暗殺 志士たちの群像

西村重紀

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第二章 大老暗殺

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 大老井伊掃部頭直弼、幼名鉄之介は、文化十二年(一八一五)十月二十九日に生まれた。
 薩摩藩鹿児島城下を騒がすお由羅騒動が起こったその年、嘉永三年(一八五〇)十一月二十一日に、兄直亮の死を受けて直弼が井伊家の家督を相続し第十六代彦根藩主の座に就く。
 藩主に就任すると、直弼は早速人事の刷新に取り掛かった。筆頭家老木俣守易の罷免からはじまり、前藩主の側近三名を更迭する。後任人事には、長野主膳の門人の多くを充てた。
 翌嘉永四年(一八五一)に直弼は藩主として彦根に入ると、領内の見分を行った。
 その翌年、嘉永五年(一八五二)、直弼は丹波亀山藩主松平信豪の娘昌子を娶る。またこの年に、長野主膳が正式に彦根藩士に取り立てられ、直弼の右腕として暗躍する。そして直弼の側近の多くが長野主膳の門人で占められることになった。
 嘉永六年六月三日、ペリー提督率いるフリゲート艦サスケハナ号を旗艦とした四隻の黒船が、相模国浦賀に入港。この報せを国許の彦根で聞いた直弼は急遽、江戸へ向かった。七月二十四日、江戸へ出府する。
 鎖国政策存続の危機に対し、幕政の中心にいる老中首座阿部正弘は、朝廷、諸大名、市井からも意見を募った。
 溜詰筆頭である直弼はこの時、老中阿部正弘に、
「天主の邪教を防ぐという国益がある」
 という意見書を提出し、鎖国の継続を訴えた。
 ここでいう天主の邪教とは、江戸時代に禁教とされていたキリスト教を指す。
 ところが、日本とアメリカとの歴然とした国力の差を知ると、直弼は八月二十九日に再提出した意見書では、開国を主張するに至った。
 しかし、若い頃長野主膳の下で国学を学んでいた直弼は、本来は開国派ではなく鎖国派だった。
 再提出した意見書に、
「海軍力を整備し、遠洋を航海出来る技術を得れば、時宜を得て鎖国に戻すことも可能」
 と記している。
 黒船来航という国難の最中、十二代将軍徳川家慶が暑気当たりで斃れた。家慶のあとを継いだのは、四男の家定だ。
 家定という人物は、幼い頃から虚弱体質で乳母の歌橋にしか心を開いていない。
 未曽有の国難の中、幕政を預かる老中阿部正弘としては、この難局を乗り越えるため、様々な手を打つことにした。その一つが、これまで譜代大名を中心とした幕政を改め、雄藩の協議による連携方式である。
 正弘はまず、海防掛顧問として徳川斉昭を幕政に参与させた。
 斉昭は攘夷を主張し、開国を主張する直弼と激しく対立した。
 この対立の構図が、そのまま一橋派と南紀派による将軍継嗣問題に結び付くことになる。
 国難が続くこの最中の安政二年(一八五五)十月に、正弘は下総佐倉藩主堀田正睦を勝手掛老中に推挙し、首席老中の地位を譲った。
 阿部正弘が安政四年(一八五七)に死去すると、幕政の舵取りは正睦の肩に重く圧し掛かることになった。
 江戸城内にて家定に謁見したアメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、通商条約交渉の開始を要求する。
 アメリが持つ軍事力と圧力に屈した幕府は遂に開国を決断して、下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震がハリスとの交渉をはじめるに至った。
 翌安政五年(一八五八)、勅許奏請のため上洛していた老中の堀田正睦が失意のまま江戸に戻って来た。勅許奏請は失敗に終わった。孝明天皇の条約勅許を得ることが出来なかったのだ。
 四月二十一日、正睦は直ちに、勅許奏請が失敗に終わったことを将軍家定に復命する。この折、正睦は越前藩主松平慶永の大老就任を家定に願い出た。
 しかし家定は、
「家柄からも人物からも大老は掃部頭(直弼)しかいない」
 とのことを正睦に告げた。
 これに関しては些か疑問が残る。
 家定という人物は、虚弱体質で脳性麻痺を患っていた。しかも、一説によると言葉も明瞭でなく、言語障害もあったという。果たしてこのような人物が自らの意思を他人に伝えることが可能であろうか。
 つまり将軍周辺に存在する人物が、反一橋派、特に大奥の女たちが慶喜の父徳川斉昭を嫌っていたので、南紀派を代表する井伊直弼を推した可能性も否めない。
 事実、斉昭が将軍家定を押込め、実子である一橋慶喜を将軍の後継に立て実権を握ろうとした企てが露見した。
 翌二十二日、家定側近の御徒頭薬師寺元真が彦根藩邸を訪ね、このことを直弼に伝え、一刻も早く大老職就任を依頼した。
 翌二十三日、登城した直弼は老中正睦から大老職拝命を伝えられ、大老に就任する。早速御用部屋に入り執務に取り掛かった。
 元々鎖国派であった直弼は、孝明天皇の勅許がないままハリスとの条約調印には反対の立場だった。幕閣会議でも、大老の直弼と若年寄の本多忠徳の二人だけが、勅許を得てからの条約調印を主張する。
 直弼は勅許を得るための時間稼ぎとして、井上清直と岩瀬忠震に出来るだけ引き伸ばすように言い含めた。
 下田奉行井上清直は直弼に、やむを得ない場合は調印してよいか、と趣旨を問うた。
 直弼は井上に、
「已むを得ざれば、是非に及ばず」
 と告げたのだ。
 しかし、この時互いの意思疎通が上手くいかなく、全権を預かる下田奉行の立場にあった井上は、大老の許可を得たと自分勝手に判断してしまったのだ。
 六月十九日、井上はポーハタン号のハリスの許に赴き、日米修好通商条約に調印する。
 翌日の二十日には、紀州徳川家の当主慶福が家定の世子と決まり、将軍継嗣問題は一応決着した。公表されたのは二十五日である。
 その前日の二十四日、松平慶永、徳川斉昭と水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶恕が江戸城に押しかけ登城するという事態が発生。
 その後幕府は、七月五日から翌六日に掛けて、斉昭たち四人と一橋慶喜を隠居、謹慎、登城停止などとして処罰した。
 この最中の六日、十三代将軍家定が脚気によって死去する。
 その当時国許の薩摩にいた島津斉彬は、側近西郷吉之助の勧めもあって、藩兵二千五百人を率い上洛し、幕府による無勅許条約調印の糺す勅許を得ようと企んだ。しかし、藩兵の訓練中、発病し急逝。
 訓練の監督中に飲んだ樽の中の水に、毒が盛られていた可能性も否定出来ない。
 斉彬を喪った攘夷派は巻き返しを図り、戊午の密勅を得る。だが、これが幕府の知るところとなり、大老井伊直弼は安政の大獄を断行する。
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