう一人がベティーナ・シーラッハという少女で、こちらは赤茶色――詩的に言うなら紅茶色の髪、とでも言うべきだろうか。こちらは十七歳で、やはり子爵家の出だ。結婚する気はないらしく、できれば末永くよろしくお願いします、とにこやかに挨拶されたのを覚えている。なかなか豪胆なタイプらしい。
もう何名か専任で就くようだが、それを束ねるのがこの二人だという。
それからあわただしく時は流れ、結局それ以降、エーレンフリートとの顔合わせがセッティングされることもなく、気付けば婚姻式典の当日を迎えていた。その朝着替えを担当してくれた数多くの女官たちの中に、もちろん二人もいて、それが二回目。
皇妃付きに選出されるだけあって、二人とも優秀だ。当日はその場をきちんと仕切っててきぱきと物事を進めていた。
そして、三回目が今、というわけだ。
ルイーゼの瞳の色に合わせて用意させた、という薄紫の昼用ドレスはサイズもぴったりで、さすが皇城御用達のお針子はいい仕事をする。ところどころに繊細なレースがさりげなく施され、飾りボタンや縫い付けられたビーズも濃淡織り交ぜた銀である。
仕上げにイングリットがてきぱきと髪を結い上げてくれて、そこに紫水晶で花をかたどった髪留めをつけてくれた。
「まあ、皇妃陛下、本当によくお似合いですわ……!」
「ほんと、こちらも腕の振るい甲斐があります……っ」
その姿を見て、二人は頬を上気させ、目をきらきらさせながら賛辞を送ってくれる。正直なところ、これほど手放しに賞賛されると照れくさい。
「それにしても、こんなにたくさんのドレスや装飾品を準備していただいて、なんだか申し訳ないくらいね」
ルイーゼがそうため息をつくのも仕方のないことだろう。開け放たれた衣装室には煌びやかなドレスが所狭しと並び、装飾品が溢れ返るほどに収められている。
中には普段でも使えるようにという気遣いなのか、かわいらしいリボンが何本も収められた箱まであって、ルイーゼの頬を緩ませた。
「それは、陛下のご指示で」
衣装室の中で何やら作業していたベティーナが戻ってきて言う。イングリットがその言葉に大きく頷いた。
「ほら、準備期間が短くていらっしゃったでしょう? 無理を言っているのはこちらだから、せめて不自由しないよう全て整えてやってくれと、陛下から直接お言葉をいただいたのです」
「まあ、陛下が……?」
意外な事実に、ルイーゼの心臓がどきりと跳ねる。まさかそのように気遣いをしてもらえるなどとは考えてもみなかった。
「直接お顔を合わせる時間が取れなかったことを気にしてらしたんでしょうね。実際に顔を合わせたわたくしたちに、似合うものを準備してほしいと仰せで」
「わたくしたち、それで張り切って用意させていただいたのです」
ね、と二人が目を見合わせて笑う。つられてルイーゼも、にっこりと微笑んだ。
――やっぱり、お優しい方なんだわ。いろいろと気を配っていただいて……
心が暖かくなると同時に、皇妃としての自覚を促されているように感じて、ルイーゼは背筋を伸ばした。
――そう、まずはきちんと皇妃としての責務を果たして、信頼してもらわなきゃ。すべてはそれからよ!
比べても仕方がないが、前の皇妃アドリーヌは未成年であったため、皇族としての責務はほぼ免除されていた。だが、ルイーゼはれっきとした二十歳。とっくに成人を迎えている。
皇妃としての仕事をきっちりとこなすところを見てもらえば、多少はエーレンフリートに対して好印象を与えられるだろう。
それに、これからエーレンフリートとは、皇帝と皇妃としてだけでなく、夫婦としても生きていかなければならないのだ。ルイーゼだって結婚したからには円満な夫婦関係を築きたい。
そのために必要なのは、お互いを理解することだ。ルイーゼの姿勢は、一夜明けた今でも根本的に変わっていない。いないのだが、少しだけ方針の転換がある。
寝落ちしてしまった昨日だけれど、ルイーゼには二つ収穫があった。エーレンフリートが嘘を嫌うこと。そして、想像よりもずっと優しい人物であること。
こうやって少しずつお互いを知っていけば、きっと信頼を勝ち取れるだろう。
――そう、子作りだって、それからでも遅くないわ。その方がきっといい。焦らない方がいいわ。
そう決心して、ルイーゼは心の中で握りこぶしを作ると、二人に尋ねた。
「それで、私は……えーっと、わたくしの今日の予定は?」
「え、ご予定ですか? ございませんけども……」
気合いを入れたルイーゼに対し、戸惑ったようにそう告げたのはベティーナだ。あら、と首を傾げたルイーゼに、イングリットが笑って言う。
「皇妃陛下、今日は――というか、一週間ほど公務はございません。もちろん、皇帝陛下も。昨日ご結婚なさったばかりなのですよ?」
「あ、そ……そうよね」
気合が空回りしてしまい、ルイーゼは苦笑をもらした。そういえば、式の前の打ち合わせでも、そう話を聞いていた気がする。
気落ちしたのが顔に出てしまったのか、イングリットがルイーゼを励ますように明るい声を出した。
「皇帝陛下からは、今日は皇妃陛下にゆっくりお過ごしいただくように言伝をいただきました。まだ皇城には不慣れでいらっしゃるだろうから、と」
その言葉に、べティーナも笑顔で大きく頷く。二人の様子に、ルイーゼも自然と笑みが唇に浮かんだ。
「陛下が……? そう……」
ほら、とまた胸の中がじんわりと暖かくなる。もしかすると、エーレンフリートと打ち解けるのは、それほど難しいことではないのかもしれない。
希望が見えてきたように思えて、ルイーゼはほっと息を吐き出した。
だが、実際問題として、することがないというのは地味に間が持たない。ルイーゼが手持ち無沙汰なのを察したべティーナは、こう提案した。
「皇妃陛下にお仕えする者たちをご紹介してもよろしいでしょうか。部屋の外で護衛の任などにあたっております近衛隊の騎士も、顔を覚えていただければ」
「ああ……そうね、そうしましょう。ありがとう、ベティーナ」
にこりとルイーゼが微笑むと、二人はなぜか頬を染めて頷いた。
ちょっと不思議に思ったが、ルイーゼが何か言うよりも早く、扉に向かったべティーナが外で警護にあたっていた騎士たちを入室させる。
「こちらがアロイス・ベルツさま。近衛隊の隊長を務めていらっしゃいます。もう御一方がウルリヒ・キルシュさま。交代制ではありますが、しばらくはお二人のうちどちらかは必ずおります」
ベティーナの紹介を受けて、近衛隊の制服を着た騎士が二人、ルイーゼに向かって敬礼した。濃い茶色の髪をしているのがアロイスで、やや薄い茶色の髪を伸ばして後ろで結んでいるのがウルリヒだ。
どちらも三十代の後半くらいで、筋骨隆々でいかめしい顔をした騎士である。
「そう、ありがとう。ベルツさま、キルシュさま、どうぞよろしくお願いいたしますね」
「はっ」
ルイーゼの言葉に、背中に剣を刺しているのかと思うほど真っ直ぐに背筋をピンと伸ばし、二人が声を揃えて返答する。
「我々のようなむさくるしい者で申し訳ございませんが、誠心誠意努めさせていただきます」
「まあ」
ウルリヒの言葉に、ルイーゼは思わず笑みをこぼした。確かに近衛隊の騎士と言えば、世の令嬢の憧れ、実力もさることながら外見も重視されると聞く。
半分引きこもりのような生活を送っていたルイーゼは実際に近くで見たことはなかったが、遠目に見た限りでは噂は本当のようだと思っていた。だが、こうして目の前で見る二人は、確かに外見を重視するという割にはちょっといかめしすぎるような気もする。
だがまあ、近衛隊と言えば皇帝を、そして今は新人皇妃をも守るための騎士隊だ。やはり実力が物を言うのだろう。
「お二人とも実力を買われて近衛隊にいらっしゃるのでしょう? ベルツさまは隊長と伺いましたもの。そうだわ、今度訓練なさっているところを拝見してもよろしいかしら。他のみなさまにもご挨拶したいわ」
「は、そ、それが……」
返答に詰まったウルリヒを、アロイスが肘で小突く。ルイーゼとしては、これからお世話になるのだから、と軽い気持ちでした提案だったが、小さな呻き声をあげたウルリヒに構わず、アロイスが首を振った。
「申し訳ございませんが、そちらは陛下……皇帝陛下の許可をいただいてからお願いいたします。我々としては歓迎したいのですが……」
「あ……そうよね、危ないでしょうし……」
ウルリヒの何か言いたげな視線は気になったが、ルイーゼはそれもそうか、と納得してその場は引き下がった。確かに、皇妃に怪我などさせたら近衛隊の責任問題になってしまう。しかもそれが皇妃の提案で勝手に行われた見学の時に起きたら――
――危ない、いきなり失敗してしまうところだったわ。
なかなかどうして、皇妃稼業は難しいようだ。おっとりとした笑みを浮かべながらも、ルイーゼは内心焦りを感じていた。
とはいえ、新婚休暇と言われてしまえば、当然その日は他にすることなどない。その後の時間は、のんびりとお茶をいただいたり、城内についてイングリットから解説と案内を受けたりして過ごした。
皇城の中は広くてとても一日で回れるような場所ではない。とりあえず、一週間は出ることがないであろう私的スペースだけを案内された。
皇帝夫妻の住む場所は、城の一番奥深くにある。それ以外の皇族は、もう少し表向きに近いところだが、今は誰もいない。
エーレンフリートは前皇帝夫妻のたった一人の息子であった。母である皇太后ディートリンデはいまだ健在であるが、夫亡きあとは静養と称して直轄地のひとつであるフォーレスト領の別邸に暮らしている。
前皇帝の弟であるアダルブレヒトは兄の即位にあたってアルホフ公爵の位をいただき、臣下に下っている。今は妻子とともに帝都にあるタウンハウスで生活をしており、まだ若い皇帝であったエーレンフリートの補佐をしたのち、今は相談役という名目上の役職についていた。
かなり優秀な人物で、前皇帝が亡くなった時には次の皇帝に彼を推す声もあったそうだ。だが、本人が「すでに臣籍に下った身である」とそれを断り、成人したばかりのエーレンフリートの即位に尽力したという話は有名である。
そのアダルブレヒトだが、イングリットの話によると、造園に非常に興味のある人物だったらしい。皇族専用の庭は、そのアダルブレヒトが設計し、造らせたものなのだそうだ。
その庭に案内されて、ルイーゼは感嘆の息をもらした。
咲き乱れる花と、美しく配置された木々。さほど広いものではないが、テーブルをセットしてお茶の時間を楽しむには丁度いいだろう。
――ここでなら、陛下ももう少し打ち解けて話をしてくださるかしら。
愛らしい小さな赤い花が揺れるのを眺めながら、そんなことを思ったりもする。
「素晴らしいお庭ね……」
「この時期もいいですけれど、社交シーズンはもっと素晴らしいですよ」
「まあ、そうなの? 楽しみだわ……」
家族や特に親しい友人などは、招いてお茶会などを開いてもいいらしい。そう説明を受けて、ルイーゼは笑顔になる。
イングリットは、今でも造園への情熱を失っていないらしいアダルブレヒトが、領地の屋敷でも、タウンハウスでも、やはり素晴らしい庭を造っているのだということも教えてくれた。
「まあ、そうなの……? 残念だけど、アルホフ公爵閣下のお屋敷には伺ったことがないのよ。何度か父や弟はお誘いいただいていたようだけれど……」
「それは残念でしたね……ここよりもかなり広く造っていらっしゃるとかで、見応えもあるとお聞きしましたよ。わたくしも行ったことはありませんが」
イングリットはそう言うと、少し肩をすくめた。あら、残念ね、とルイーゼも笑って肩をすくめる。
もともとルイーゼはそれほど人見知りする性質ではないが、イングリットは態度が柔らかくて話がしやすい。楽しくなって、ついつい口数も多くなる。
「確か、閣下にはお子さまが四人いらっしゃるのよね」
「そうですね、ご長男は領地のほうにいらっしゃるそうですから、今帝都にいらっしゃるのは残るお三方ですね」
「そうそう、二番目だったか三番目だったか……どちらかがアルフォンスと同じ年だそうなのよ。――あ、アルフォンスは弟なのだけど」
「ルイーゼさまの弟ぎみと、ということでしたら、二番目のヴェルナーさまでしょうか……。まだご結婚されていなかったと記憶しています」
話は弾んで、アダルブレヒトの息子たちまでが話題に上る。名前を聞かされて、ルイーゼは「ああ」と小さく頷いた。そうだった、アルホフ公爵家の次男、ヴェルナーの話はアルフォンスから聞いたことがある。
「そうそう、優秀な方だと聞いたことがあったわ。何度か我が家にもいらしてくださったようなのだけど……残念ながら、お顔を合わせたことはないのよ」
「なんでも、すごい美男子でいらっしゃるとか。皇帝陛下の従兄弟にあたられる方ですから、納得ですよね」
「まあ、ぜひお会いしておきたかったわ」
そうルイーゼが冗談交じりに口にしたところで、庭の繁みの向こうで「んっ」と短く息を詰めるような声が聞こえた。
「ちょ、陛下……!」
そこへ続けて聞こえてきたのは、どこか焦ったような男の声だ。ルイーゼとイングリットは顔を見合わせた。護衛の為に着いて来ていたアロイスも緊張した面持ちで剣の柄に手を置いていたが「陛下」と呼ぶ声に目を瞬かせる。
「……あの、陛下? いらっしゃるのですか……?」
恐る恐るルイーゼがそう声をかけると、しばらくして繁みの向こうから姿を現したのは、なぜか眉間にしわを寄せたエーレンフリートと、側近のバルトルトだった。
慌てた様子で、イングリットとアロイスがそれぞれに礼を取る。それに小さく手をあげて応えると、エーレンフリートはルイーゼに鋭い眼光を向けた。一瞬、何か怒っているのかと身構えたルイーゼだったが、彼の口から出たのは叱責ではなかった。
「――部屋に戻るところだった。城の中を見て回っていたのか?」
「ええ、イングリットが案内をしてくれていまして。素敵なお庭ですね」
ん、と短く頷いて、エーレンフリートの視線が庭を一巡する。その視線を一緒に追って、ルイーゼも改めて庭の様子を眺めた。
どちらかというと、造りは女性的だな、と思う。庭を囲むように幹の細い木が植えられ、愛らしい小さな花の数が多い。加えて小さな噴水と、それに水を引き込むための小川が流れていて、その周辺には人の背の高さほどの繁みがある。夏にあの小川の近くにテーブルを出してもらってお茶をするのは、きっと涼しげでいいだろう。ちょうど繁みが影を作るから、落ち着いて楽しめそうだ。
今の時期なら――と考え始めたところで、エーレンフリートが声を発した。
「叔父上の屋敷へ行きたいか?」
「え……?」
ぼんやりと考え事をしてしまっていたルイーゼは、エーレンフリートの言葉に目を瞬かせた。しばらくしてから、そういえばこの庭がアルホフ公爵、つまりエーレンフリートにとっては叔父にあたる人物の設計であったことを思い出す。
――もしかして、気を遣ってくださっているのかしら。
やはり、本来は優しい方なのだな、とルイーゼの心がじんわりと暖かくなる。まだ城に上がって一日目、いや二日目だが、エーレンフリートなりに気にかけてくれているのだろう。
自然とほころんだ表情を見て、エーレンフリートもその視線を少し和らげてくれたような気がする。
「そうですね、素敵な庭園がおありだとか……いつかは」
「俺と一緒に行くのなら、許可してもいい」
やはり口調はそっけないが、こちらの意を汲んでくれようとしているのだ。そう理解したルイーゼは、嬉しくなって「はい」と微笑んだ。
「昨夜はルイーゼさまは先におやすみになってしまわれたんでしょう? なんだってそんな、一睡もしてません、みたいな顔をしてらっしゃるんです?」
エーレンフリートが腰を下ろしたタイミングで、バルトルトは気になっていたことを聞いてみた。まさか、いくらなんでも、一晩中見張っていたとは言わないだろう。
その問いに、エーレンフリートが再び渋面になった。
「……その……一晩中、顔を見て――いや、見張っていた。寝たと見せかけて抜け出すかもしれないからな」
「おおっと、まさかのところを突いてくるとは、さすが陛下ですね……」
思わずソファからずり落ちそうになって、バルトルトが姿勢を正す。だが、エーレンフリートはそんな彼の反応には特段興味を示さず、何か他のことに気を取られているようだった。
「あと……その、あれはなんなんだ……」
「あれ?」
「その……ルイーゼは、なんというか……柔らかすぎないか……?」
吹き出さなかっただけでも褒めてほしい、とバルトルトは本気でそう思った。だから、変な表情になってしまったことには目をつぶってほしい。
柔らかすぎる、ときたか――とバルトルトは必死になって笑いをこらえているのだが、エーレンフリートは真剣だ。真剣な表情で、自分の手を見つめている。
それもそうだよな、とバルトルトはなんとか笑いを収めて同じように真面目な表情を取り繕った。なんといってもエーレンフリートは童貞なのだ。
当たり前に、女性の身体に触れる機会などなかったはずである。そこで、バルトルトは閨事の先輩らしくエーレンフリートに教えてやることにした。
まあ、なんでも自分より優秀にソツなくこなすエーレンフリートに勝てる部分があったことで、ちょっぴり優越感に浸ってもいたのだが。
「いいですか、陛下。女性の身体というものは、当然男性のものとは全く違います」
「それくらいは、見ればわかる」
むっすりとした顔で答えたエーレンフリートの前に手のひらを突き出して、バルトルトは「まあまあ」と宥めた。
「陛下は鍛錬なさっておいでですから、余計に驚かれたかもしれませんが……女性というのは、柔らかいのが普通なんです」
「あんなにか⁉」
「そうです」
言いながら、バルトルトは自分が初めて女体に触れた時のことを思い出した。あれはいくつの時だったか。ふにゅ、と指が沈む感触に、いたく感動したことだけは覚えている。そういえば、ここのところ、皇帝の結婚準備に駆り出されていたおかげで随分とご無沙汰だ。
そこまで考えてから、んん、とバルトルトは首を傾げた。
「……あの、陛下? つかぬことをお伺いしますが……いったいどこを……その、柔らかいと……?」
問いかけられたエーレンフリートの顔が、何を思い出したのか、真っ赤になった。あ、これは、とバルトルトは理解する。
だが、そんなバルトルトの(ちょっと下世話な)想像とは裏腹に、童貞の皇帝はピュアであった。
「全体的に、だ」
「全体的」
全く同じ言葉をオウムのように繰り返して、バルトルトはまじまじと目の前の二十八歳を見つめた。
これは、もしかしなくても自分の手に負えない問題なのかもしれない。長きにわたり皇帝の側近を務め、あらゆる無理難題に対応してきたつもりの彼だが、少し自信を喪失しつつあった。
だが、そんなバルトルトの心情などまったく気付かぬ様子で、エーレンフリートは続ける。
「その、寝台に運んでやったのだが……その時も妙にくにゃくにゃしていた。それで、触れていると、どきどきとして不安なのに妙な安心感もある。あれはなんだ……? こう……腕の中にあると……安らぎと同時にもっと触りたいというか……身体が妙に熱くもなるし……」
――陛下、それは多分あれです、健全な男なら誰でも持っている性欲というやつの現れです。
最後にはぶつぶつと独り言のように呟きだしたエーレンフリートにそう突っ込みたかったが、バルトルトは黙っていることを選んだ。
それにしても羨ましいような悲しいような、そんな話である。実際に見たルイーゼは、肖像画の二割増し美人であったし、スタイルもいい。あの身体を一晩ただ文字通りの意味で抱いていただけで他に何もできず、顔を見ているだけで済ませたとなれば、そりゃあ寝不足の酷い顔にもなる。心の底から深く同情したいと思う。
そこはさておいて、心配していたよりもずっと正常な反応を示しているようだから、もうあとは自分で頑張ってほしい。大丈夫、みんな通った道なのだから、エーレンフリートだって自力でやり遂げられるはず。優秀な皇帝陛下に万歳。そんなことより正直自分だってそろそろ本命としっぽりやりたい。
遠い目をしたバルトルトは、自身の結婚について真剣に考え始めていた。
◇
その話題のルイーゼが目を覚ましたのは、男二人が執務室で実りのない会話をしているのと同じ頃――昼を少し過ぎた頃のことであった。寝すぎたせいか、少し頭が痛い。
もぞもぞと起き上がると、ベッドサイドには水差しとグラスが置かれていて、はっとして目をやったテーブルセットの上は綺麗に片付けられている。
当然のことながら、振り返っても寝台の中にはエーレンフリートの姿はなく、少ししわの寄ったシーツに触れるとすでに冷たくなっていた。
随分と早くに目を覚まして出て行ったのだと思われる。情けなさに、思わずため息がもれた。
「ああ……やってしまったわ……」
さすがのルイーゼも、昨夜がいわゆる初夜だということは理解していた。というか、エーレンフリートがやってきた時にきちんと覚悟だって決めていたはずだ。
というのに、まさかの寝落ち。その挙句、寝坊までしてしまった。
――ど、どうしよう……さすがに陛下も呆れたわよね……
相互理解どころの話ではなかった。そもそも会話さえ成立していたかどうかすら怪しい。エーレンフリートはどうやら寡黙な性質らしく、ルイーゼが何を話しても返答は短かった。いや、女嫌いというからには、あれが女性全般に対する通常の態度なのだろうか。そもそも、緊張していたルイーゼは何を話したのかよく覚えていないので、返答に困っていた可能性もある。
そして――と再びそこに思考が戻って、ルイーゼは項垂れた。
寝落ちである。しかも、寝台に自分で入った記憶がないところをみると、エーレンフリートの手を煩わせてしまったことは明白だ。ルイーゼの気分は地の底まで沈んだ。
言い訳をさせてもらえるのなら、ルイーゼはかなり疲れていた。朝早くから城に移動して風呂に入れられ、花嫁衣裳を着せられ、それが終わったら大教会へ移動。
ほとんど夢見心地だった挙式では、エーレンフリートの行動に振り回され、再び城に戻れば戴冠式にお披露目、そしてとどめの宴席だ。
だから、仕方がなかったのだ――そう、思ってほしい。
「ああ、神さま……どうか、陛下がお怒りでありませんように……」
女性不信の女嫌い、だけどちょっぴり優しいエーレンフリートを怒らせていないかどうか。それが今のルイーゼの心配事だった。
寝坊したことを反省し、寝室から恐る恐る顔を出したルイーゼの着替えを手伝ってくれたのは、二人の女官である。ちなみに、女官というのは皇城に努める女性の総称で、ここにいる二人の役割は通常の侍女に相当する。
顔を合わせるのは、これが三回目だ。エーレンフリートとの婚約が決まり、顔合わせと称して城に上がった日が一回目。ただ、この日は結局エーレンフリートの都合で顔合わせは叶わず、女官長と皇妃付き女官二名を紹介されただけで終わった。
薄い茶色の髪の元気そうな少女がイングリット・ツェッテル。今年十五になったばかりで、子爵家の娘だという。そしてもう一人がベティーナ・シーラッハという少女で、こちらは赤茶色――詩的に言うなら紅茶色の髪、とでも言うべきだろうか。こちらは十七歳で、やはり子爵家の出だ。結婚する気はないらしく、できれば末永くよろしくお願いします、とにこやかに挨拶されたのを覚えている。なかなか豪胆なタイプらしい。
もう何名か専任で就くようだが、それを束ねるのがこの二人だという。
それからあわただしく時は流れ、結局それ以降、エーレンフリートとの顔合わせがセッティングされることもなく、気付けば婚姻式典の当日を迎えていた。その朝着替えを担当してくれた数多くの女官たちの中に、もちろん二人もいて、それが二回目。
皇妃付きに選出されるだけあって、二人とも優秀だ。当日はその場をきちんと仕切っててきぱきと物事を進めていた。
そして、三回目が今、というわけだ。
ルイーゼの瞳の色に合わせて用意させた、という薄紫の昼用ドレスはサイズもぴったりで、さすが皇城御用達のお針子はいい仕事をする。ところどころに繊細なレースがさりげなく施され、飾りボタンや縫い付けられたビーズも濃淡織り交ぜた銀である。
仕上げにイングリットがてきぱきと髪を結い上げてくれて、そこに紫水晶で花をかたどった髪留めをつけてくれた。
「まあ、皇妃陛下、本当によくお似合いですわ……!」
「ほんと、こちらも腕の振るい甲斐があります……っ」
その姿を見て、二人は頬を上気させ、目をきらきらさせながら賛辞を送ってくれる。正直なところ、これほど手放しに賞賛されると照れくさい。
「それにしても、こんなにたくさんのドレスや装飾品を準備していただいて、なんだか申し訳ないくらいね」
ルイーゼがそうため息をつくのも仕方のないことだろう。開け放たれた衣装室には煌びやかなドレスが所狭しと並び、装飾品が溢れ返るほどに収められている。
中には普段でも使えるようにという気遣いなのか、かわいらしいリボンが何本も収められた箱まであって、ルイーゼの頬を緩ませた。
「それは、陛下のご指示で」
衣装室の中で何やら作業していたベティーナが戻ってきて言う。イングリットがその言葉に大きく頷いた。
「ほら、準備期間が短くていらっしゃったでしょう? 無理を言っているのはこちらだから、せめて不自由しないよう全て整えてやってくれと、陛下から直接お言葉をいただいたのです」
「まあ、陛下が……?」
意外な事実に、ルイーゼの心臓がどきりと跳ねる。まさかそのように気遣いをしてもらえるなどとは考えてもみなかった。
「直接お顔を合わせる時間が取れなかったことを気にしてらしたんでしょうね。実際に顔を合わせたわたくしたちに、似合うものを準備してほしいと仰せで」
「わたくしたち、それで張り切って用意させていただいたのです」
ね、と二人が目を見合わせて笑う。つられてルイーゼも、にっこりと微笑んだ。
――やっぱり、お優しい方なんだわ。いろいろと気を配っていただいて……
心が暖かくなると同時に、皇妃としての自覚を促されているように感じて、ルイーゼは背筋を伸ばした。
――そう、まずはきちんと皇妃としての責務を果たして、信頼してもらわなきゃ。すべてはそれからよ!
比べても仕方がないが、前の皇妃アドリーヌは未成年であったため、皇族としての責務はほぼ免除されていた。だが、ルイーゼはれっきとした二十歳。とっくに成人を迎えている。
皇妃としての仕事をきっちりとこなすところを見てもらえば、多少はエーレンフリートに対して好印象を与えられるだろう。
それに、これからエーレンフリートとは、皇帝と皇妃としてだけでなく、夫婦としても生きていかなければならないのだ。ルイーゼだって結婚したからには円満な夫婦関係を築きたい。
そのために必要なのは、お互いを理解することだ。ルイーゼの姿勢は、一夜明けた今でも根本的に変わっていない。いないのだが、少しだけ方針の転換がある。
寝落ちしてしまった昨日だけれど、ルイーゼには二つ収穫があった。エーレンフリートが嘘を嫌うこと。そして、想像よりもずっと優しい人物であること。
こうやって少しずつお互いを知っていけば、きっと信頼を勝ち取れるだろう。
――そう、子作りだって、それからでも遅くないわ。その方がきっといい。焦らない方がいいわ。
そう決心して、ルイーゼは心の中で握りこぶしを作ると、二人に尋ねた。
「それで、私は……えーっと、わたくしの今日の予定は?」
「え、ご予定ですか? ございませんけども……」
気合いを入れたルイーゼに対し、戸惑ったようにそう告げたのはベティーナだ。あら、と首を傾げたルイーゼに、イングリットが笑って言う。
「皇妃陛下、今日は――というか、一週間ほど公務はございません。もちろん、皇帝陛下も。昨日ご結婚なさったばかりなのですよ?」
「あ、そ……そうよね」
気合が空回りしてしまい、ルイーゼは苦笑をもらした。そういえば、式の前の打ち合わせでも、そう話を聞いていた気がする。
気落ちしたのが顔に出てしまったのか、イングリットがルイーゼを励ますように明るい声を出した。
「皇帝陛下からは、今日は皇妃陛下にゆっくりお過ごしいただくように言伝をいただきました。まだ皇城には不慣れでいらっしゃるだろうから、と」
その言葉に、べティーナも笑顔で大きく頷く。二人の様子に、ルイーゼも自然と笑みが唇に浮かんだ。
「陛下が……? そう……」
ほら、とまた胸の中がじんわりと暖かくなる。もしかすると、エーレンフリートと打ち解けるのは、それほど難しいことではないのかもしれない。
希望が見えてきたように思えて、ルイーゼはほっと息を吐き出した。
だが、実際問題として、することがないというのは地味に間が持たない。ルイーゼが手持ち無沙汰なのを察したべティーナは、こう提案した。
「皇妃陛下にお仕えする者たちをご紹介してもよろしいでしょうか。部屋の外で護衛の任などにあたっております近衛隊の騎士も、顔を覚えていただければ」
「ああ……そうね、そうしましょう。ありがとう、ベティーナ」
にこりとルイーゼが微笑むと、二人はなぜか頬を染めて頷いた。
ちょっと不思議に思ったが、ルイーゼが何か言うよりも早く、扉に向かったべティーナが外で警護にあたっていた騎士たちを入室させる。
「こちらがアロイス・ベルツさま。近衛隊の隊長を務めていらっしゃいます。もう御一方がウルリヒ・キルシュさま。交代制ではありますが、しばらくはお二人のうちどちらかは必ずおります」
ベティーナの紹介を受けて、近衛隊の制服を着た騎士が二人、ルイーゼに向かって敬礼した。濃い茶色の髪をしているのがアロイスで、やや薄い茶色の髪を伸ばして後ろで結んでいるのがウルリヒだ。
どちらも三十代の後半くらいで、筋骨隆々でいかめしい顔をした騎士である。
「そう、ありがとう。ベルツさま、キルシュさま、どうぞよろしくお願いいたしますね」
「はっ」
ルイーゼの言葉に、背中に剣を刺しているのかと思うほど真っ直ぐに背筋をピンと伸ばし、二人が声を揃えて返答する。
「我々のようなむさくるしい者で申し訳ございませんが、誠心誠意努めさせていただきます」
「まあ」
ウルリヒの言葉に、ルイーゼは思わず笑みをこぼした。確かに近衛隊の騎士と言えば、世の令嬢の憧れ、実力もさることながら外見も重視されると聞く。
半分引きこもりのような生活を送っていたルイーゼは実際に近くで見たことはなかったが、遠目に見た限りでは噂は本当のようだと思っていた。だが、こうして目の前で見る二人は、確かに外見を重視するという割にはちょっといかめしすぎるような気もする。
だがまあ、近衛隊と言えば皇帝を、そして今は新人皇妃をも守るための騎士隊だ。やはり実力が物を言うのだろう。
「お二人とも実力を買われて近衛隊にいらっしゃるのでしょう? ベルツさまは隊長と伺いましたもの。そうだわ、今度訓練なさっているところを拝見してもよろしいかしら。他のみなさまにもご挨拶したいわ」
「は、そ、それが……」
返答に詰まったウルリヒを、アロイスが肘で小突く。ルイーゼとしては、これからお世話になるのだから、と軽い気持ちでした提案だったが、小さな呻き声をあげたウルリヒに構わず、アロイスが首を振った。
「申し訳ございませんが、そちらは陛下……皇帝陛下の許可をいただいてからお願いいたします。我々としては歓迎したいのですが……」
「あ……そうよね、危ないでしょうし……」
ウルリヒの何か言いたげな視線は気になったが、ルイーゼはそれもそうか、と納得してその場は引き下がった。確かに、皇妃に怪我などさせたら近衛隊の責任問題になってしまう。しかもそれが皇妃の提案で勝手に行われた見学の時に起きたら――
――危ない、いきなり失敗してしまうところだったわ。
なかなかどうして、皇妃稼業は難しいようだ。おっとりとした笑みを浮かべながらも、ルイーゼは内心焦りを感じていた。
とはいえ、新婚休暇と言われてしまえば、当然その日は他にすることなどない。その後の時間は、のんびりとお茶をいただいたり、城内についてイングリットから解説と案内を受けたりして過ごした。
皇城の中は広くてとても一日で回れるような場所ではない。とりあえず、一週間は出ることがないであろう私的スペースだけを案内された。
皇帝夫妻の住む場所は、城の一番奥深くにある。それ以外の皇族は、もう少し表向きに近いところだが、今は誰もいない。
エーレンフリートは前皇帝夫妻のたった一人の息子であった。母である皇太后ディートリンデはいまだ健在であるが、夫亡きあとは静養と称して直轄地のひとつであるフォーレスト領の別邸に暮らしている。
前皇帝の弟であるアダルブレヒトは兄の即位にあたってアルホフ公爵の位をいただき、臣下に下っている。今は妻子とともに帝都にあるタウンハウスで生活をしており、まだ若い皇帝であったエーレンフリートの補佐をしたのち、今は相談役という名目上の役職についていた。
かなり優秀な人物で、前皇帝が亡くなった時には次の皇帝に彼を推す声もあったそうだ。だが、本人が「すでに臣籍に下った身である」とそれを断り、成人したばかりのエーレンフリートの即位に尽力したという話は有名である。
そのアダルブレヒトだが、イングリットの話によると、造園に非常に興味のある人物だったらしい。皇族専用の庭は、そのアダルブレヒトが設計し、造らせたものなのだそうだ。
その庭に案内されて、ルイーゼは感嘆の息をもらした。
咲き乱れる花と、美しく配置された木々。さほど広いものではないが、テーブルをセットしてお茶の時間を楽しむには丁度いいだろう。
――ここでなら、陛下ももう少し打ち解けて話をしてくださるかしら。
愛らしい小さな赤い花が揺れるのを眺めながら、そんなことを思ったりもする。
「素晴らしいお庭ね……」
「この時期もいいですけれど、社交シーズンはもっと素晴らしいですよ」
「まあ、そうなの? 楽しみだわ……」
家族や特に親しい友人などは、招いてお茶会などを開いてもいいらしい。そう説明を受けて、ルイーゼは笑顔になる。
イングリットは、今でも造園への情熱を失っていないらしいアダルブレヒトが、領地の屋敷でも、タウンハウスでも、やはり素晴らしい庭を造っているのだということも教えてくれた。
「まあ、そうなの……? 残念だけど、アルホフ公爵閣下のお屋敷には伺ったことがないのよ。何度か父や弟はお誘いいただいていたようだけれど……」
「それは残念でしたね……ここよりもかなり広く造っていらっしゃるとかで、見応えもあるとお聞きしましたよ。わたくしも行ったことはありませんが」
イングリットはそう言うと、少し肩をすくめた。あら、残念ね、とルイーゼも笑って肩をすくめる。
もともとルイーゼはそれほど人見知りする性質ではないが、イングリットは態度が柔らかくて話がしやすい。楽しくなって、ついつい口数も多くなる。
「確か、閣下にはお子さまが四人いらっしゃるのよね」
「そうですね、ご長男は領地のほうにいらっしゃるそうですから、今帝都にいらっしゃるのは残るお三方ですね」
「そうそう、二番目だったか三番目だったか……どちらかがアルフォンスと同じ年だそうなのよ。――あ、アルフォンスは弟なのだけど」
「ルイーゼさまの弟ぎみと、ということでしたら、二番目のヴェルナーさまでしょうか……。まだご結婚されていなかったと記憶しています」
話は弾んで、アダルブレヒトの息子たちまでが話題に上る。名前を聞かされて、ルイーゼは「ああ」と小さく頷いた。そうだった、アルホフ公爵家の次男、ヴェルナーの話はアルフォンスから聞いたことがある。
「そうそう、優秀な方だと聞いたことがあったわ。何度か我が家にもいらしてくださったようなのだけど……残念ながら、お顔を合わせたことはないのよ」
「なんでも、すごい美男子でいらっしゃるとか。皇帝陛下の従兄弟にあたられる方ですから、納得ですよね」
「まあ、ぜひお会いしておきたかったわ」
そうルイーゼが冗談交じりに口にしたところで、庭の繁みの向こうで「んっ」と短く息を詰めるような声が聞こえた。
「ちょ、陛下……!」
そこへ続けて聞こえてきたのは、どこか焦ったような男の声だ。ルイーゼとイングリットは顔を見合わせた。護衛の為に着いて来ていたアロイスも緊張した面持ちで剣の柄に手を置いていたが「陛下」と呼ぶ声に目を瞬かせる。
「……あの、陛下? いらっしゃるのですか……?」
恐る恐るルイーゼがそう声をかけると、しばらくして繁みの向こうから姿を現したのは、なぜか眉間にしわを寄せたエーレンフリートと、側近のバルトルトだった。
慌てた様子で、イングリットとアロイスがそれぞれに礼を取る。それに小さく手をあげて応えると、エーレンフリートはルイーゼに鋭い眼光を向けた。一瞬、何か怒っているのかと身構えたルイーゼだったが、彼の口から出たのは叱責ではなかった。
「――部屋に戻るところだった。城の中を見て回っていたのか?」
「ええ、イングリットが案内をしてくれていまして。素敵なお庭ですね」
ん、と短く頷いて、エーレンフリートの視線が庭を一巡する。その視線を一緒に追って、ルイーゼも改めて庭の様子を眺めた。
どちらかというと、造りは女性的だな、と思う。庭を囲むように幹の細い木が植えられ、愛らしい小さな花の数が多い。加えて小さな噴水と、それに水を引き込むための小川が流れていて、その周辺には人の背の高さほどの繁みがある。夏にあの小川の近くにテーブルを出してもらってお茶をするのは、きっと涼しげでいいだろう。ちょうど繁みが影を作るから、落ち着いて楽しめそうだ。
今の時期なら――と考え始めたところで、エーレンフリートが声を発した。
「叔父上の屋敷へ行きたいか?」
「え……?」
ぼんやりと考え事をしてしまっていたルイーゼは、エーレンフリートの言葉に目を瞬かせた。しばらくしてから、そういえばこの庭がアルホフ公爵、つまりエーレンフリートにとっては叔父にあたる人物の設計であったことを思い出す。
――もしかして、気を遣ってくださっているのかしら。
やはり、本来は優しい方なのだな、とルイーゼの心がじんわりと暖かくなる。まだ城に上がって一日目、いや二日目だが、エーレンフリートなりに気にかけてくれているのだろう。
自然とほころんだ表情を見て、エーレンフリートもその視線を少し和らげてくれたような気がする。
「そうですね、素敵な庭園がおありだとか……いつかは」
「俺と一緒に行くのなら、許可してもいい」
やはり口調はそっけないが、こちらの意を汲んでくれようとしているのだ。そう理解したルイーゼは、嬉しくなって「はい」と微笑んだ。
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