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1巻
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真っ赤な顔で引っ込んだルイーゼは、今度は晩餐会のために着替えをすることになった。これがまた大変である。花嫁衣裳を着せられた時と同様に、わらわらと大勢の女官に取り囲まれ、寄ってたかってのお召し替えだ。朝早くから引っ張りまわされて息も絶え絶えのルイーゼは、女官たちのなすがまま、されるがままに着替えを終えた。ようやくひと心地ついた頃には、既にすっかり陽が落ちている。
皇城の広いホールには、ろうそくの炎揺らめく燭台がいくつも配置された大きなテーブルが準備され、招待を受けた帝国貴族たちが席に着いていた。中には、国外からの賓客と思しき姿もある。
盛大な宴席で、ルイーゼは当たり前だが、エーレンフリートの隣に座ることになっていた。婚姻式を終え、戴冠も済ませた今、ルイーゼの身分は皇妃である。しかし当然のことだが、こうした席に不慣れなルイーゼは全く落ち着かない。
いや、隣に座るだけであったら、ルイーゼはまだもう少し落ち着きがあっただろう。だが、こちらも着替えを済ませた麗しい姿のエーレンフリートが、ルイーゼをちらちらと見るのである。その視線にこそ、ルイーゼはもっとも緊張した。
かちんこちんになったルイーゼを見かねたエーレンフリートの側近が、原因たる彼に何か耳打ちしてくれた。だが、それでも彼はちらちらとこちらばかりを見てくる。
なんだかその視線がむずがゆい。背筋の辺りがもぞもぞする。
はあ、と小さな息を吐いて、ルイーゼはこの宴席も早く終わらないだろうかなどと、そんなことばかりを考えていた。
だからだろうか。どこかぼうっとした様子のエーレンフリートに、側近の青年が小さく肩をすくめ、呆れたようなまなざしを向けていたことには気付かなかった。
「さぁ、皇妃陛下はこちらへ」
やがて宴がはけ、エーレンフリートとルイーゼはそれぞれ身支度のために自室へと向かう。
なんだかもうとても疲れてしまった。案内された自分の部屋で小さな吐息をもらしたルイーゼは、これでやっとゆっくりできると思ったが、そうは問屋がおろさない。
わらわらと集まってきた女官たちの手によって浴室でぴっかぴかに磨き上げられる。それから、仕上げとばかりになんだか頼りない生地のうすっぺらい寝間着を着せられた。
こちらが今夜からおやすみになるお部屋です、と通されたのは大きな寝台のある寝室で、ここまでくればさすがのルイーゼもその意味に思い至る。かあ、と顔に熱が集まって、落ち着かない気持ちで部屋の中を見回した。
しかし、その女官たちが下がっていくと、テーブルセットに用意された酒と肴を前にソファに座っていたルイーゼは、ふと思った。
――陛下はこちらにいらっしゃるかしら……?
夫婦の部屋の作りは、おそらく一般的な貴族の邸宅と変わりないだろう。基本的にここは夫婦の寝室ではあるが、夫の部屋にはもう一つ、自分専用の寝台があるのが普通だ。
妻の体調が良くないとか、仕事で遅くなるとか――とにかく、妻と一緒に眠れない時に使用するためのものである。
あの女性不信を拗らせた女嫌いと言われるエーレンフリートのことだ。わざわざ信用できない『女』である自分と床を共にするつもりがあるのか、というのがルイーゼの疑問であった。
「うーん、どうかしらねえ……」
ルイーゼは唸った。
まあ、本当のところを言えば、今日は来ても来なくても、ルイーゼにとってはどちらでもいい。挙式の時や、バルコニーでのお披露目の時にも思ったことだが、エーレンフリートは女性に触れることに関してはそれほど忌避感を持っていないようだった。となれば、あとはゆっくり信頼関係を築いてからでも、子作りは遅くない。
――まあ、年齢的なことを考えたら、そりゃ多少は急ぐべきかもしれないけど。
エーレンフリートは二十八歳、ルイーゼは二十歳だ。近年ではそれほど遅い部類にはならないだろうが、かといって、のんびり構えられるほど若いとも言えない。
できれば早めに信頼関係を構築して、子作りに励んでもらわなければならないだろう。そのために必要なのは、まずは相互理解である。そして、相互理解に必要なのは、まずは会話だ。
「陛下に歩み寄りを期待するのは……まあ、無理でしょうね」
何せ城に上がっていないルイーゼでさえ、エーレンフリートの女性不信とその原因についての噂を知っているのだ。そこまで噂になるほど拗らせている皇帝からの歩み寄りは、期待できないだろう。
「どうしたものかしら」
うーん、と考え込みながら、ルイーゼの手は肴として用意されていたクラッカーに伸びる。側の器に盛りつけられていたクリームチーズを塗り付けて、ひょい、と令嬢らしからぬ仕草で口の中へと放り込んだ。
さすが、皇城で用意されるものだけあって、とっても美味しい。ナッツが入っているのか、少しだけ香ばしい風味がする。
調子に乗ったルイーゼが更にテーブルに手を伸ばした時、彼女の背後にある扉がかすかな音を立てて開く。入ってきた人物は、ゆっくりとした足取りで彼女の背後に立った。
「うまいか?」
「はい、とっても……っ⁉」
たっぷりとクリーム状のチーズを載せたクラッカーを口に運ぼうとしたところで後ろから声をかけられたルイーゼは、にやけた顔で頷いた後、はっとして真顔になった。
慌てて振り返れば、ルイーゼの肩越しにテーブルの上を眺めている男の姿がある。セットされていた黒髪が降ろされて額にかかり、少しだけ先が濡れているところを見ると、湯を使ったあとそれほど時間を置かずにここへ来たのだろう。
ふうん、と呟くようにして出された低い声が、その様子と相まってそこはかとなく艶めかしい。
ガウン姿でさえ妙に気品を感じられる姿の持ち主は、当然ながら、今日ルイーゼの夫となったエーレンフリートであった。
「あ、陛下……い、いらしてくださったのですね……」
「ん……? 妙なことを言う。ここは俺の寝室でもあるのだから、当然だろう」
その当然が当然じゃないと思っていたんです、という言葉をどうにかルイーゼは呑み込んだ。急に心臓がどきどきしてくる。
――来た、ということは、その……
思わずちらりと視線を寝台へと走らせた。はしたないとは思いつつも、これから未知の体験をするのだということを、いやがおうにも意識してしまう。
その緊張に身体を固くしたルイーゼに気付いているのかいないのか、エーレンフリートは酒瓶に目を止めると口元に薄い笑みを浮かべた。
それだけで、妙に匂い立つような色気があたりに漂って、ルイーゼの緊張は極限まで高まってしまう。思わず胸のあたりに手をやると、エーレンフリートに気付かれない程度に深く息を吸い込んで、それをゆっくりと吐き出した。
その間にエーレンフリートは、ルイーゼの隣に腰を下ろし、グラスを用意し始める。
「ルイーゼ、きみはお酒は嗜むのかな」
「あ、いえ、私は……あ、わたくしは、お酒は……」
「ルイーゼ」
緊張のあまり、ぽろりといつもの「私」という一人称を口にしてしまったルイーゼは、あわてて淑女らしく、と教え込まれた「わたくし」に言い換えようとした。だが、そう口にしたとたんエーレンフリートから強い調子で名前を呼ばれる。
え、と小さな声とともに顔を上げると、眉間にしわを寄せた彼と目が合った。
「それ、やめてくれないか」
「……それ?」
「普段は『私』と言っているのなら、プライベートではそのままでいいだろう。俺だって、普段は自分のことは『私』などとは言わない」
不機嫌そうに少し早口にそう言うと、エーレンフリートは自分のグラスにだけ酒を注ぎ入れる。それから何かを探すようにテーブルの上に視線を彷徨わせた後、肩をすくめてもう一つのグラスには水を注いだ。
その水の入ったグラスを、ルイーゼの方につい、と押しやってくる。
「俺は嘘が嫌いだ。俺の前で自分を偽ることはするな」
「……はい」
たかが一人称ごときで大げさな物言いだと思わないでもない。だが、彼が女性不信になった原因を思えば、ほんの少しでも偽りは許せないのだろう。ルイーゼは大人しく頷いた。
「ありがとうございます、陛下。私、精いっぱいつとめさせていただきます」
「……ふん」
水のグラスを持って礼を言うと、エーレンフリートはそっぽを向いた。だが、思わぬ彼の優しい心遣いに、ルイーゼの気持ちはほんのりと暖かく、そして明るくなる。
彼は、たった一言でルイーゼがあまり酒が得意でないことを気に留め、こうしてそれ以外の飲み物を用意してくれた。ただの水ではあるけれど、それが嬉しい。
思っていたよりもずっと、エーレンフリートとはうまくやっていけるようになるかもしれない。
肩から力が抜けて、ルイーゼはにっこりと微笑んだ。すると、エーレンフリートも、グラスを傾けながら微笑み返してくれた、と思う。
――さて、ここからどうしたらいいのかしら。
とにかく、閨事は夫に任せるべし、というのが母の教えだ。相手は経験者だから、それこそ問題ないだろう。
ぐるぐると考え込んでいると、エーレンフリートがグラスを傾けているのが見える。彼は酒に強いのだろうか、先ほどからそればかりを飲んでいるようだ。確か、そのような飲み方をしては良くないと聞いたことがあった。酒だけでなく、食べ物を一緒にとるのが正しい酒の飲み方なのだと。
「あ、陛下、これ美味しいですよ。どうぞ」
「ん」
エーレンフリートに勧めると、彼はなぜか眉間に皺を寄せて小さく頷いた。
「……ふふっ」
まるで拗ねた子どもみたいな態度だ。年上のはずなのに。なんだか妙にかわいらしく見えて、ルイーゼの口元に再び笑みが浮かんだ。
エーレンフリートがクラッカーを口に運ぶのを見つめながら、自分も同じようにする。
そんなふうにしばらく過ごしているうちに、ルイーゼの首はかくん、かくん、と揺れはじめた。早朝から準備に追われ、緊張と戸惑いの一日を乗り越えたルイーゼは、すでに体力の限界を迎えつつあったのだ。
――ああ、もうだめかも……
ふ、と意識が遠のいて、身体がぐらりと倒れていく。遠くに霞む意識の下で、温かくて広い何かに受け止められた感触がした。ほっとして、小さく息を吐く。
「ル、ルイーゼ……?」
ああ、これはエーレンフリートの声――受け止めてくれたのは、ではエーレンフリートだろうか。
少し熱ささえ感じる手のひらを肩に感じたところで、ルイーゼの意識は今度こそ闇の中に落ちて行った。
第二章 皇帝はご機嫌斜め
「……これはこれは、皇帝陛下におかれましてはご機嫌麗しく」
「麗しく見えるなら今すぐ医者にかかった方がいいな」
翌日の昼過ぎになってやっと執務室へやってきたバルトルトの最初の一言に、エーレンフリートはむっすりと返事をした。
きっちり整えられた黒髪に、一分の隙もない服装。一見いつもと変わりない皇帝の姿に見えるが、その表情たるや極悪人のそれだ。眉間には深くしわが刻まれているし、よく見れば琥珀色の瞳はどんよりと曇っている。さらにはその目の下に、うっすらと隈ができていた。
明らかに、一睡もしていないとわかる。
昨夜はいわゆる初夜である。まあ、バルトルトもそれくらいは想定内であったし、どちらかといえば起きてこないことを予想して昼過ぎに一応執務室に顔を出したのだ。
そうして来てみれば、口元をへの字にひんまげたエーレンフリートに眼光鋭く睨みつけられる羽目になった。
とてもではないが、結婚したばかりの夫の顔ではないな、とバルトルトは思う。
そもそも、昨夜は初夜であったはずなのに、当人がこうして執務室にいるということ自体がもうおかしいのだ。
「……昨夜はあんなに張り切ってたのに……なんだ、うまくいかなかったんですか?」
「張り切ってなどいない!」
手にしていた書類を机にたたきつけて、エーレンフリートは背もたれにどすんと身体を埋めた。高級で頑丈な造りの椅子が、ぎしりと嫌な音を立てる。
いやいや、張り切っていただろう。昨日のことを思い返して、バルトルトは口をへの字に曲げた。
何せ、美しい花嫁相手に鼻の下を伸ばしているところをしっかり見ていたのだ。長々とした口付けまで見せつけられ、それでもって宴の間中視線を釘付けにして、さらには妙ちきりんな『計画』まで立てて。
だが、皇帝陛下は明らかにご機嫌斜め、いや斜めどころか垂直下降といった様相。
どうやら昨夜何事か――エーレンフリートの意に沿わない事態が起きたのは明白であった。
もしかしたら、バルトルトの心配が的中してしまったのだろうか。何せ、エーレンフリートの女性不信は拗らせレベルMAXだ。寝室でとりかえしのつかない失敗をやらかしたとしても不思議ではない。
「なんだなんだ……土壇場で陛下の陛下が役に立たなかったとか? まさかですけど、ルイーゼさまに拒否られた? えっ、まさかですけどルイーゼさまに変なことをおっしゃったりしていないでしょうね……?」
不安のあまり、矢継ぎ早に質問を重ねてしまう。だが、エーレンフリートは不敬な質問をされたにもかかわらず、鷹揚に首を振った。
「……そのどれでもない」
「じゃ、うまくいったんでしょう? いや、心配してましたけど、これで末永く仲良くしてくだされば、臣下としては一安心なんですけどね」
しかし、それにしては不機嫌なんだよなあ、とバルトルトが首を傾げた時、エーレンフリートがぼそりと呟いた。
「……それ以前の問題だ」
「……は?」
それ以前、とはどれ以前だ。傾げた首が元に戻らぬまま、バルトルトは目をぱちくりさせた。
エーレンフリートは不機嫌な表情のまま、ぼそぼそと後を続ける。
「昨日は、ルイーゼが寝てしまったからな……」
「あ、ああ……なるほど……」
ようやく皇帝の不機嫌の理由に思い至って、バルトルトは傾げたままだった首を正当な位置に戻した。
昨日、部屋に戻ったエーレンフリートから思いもよらない話を聞かされたのは記憶に新しい。
思い返して、バルトルトは少しばかり遠くを見つめた。
宴の後、エーレンフリートに付き従って部屋に戻ったバルトルトは、ため息混じりに苦言を呈した。
「いやー、陛下、あれはだめ、だめですよ……あんまり不躾にじろじろ見るのはどうかと思いますね」
「そんなに見ていたつもりはないが」
エーレンフリートの言葉に、バルトルトは肩をすくめた。全く、自覚がないとは恐ろしい。あんなに熱っぽい目で見ておいてか。
まあ、自覚のあるなしにかかわらず、どうやら我らが皇帝陛下は今日初めて会った皇妃陛下に心を奪われてしまったご様子。これなら、と心配していた分ほっとして、バルトルトの口からは軽口が飛び出した。
「それにしても美人でしたよね、ルイーゼさま」
「おまえ、肖像画を持ってきた時には『割と』などと言っていたくせに」
エーレンフリートに睨まれて、バルトルトは肩をすくめる。だが、それに続いた彼の言葉に目を丸くした。
「あんなに美しい娘だと知っていたら、結婚などしなかった」
「は、はあ……?」
何を言い出したんだ、と目を剥いたバルトルトの前で、エーレンフリートは首を振りながら話を続ける。
「十人中九人は間違いなく太鼓判を押すような美しい娘じゃないか。美人はダメだ……なんだあれは……妙に唇が甘くて……柔らかくて……」
話をしている途中で、エーレンフリートの頬に赤みが差し、瞳が宙を彷徨いはじめる。本人は自覚がないようだが、口元にうっすらと浮かんだ満足げな笑みは、大教会で見たものと同じだ。
ああ、とバルトルトは得心した。なるほど、これは面白い。ほくそ笑みながら黙って聞いていると、エーレンフリートははっと我に返ったようだった。ち、と小さく舌打ちして正気に戻った彼の着替えを手伝う。
どうやら我らが皇帝陛下は、皇妃陛下に一目惚れなさったらしい。あの情熱的な口付けを思い出して、必死に笑いを咬み殺す。女嫌いを拗らせているとばかり思っていたが、いやあ良かった――と思ったのも束の間。
着替えを終えたエーレンフリートは、またしても思いもよらぬことを言い出した。
「とりあえず、今度こそは皇妃に俺を裏切るようなことはさせない」
「……は?」
あまりにも唐突な宣言についていけず、間抜けな声が出てしまう。だが、そんなバルトルトには一切構わず、エーレンフリートは力強く続けた。
「いいか、バルトルト。女というのは放っておくとすぐに他所見をする生き物だ」
「い、いや、陛下?」
一体何を言い出したのか、と焦るバルトルトを尻目に、エーレンフリートは拳をぐっと握りしめる。
「今日一日目を光らせていたが、今のところは大丈夫のようだ。しかし、油断はできない」
「え、あれ目を光らせていたんですか?」
どう見ても、一目惚れした女を見る目でしたけど、とはさすがに言えず、バルトルトは半眼になってエーレンフリートの顔を見た。だが、皇帝の顔は至極真面目で、冗談を言っているようには見えない。
どうやら本人はいたって本気でそう考えているようである。
「それで、今夜はどうなさるんです?」
「もちろん行く」
バルトルトから受け取ったガウンに腕を通しながら、エーレンフリートは当然とばかりに答えた。
「バルトルト、俺は決めた」
「一応伺いますけど、何を?」
なんだか馬鹿らしくなってきたバルトルトはおざなりな返答をしたが、エーレンフリートは真剣な口調でこう述べた。
「女は放っておくとすぐに他所に心を移すと言っただろう。だから、今度はそんな暇がないようにしてやればいい」
力強くそう断言したエーレンフリートを見て、バルトルトはもうすべてがどうでもよくなってきた。どうやら皇帝は、皇妃となった女性が浮気しないように身体で堕とすおつもりのようだ。
しかも――本人がどう思っているかは知らないが、これはあれだ。おそらく下手にかかわると馬に蹴られるやつ。
あわれ、女性不信を拗らせた皇帝陛下の初恋は、やはり拗らせたまま進行するようだ。バルトルトは黙ってエーレンフリートの背を叩くと、そのまま無言で退室した。
ま、どうやら励むつもりはあるようだから、放っておいてもいいだろう――と。
と、まあこんな調子で「放っておくと浮気する、だから放っておかなければいい」などと豪語していたからには、エーレンフリートは己の閨事の手腕によほどの自信があったのだろう。それでもって妻を夢中にさせてやろうという魂胆であったはずなのに、腕を振るう機会を逃してしまったわけだ。いやはや、女性不信を拗らせた幼馴染を密かに心配していたが、やることはやってたんだなあ、という謎の感慨にバルトルトの目頭が熱くなる。
「まあ……ルイーゼさまもお疲れでしたでしょうしね。でも、これからいくらでも機会はあるわけですから」
「そうだが……なあ、バルトルト」
ふと、エーレンフリートの表情が真剣なものになる。ごくり、と唾を飲み込んで、バルトルトは皇帝の言葉の続きを待った。
「その……どうしたら、そういう雰囲気になる?」
「そういう……雰囲気ですか……?」
正当な位置に戻ったはずのバルトルトの首が、再び傾いた。どうしても、質問の意味がわからない。というか、わかりたくない。まさか――という疑念がむくむくと湧いてきて、バルトルトの思考回路を占拠する。
「あの、質問をよろしいでしょうか、陛下……」
「なんだ、気持ち悪いな」
恐る恐る手を上げたバルトルトに、エーレンフリートは不審なものを見る目を向けた。だが、そう言いながらも小さく頷いて質問を許す。
「あの、まさかですけどね、陛下……これまでに、その……ご経験は、当然おありですよね……?」
「経験?」
「えっ、この流れでその質問返し? い、いや、もちろんその、閨事の、ですけど……」
バルトルトの言葉に、エーレンフリートの眉がぴくりと動いた。琥珀色の双眸に睨まれて、ひっ、と小さな悲鳴がもれる。
これまでにない迫力を醸し出す皇帝の姿に、そうだよな、さすがにそれはないよな、とバルトルトが思い始めた頃、エーレンフリートがきっぱりと返答をした。
「あるわけないだろう」
「マジで⁉」
思わず叫んでしまったが、それを責められる謂れはないだろう。あれほど自信満々に見えていたエーレンフリートが、まさかの童貞告白である。
しかし、当の本人は何の疑問も抱いていないらしい。何を言っているんだ、と言わんばかりの表情を浮かべている。
「十六になった時、ほら、指南とかなかったんですか? いや、それでなくても……えっ、まさかのまさか、アドリーヌさまに貞節を……?」
「成人したころはちょうど父上の病状が悪化して、それどころじゃなかっただろうが。俺だってそんな浮ついた気分にはなれなかったし。あと、そのまさか、ってなんだ。当然だろうが」
まあ、アドリーヌにとっては当然じゃなかったらしいがな――と自虐的に呟いて、エーレンフリートは苦い顔つきになる。エーレンフリートが真面目に成人を、しかもロシェンナ王国の風習に合わせて十八を待っている間に、アドリーヌはさっさと他の男と通じてしまったのだ。
それを思い出すと、バルトルトもしんみり――はしなかった。
「えっ、だって陛下、昨日あんなに自信満々で『女は放っておくと浮気するから身体で堕とす』って」
「待て、そこまで言ってないぞ、俺は」
「いや、言ったも同然でしょ⁉ どう考えたってそうだったじゃないですか⁉ それがなんですか、え? 童貞? うそでしょ……」
「うるさい、はっきり言うな」
がっくりと膝から崩れ落ちたバルトルトに、エーレンフリートの冷たい視線が突き刺さる。だが、考えてもみてほしい。
エーレンフリートはれっきとした二十八歳の健康な男性だ。成人年齢が十六のグラファーテ帝国であるから、すでに成人して十二年が過ぎている。
その間には九年間、年下の幼い妻がいたわけで、そこできちんと貞節を守ったのは驚くべき精神力だ。まあ褒められるべきことだろう。というか、アドリーヌが十六を過ぎた頃に少しは悶々としなかったのだろうか、とすこし下世話なことを思ったりもする。
だが、結婚するまでの二年間と、婚姻が不成立になってからの一年間にも、まったくそういった経験がないのは驚きだった。
まあ、しかし――
バルトルトは、エーレンフリートの不機嫌そうな顔を見上げて肩をすくめた。
まさか、この年になって男女のあれやこれやを最初から教える羽目になるとは、想像もしなかったことである。
だが、これも仕方がない。
今度こそは皇帝にきっちり皇妃を捕まえておいてもらわなければ、グラファーテ帝国の未来にかかわるからだ。
「とはいってもなあ……雰囲気、雰囲気ねぇ……」
一方のバルトルトはといえば、まぁそこそこ遊んでいる方ではある。だが、それもいわゆる娼館だとか、遊び慣れたどこぞのご夫人などがお相手だ。
当然、一から雰囲気づくりをしたりする必要などなく、お互い目と目で会話をして、あとは――といった調子なのである。つまり、初心な女性相手のあれこれでは役立たずというわけだ。
こうして、皇帝とその側近は二人そろって「うーん」と唸ったまま、しばし何の実りもない時間を過ごしたのであった。
「ま、それはそれとしてですよ」
あまりにも実りのない時間を過ごすことに飽きたのか、バルトルトは早々に来客用のソファに陣取ると行儀悪く足を組んだ。皇帝の執務室だけあって、広くて大きなソファは座り心地がいいのだ。来客の予定がない時には、バルトルトは書類の山をここに運んで仕事をしたいと常々思っている。側近なので当然執務室に自分の机もあるのだが、今日はもう仕事をする気がなくなっていた。
机の上に積まれた書類については、見て見ぬふりを決め込むことにする。
皇城の広いホールには、ろうそくの炎揺らめく燭台がいくつも配置された大きなテーブルが準備され、招待を受けた帝国貴族たちが席に着いていた。中には、国外からの賓客と思しき姿もある。
盛大な宴席で、ルイーゼは当たり前だが、エーレンフリートの隣に座ることになっていた。婚姻式を終え、戴冠も済ませた今、ルイーゼの身分は皇妃である。しかし当然のことだが、こうした席に不慣れなルイーゼは全く落ち着かない。
いや、隣に座るだけであったら、ルイーゼはまだもう少し落ち着きがあっただろう。だが、こちらも着替えを済ませた麗しい姿のエーレンフリートが、ルイーゼをちらちらと見るのである。その視線にこそ、ルイーゼはもっとも緊張した。
かちんこちんになったルイーゼを見かねたエーレンフリートの側近が、原因たる彼に何か耳打ちしてくれた。だが、それでも彼はちらちらとこちらばかりを見てくる。
なんだかその視線がむずがゆい。背筋の辺りがもぞもぞする。
はあ、と小さな息を吐いて、ルイーゼはこの宴席も早く終わらないだろうかなどと、そんなことばかりを考えていた。
だからだろうか。どこかぼうっとした様子のエーレンフリートに、側近の青年が小さく肩をすくめ、呆れたようなまなざしを向けていたことには気付かなかった。
「さぁ、皇妃陛下はこちらへ」
やがて宴がはけ、エーレンフリートとルイーゼはそれぞれ身支度のために自室へと向かう。
なんだかもうとても疲れてしまった。案内された自分の部屋で小さな吐息をもらしたルイーゼは、これでやっとゆっくりできると思ったが、そうは問屋がおろさない。
わらわらと集まってきた女官たちの手によって浴室でぴっかぴかに磨き上げられる。それから、仕上げとばかりになんだか頼りない生地のうすっぺらい寝間着を着せられた。
こちらが今夜からおやすみになるお部屋です、と通されたのは大きな寝台のある寝室で、ここまでくればさすがのルイーゼもその意味に思い至る。かあ、と顔に熱が集まって、落ち着かない気持ちで部屋の中を見回した。
しかし、その女官たちが下がっていくと、テーブルセットに用意された酒と肴を前にソファに座っていたルイーゼは、ふと思った。
――陛下はこちらにいらっしゃるかしら……?
夫婦の部屋の作りは、おそらく一般的な貴族の邸宅と変わりないだろう。基本的にここは夫婦の寝室ではあるが、夫の部屋にはもう一つ、自分専用の寝台があるのが普通だ。
妻の体調が良くないとか、仕事で遅くなるとか――とにかく、妻と一緒に眠れない時に使用するためのものである。
あの女性不信を拗らせた女嫌いと言われるエーレンフリートのことだ。わざわざ信用できない『女』である自分と床を共にするつもりがあるのか、というのがルイーゼの疑問であった。
「うーん、どうかしらねえ……」
ルイーゼは唸った。
まあ、本当のところを言えば、今日は来ても来なくても、ルイーゼにとってはどちらでもいい。挙式の時や、バルコニーでのお披露目の時にも思ったことだが、エーレンフリートは女性に触れることに関してはそれほど忌避感を持っていないようだった。となれば、あとはゆっくり信頼関係を築いてからでも、子作りは遅くない。
――まあ、年齢的なことを考えたら、そりゃ多少は急ぐべきかもしれないけど。
エーレンフリートは二十八歳、ルイーゼは二十歳だ。近年ではそれほど遅い部類にはならないだろうが、かといって、のんびり構えられるほど若いとも言えない。
できれば早めに信頼関係を構築して、子作りに励んでもらわなければならないだろう。そのために必要なのは、まずは相互理解である。そして、相互理解に必要なのは、まずは会話だ。
「陛下に歩み寄りを期待するのは……まあ、無理でしょうね」
何せ城に上がっていないルイーゼでさえ、エーレンフリートの女性不信とその原因についての噂を知っているのだ。そこまで噂になるほど拗らせている皇帝からの歩み寄りは、期待できないだろう。
「どうしたものかしら」
うーん、と考え込みながら、ルイーゼの手は肴として用意されていたクラッカーに伸びる。側の器に盛りつけられていたクリームチーズを塗り付けて、ひょい、と令嬢らしからぬ仕草で口の中へと放り込んだ。
さすが、皇城で用意されるものだけあって、とっても美味しい。ナッツが入っているのか、少しだけ香ばしい風味がする。
調子に乗ったルイーゼが更にテーブルに手を伸ばした時、彼女の背後にある扉がかすかな音を立てて開く。入ってきた人物は、ゆっくりとした足取りで彼女の背後に立った。
「うまいか?」
「はい、とっても……っ⁉」
たっぷりとクリーム状のチーズを載せたクラッカーを口に運ぼうとしたところで後ろから声をかけられたルイーゼは、にやけた顔で頷いた後、はっとして真顔になった。
慌てて振り返れば、ルイーゼの肩越しにテーブルの上を眺めている男の姿がある。セットされていた黒髪が降ろされて額にかかり、少しだけ先が濡れているところを見ると、湯を使ったあとそれほど時間を置かずにここへ来たのだろう。
ふうん、と呟くようにして出された低い声が、その様子と相まってそこはかとなく艶めかしい。
ガウン姿でさえ妙に気品を感じられる姿の持ち主は、当然ながら、今日ルイーゼの夫となったエーレンフリートであった。
「あ、陛下……い、いらしてくださったのですね……」
「ん……? 妙なことを言う。ここは俺の寝室でもあるのだから、当然だろう」
その当然が当然じゃないと思っていたんです、という言葉をどうにかルイーゼは呑み込んだ。急に心臓がどきどきしてくる。
――来た、ということは、その……
思わずちらりと視線を寝台へと走らせた。はしたないとは思いつつも、これから未知の体験をするのだということを、いやがおうにも意識してしまう。
その緊張に身体を固くしたルイーゼに気付いているのかいないのか、エーレンフリートは酒瓶に目を止めると口元に薄い笑みを浮かべた。
それだけで、妙に匂い立つような色気があたりに漂って、ルイーゼの緊張は極限まで高まってしまう。思わず胸のあたりに手をやると、エーレンフリートに気付かれない程度に深く息を吸い込んで、それをゆっくりと吐き出した。
その間にエーレンフリートは、ルイーゼの隣に腰を下ろし、グラスを用意し始める。
「ルイーゼ、きみはお酒は嗜むのかな」
「あ、いえ、私は……あ、わたくしは、お酒は……」
「ルイーゼ」
緊張のあまり、ぽろりといつもの「私」という一人称を口にしてしまったルイーゼは、あわてて淑女らしく、と教え込まれた「わたくし」に言い換えようとした。だが、そう口にしたとたんエーレンフリートから強い調子で名前を呼ばれる。
え、と小さな声とともに顔を上げると、眉間にしわを寄せた彼と目が合った。
「それ、やめてくれないか」
「……それ?」
「普段は『私』と言っているのなら、プライベートではそのままでいいだろう。俺だって、普段は自分のことは『私』などとは言わない」
不機嫌そうに少し早口にそう言うと、エーレンフリートは自分のグラスにだけ酒を注ぎ入れる。それから何かを探すようにテーブルの上に視線を彷徨わせた後、肩をすくめてもう一つのグラスには水を注いだ。
その水の入ったグラスを、ルイーゼの方につい、と押しやってくる。
「俺は嘘が嫌いだ。俺の前で自分を偽ることはするな」
「……はい」
たかが一人称ごときで大げさな物言いだと思わないでもない。だが、彼が女性不信になった原因を思えば、ほんの少しでも偽りは許せないのだろう。ルイーゼは大人しく頷いた。
「ありがとうございます、陛下。私、精いっぱいつとめさせていただきます」
「……ふん」
水のグラスを持って礼を言うと、エーレンフリートはそっぽを向いた。だが、思わぬ彼の優しい心遣いに、ルイーゼの気持ちはほんのりと暖かく、そして明るくなる。
彼は、たった一言でルイーゼがあまり酒が得意でないことを気に留め、こうしてそれ以外の飲み物を用意してくれた。ただの水ではあるけれど、それが嬉しい。
思っていたよりもずっと、エーレンフリートとはうまくやっていけるようになるかもしれない。
肩から力が抜けて、ルイーゼはにっこりと微笑んだ。すると、エーレンフリートも、グラスを傾けながら微笑み返してくれた、と思う。
――さて、ここからどうしたらいいのかしら。
とにかく、閨事は夫に任せるべし、というのが母の教えだ。相手は経験者だから、それこそ問題ないだろう。
ぐるぐると考え込んでいると、エーレンフリートがグラスを傾けているのが見える。彼は酒に強いのだろうか、先ほどからそればかりを飲んでいるようだ。確か、そのような飲み方をしては良くないと聞いたことがあった。酒だけでなく、食べ物を一緒にとるのが正しい酒の飲み方なのだと。
「あ、陛下、これ美味しいですよ。どうぞ」
「ん」
エーレンフリートに勧めると、彼はなぜか眉間に皺を寄せて小さく頷いた。
「……ふふっ」
まるで拗ねた子どもみたいな態度だ。年上のはずなのに。なんだか妙にかわいらしく見えて、ルイーゼの口元に再び笑みが浮かんだ。
エーレンフリートがクラッカーを口に運ぶのを見つめながら、自分も同じようにする。
そんなふうにしばらく過ごしているうちに、ルイーゼの首はかくん、かくん、と揺れはじめた。早朝から準備に追われ、緊張と戸惑いの一日を乗り越えたルイーゼは、すでに体力の限界を迎えつつあったのだ。
――ああ、もうだめかも……
ふ、と意識が遠のいて、身体がぐらりと倒れていく。遠くに霞む意識の下で、温かくて広い何かに受け止められた感触がした。ほっとして、小さく息を吐く。
「ル、ルイーゼ……?」
ああ、これはエーレンフリートの声――受け止めてくれたのは、ではエーレンフリートだろうか。
少し熱ささえ感じる手のひらを肩に感じたところで、ルイーゼの意識は今度こそ闇の中に落ちて行った。
第二章 皇帝はご機嫌斜め
「……これはこれは、皇帝陛下におかれましてはご機嫌麗しく」
「麗しく見えるなら今すぐ医者にかかった方がいいな」
翌日の昼過ぎになってやっと執務室へやってきたバルトルトの最初の一言に、エーレンフリートはむっすりと返事をした。
きっちり整えられた黒髪に、一分の隙もない服装。一見いつもと変わりない皇帝の姿に見えるが、その表情たるや極悪人のそれだ。眉間には深くしわが刻まれているし、よく見れば琥珀色の瞳はどんよりと曇っている。さらにはその目の下に、うっすらと隈ができていた。
明らかに、一睡もしていないとわかる。
昨夜はいわゆる初夜である。まあ、バルトルトもそれくらいは想定内であったし、どちらかといえば起きてこないことを予想して昼過ぎに一応執務室に顔を出したのだ。
そうして来てみれば、口元をへの字にひんまげたエーレンフリートに眼光鋭く睨みつけられる羽目になった。
とてもではないが、結婚したばかりの夫の顔ではないな、とバルトルトは思う。
そもそも、昨夜は初夜であったはずなのに、当人がこうして執務室にいるということ自体がもうおかしいのだ。
「……昨夜はあんなに張り切ってたのに……なんだ、うまくいかなかったんですか?」
「張り切ってなどいない!」
手にしていた書類を机にたたきつけて、エーレンフリートは背もたれにどすんと身体を埋めた。高級で頑丈な造りの椅子が、ぎしりと嫌な音を立てる。
いやいや、張り切っていただろう。昨日のことを思い返して、バルトルトは口をへの字に曲げた。
何せ、美しい花嫁相手に鼻の下を伸ばしているところをしっかり見ていたのだ。長々とした口付けまで見せつけられ、それでもって宴の間中視線を釘付けにして、さらには妙ちきりんな『計画』まで立てて。
だが、皇帝陛下は明らかにご機嫌斜め、いや斜めどころか垂直下降といった様相。
どうやら昨夜何事か――エーレンフリートの意に沿わない事態が起きたのは明白であった。
もしかしたら、バルトルトの心配が的中してしまったのだろうか。何せ、エーレンフリートの女性不信は拗らせレベルMAXだ。寝室でとりかえしのつかない失敗をやらかしたとしても不思議ではない。
「なんだなんだ……土壇場で陛下の陛下が役に立たなかったとか? まさかですけど、ルイーゼさまに拒否られた? えっ、まさかですけどルイーゼさまに変なことをおっしゃったりしていないでしょうね……?」
不安のあまり、矢継ぎ早に質問を重ねてしまう。だが、エーレンフリートは不敬な質問をされたにもかかわらず、鷹揚に首を振った。
「……そのどれでもない」
「じゃ、うまくいったんでしょう? いや、心配してましたけど、これで末永く仲良くしてくだされば、臣下としては一安心なんですけどね」
しかし、それにしては不機嫌なんだよなあ、とバルトルトが首を傾げた時、エーレンフリートがぼそりと呟いた。
「……それ以前の問題だ」
「……は?」
それ以前、とはどれ以前だ。傾げた首が元に戻らぬまま、バルトルトは目をぱちくりさせた。
エーレンフリートは不機嫌な表情のまま、ぼそぼそと後を続ける。
「昨日は、ルイーゼが寝てしまったからな……」
「あ、ああ……なるほど……」
ようやく皇帝の不機嫌の理由に思い至って、バルトルトは傾げたままだった首を正当な位置に戻した。
昨日、部屋に戻ったエーレンフリートから思いもよらない話を聞かされたのは記憶に新しい。
思い返して、バルトルトは少しばかり遠くを見つめた。
宴の後、エーレンフリートに付き従って部屋に戻ったバルトルトは、ため息混じりに苦言を呈した。
「いやー、陛下、あれはだめ、だめですよ……あんまり不躾にじろじろ見るのはどうかと思いますね」
「そんなに見ていたつもりはないが」
エーレンフリートの言葉に、バルトルトは肩をすくめた。全く、自覚がないとは恐ろしい。あんなに熱っぽい目で見ておいてか。
まあ、自覚のあるなしにかかわらず、どうやら我らが皇帝陛下は今日初めて会った皇妃陛下に心を奪われてしまったご様子。これなら、と心配していた分ほっとして、バルトルトの口からは軽口が飛び出した。
「それにしても美人でしたよね、ルイーゼさま」
「おまえ、肖像画を持ってきた時には『割と』などと言っていたくせに」
エーレンフリートに睨まれて、バルトルトは肩をすくめる。だが、それに続いた彼の言葉に目を丸くした。
「あんなに美しい娘だと知っていたら、結婚などしなかった」
「は、はあ……?」
何を言い出したんだ、と目を剥いたバルトルトの前で、エーレンフリートは首を振りながら話を続ける。
「十人中九人は間違いなく太鼓判を押すような美しい娘じゃないか。美人はダメだ……なんだあれは……妙に唇が甘くて……柔らかくて……」
話をしている途中で、エーレンフリートの頬に赤みが差し、瞳が宙を彷徨いはじめる。本人は自覚がないようだが、口元にうっすらと浮かんだ満足げな笑みは、大教会で見たものと同じだ。
ああ、とバルトルトは得心した。なるほど、これは面白い。ほくそ笑みながら黙って聞いていると、エーレンフリートははっと我に返ったようだった。ち、と小さく舌打ちして正気に戻った彼の着替えを手伝う。
どうやら我らが皇帝陛下は、皇妃陛下に一目惚れなさったらしい。あの情熱的な口付けを思い出して、必死に笑いを咬み殺す。女嫌いを拗らせているとばかり思っていたが、いやあ良かった――と思ったのも束の間。
着替えを終えたエーレンフリートは、またしても思いもよらぬことを言い出した。
「とりあえず、今度こそは皇妃に俺を裏切るようなことはさせない」
「……は?」
あまりにも唐突な宣言についていけず、間抜けな声が出てしまう。だが、そんなバルトルトには一切構わず、エーレンフリートは力強く続けた。
「いいか、バルトルト。女というのは放っておくとすぐに他所見をする生き物だ」
「い、いや、陛下?」
一体何を言い出したのか、と焦るバルトルトを尻目に、エーレンフリートは拳をぐっと握りしめる。
「今日一日目を光らせていたが、今のところは大丈夫のようだ。しかし、油断はできない」
「え、あれ目を光らせていたんですか?」
どう見ても、一目惚れした女を見る目でしたけど、とはさすがに言えず、バルトルトは半眼になってエーレンフリートの顔を見た。だが、皇帝の顔は至極真面目で、冗談を言っているようには見えない。
どうやら本人はいたって本気でそう考えているようである。
「それで、今夜はどうなさるんです?」
「もちろん行く」
バルトルトから受け取ったガウンに腕を通しながら、エーレンフリートは当然とばかりに答えた。
「バルトルト、俺は決めた」
「一応伺いますけど、何を?」
なんだか馬鹿らしくなってきたバルトルトはおざなりな返答をしたが、エーレンフリートは真剣な口調でこう述べた。
「女は放っておくとすぐに他所に心を移すと言っただろう。だから、今度はそんな暇がないようにしてやればいい」
力強くそう断言したエーレンフリートを見て、バルトルトはもうすべてがどうでもよくなってきた。どうやら皇帝は、皇妃となった女性が浮気しないように身体で堕とすおつもりのようだ。
しかも――本人がどう思っているかは知らないが、これはあれだ。おそらく下手にかかわると馬に蹴られるやつ。
あわれ、女性不信を拗らせた皇帝陛下の初恋は、やはり拗らせたまま進行するようだ。バルトルトは黙ってエーレンフリートの背を叩くと、そのまま無言で退室した。
ま、どうやら励むつもりはあるようだから、放っておいてもいいだろう――と。
と、まあこんな調子で「放っておくと浮気する、だから放っておかなければいい」などと豪語していたからには、エーレンフリートは己の閨事の手腕によほどの自信があったのだろう。それでもって妻を夢中にさせてやろうという魂胆であったはずなのに、腕を振るう機会を逃してしまったわけだ。いやはや、女性不信を拗らせた幼馴染を密かに心配していたが、やることはやってたんだなあ、という謎の感慨にバルトルトの目頭が熱くなる。
「まあ……ルイーゼさまもお疲れでしたでしょうしね。でも、これからいくらでも機会はあるわけですから」
「そうだが……なあ、バルトルト」
ふと、エーレンフリートの表情が真剣なものになる。ごくり、と唾を飲み込んで、バルトルトは皇帝の言葉の続きを待った。
「その……どうしたら、そういう雰囲気になる?」
「そういう……雰囲気ですか……?」
正当な位置に戻ったはずのバルトルトの首が、再び傾いた。どうしても、質問の意味がわからない。というか、わかりたくない。まさか――という疑念がむくむくと湧いてきて、バルトルトの思考回路を占拠する。
「あの、質問をよろしいでしょうか、陛下……」
「なんだ、気持ち悪いな」
恐る恐る手を上げたバルトルトに、エーレンフリートは不審なものを見る目を向けた。だが、そう言いながらも小さく頷いて質問を許す。
「あの、まさかですけどね、陛下……これまでに、その……ご経験は、当然おありですよね……?」
「経験?」
「えっ、この流れでその質問返し? い、いや、もちろんその、閨事の、ですけど……」
バルトルトの言葉に、エーレンフリートの眉がぴくりと動いた。琥珀色の双眸に睨まれて、ひっ、と小さな悲鳴がもれる。
これまでにない迫力を醸し出す皇帝の姿に、そうだよな、さすがにそれはないよな、とバルトルトが思い始めた頃、エーレンフリートがきっぱりと返答をした。
「あるわけないだろう」
「マジで⁉」
思わず叫んでしまったが、それを責められる謂れはないだろう。あれほど自信満々に見えていたエーレンフリートが、まさかの童貞告白である。
しかし、当の本人は何の疑問も抱いていないらしい。何を言っているんだ、と言わんばかりの表情を浮かべている。
「十六になった時、ほら、指南とかなかったんですか? いや、それでなくても……えっ、まさかのまさか、アドリーヌさまに貞節を……?」
「成人したころはちょうど父上の病状が悪化して、それどころじゃなかっただろうが。俺だってそんな浮ついた気分にはなれなかったし。あと、そのまさか、ってなんだ。当然だろうが」
まあ、アドリーヌにとっては当然じゃなかったらしいがな――と自虐的に呟いて、エーレンフリートは苦い顔つきになる。エーレンフリートが真面目に成人を、しかもロシェンナ王国の風習に合わせて十八を待っている間に、アドリーヌはさっさと他の男と通じてしまったのだ。
それを思い出すと、バルトルトもしんみり――はしなかった。
「えっ、だって陛下、昨日あんなに自信満々で『女は放っておくと浮気するから身体で堕とす』って」
「待て、そこまで言ってないぞ、俺は」
「いや、言ったも同然でしょ⁉ どう考えたってそうだったじゃないですか⁉ それがなんですか、え? 童貞? うそでしょ……」
「うるさい、はっきり言うな」
がっくりと膝から崩れ落ちたバルトルトに、エーレンフリートの冷たい視線が突き刺さる。だが、考えてもみてほしい。
エーレンフリートはれっきとした二十八歳の健康な男性だ。成人年齢が十六のグラファーテ帝国であるから、すでに成人して十二年が過ぎている。
その間には九年間、年下の幼い妻がいたわけで、そこできちんと貞節を守ったのは驚くべき精神力だ。まあ褒められるべきことだろう。というか、アドリーヌが十六を過ぎた頃に少しは悶々としなかったのだろうか、とすこし下世話なことを思ったりもする。
だが、結婚するまでの二年間と、婚姻が不成立になってからの一年間にも、まったくそういった経験がないのは驚きだった。
まあ、しかし――
バルトルトは、エーレンフリートの不機嫌そうな顔を見上げて肩をすくめた。
まさか、この年になって男女のあれやこれやを最初から教える羽目になるとは、想像もしなかったことである。
だが、これも仕方がない。
今度こそは皇帝にきっちり皇妃を捕まえておいてもらわなければ、グラファーテ帝国の未来にかかわるからだ。
「とはいってもなあ……雰囲気、雰囲気ねぇ……」
一方のバルトルトはといえば、まぁそこそこ遊んでいる方ではある。だが、それもいわゆる娼館だとか、遊び慣れたどこぞのご夫人などがお相手だ。
当然、一から雰囲気づくりをしたりする必要などなく、お互い目と目で会話をして、あとは――といった調子なのである。つまり、初心な女性相手のあれこれでは役立たずというわけだ。
こうして、皇帝とその側近は二人そろって「うーん」と唸ったまま、しばし何の実りもない時間を過ごしたのであった。
「ま、それはそれとしてですよ」
あまりにも実りのない時間を過ごすことに飽きたのか、バルトルトは早々に来客用のソファに陣取ると行儀悪く足を組んだ。皇帝の執務室だけあって、広くて大きなソファは座り心地がいいのだ。来客の予定がない時には、バルトルトは書類の山をここに運んで仕事をしたいと常々思っている。側近なので当然執務室に自分の机もあるのだが、今日はもう仕事をする気がなくなっていた。
机の上に積まれた書類については、見て見ぬふりを決め込むことにする。
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