暗殺 志士たちの群像

西村重紀

文字の大きさ
19 / 40
第二章 大老暗殺

しおりを挟む
 直弼と主膳の関係は、主君と家臣という関係以外にも、師匠と弟子という関係が存在した。
 彦根藩邸の一室に主膳が現れた。
「殿、西郷と月照が死にました」
「……」
 行燈の灯りを頼りにして漢書を黙読していた直弼は、怪訝そうに目を細め主膳を見詰めた。
「薩摩に赴いた手の者によりますれば、二人は手を取り合って錦江湾へ飛び込み、入水致したそうで」
「心中か」
「はい、そのようで」
 主膳は小さく頷くと、
「鹿児島城下には既に西郷の墓が建てられていたとのこと」
「段取りが素早いな。些か胡散臭い。もしかすると西郷と月照は生きておるかも知れる」
「まさか……」
「否、そのまさかじゃ。薩摩に役人を遣って徹底的に調べよ」
「ははっ」
 主膳は畏まった。
「それとじゃ、主膳。此度の件に関わった者は皆全て片っ端から捕らえるのじゃ。一人も残さず処罰致すのじゃっ」
「承知仕りました」
 縛吏による取り締まりは凄まじいものとなった。
 密勅降下の首謀者である梅田雲浜の捕縛を皮切りに、戊午の密勅に関わった者が次々と検挙された。近藤茂左衛門、橋本左内らが捕縛され、その後江戸に送致された。その中には松下村塾を開いた吉田松陰の名もあった。
 彼らは評定所での厳しい詮議の末、死罪、遠島などの酷刑が下された。
 また、志士たち以外も、処分は皇族や公卿にまで及び、青蓮院宮尊融入道親王、三条実万、二条斉敬らが処分を受けることになった。
 幕臣では、一橋派とされた岩瀬忠震、川路聖謨、水野忠徳、永井尚志らが処分され、その中には慶喜の側近であった平岡円四郎の名もあった。
 円四郎は、一橋家臣から甲府勤番へ左遷される。
 そして一橋派の大名に対する処分は、水戸徳川斉昭に永蟄居、その子慶篤に差控、一橋慶喜に隠居謹慎、水戸徳川家の連枝三藩に譴責。更に、尾張徳川慶勝に隠居謹慎、越前松平慶永に隠居謹慎、宇和島伊達宗城に隠居謹慎、土佐山内豊信に隠居謹慎などの処分が下った。
 処分された大名の中に、薩摩藩島津家の名は含まれていない。
 先代の斉興は早くから井伊直弼に接近しており、また藩主茂久の父である久光も、幕府に恭順の意を示していた。
 しかし、藩内には数多くの不満分子を抱えていたのも事実であった。特に、西郷吉之助と大久保正助が中心となって立ち上げた精忠組に名を連ねる面々だ。

 息を吹き返した吉之助は、月照のみが亡くなったことを知らされ、完全に生きる気力を失っていた。
 死んだ魚のような目で正助を睨め付ける。
「正助どん、ないごて死なせてくれんやった」
「吉之助さぁ、おはんは死んでは行けんお人じゃと天がゆたがよ」
「こんおいが生きちょるんな、天命じゃちゅうんか正助どん」
「じゃっど、吉之助さぁ。あたは天命によって生かされたど。じゃっで死んでは行けんどっ!」
 正助は竹馬の友の両肩に手のひらを当て、吉之助の身体を揺すりながら声を張り上げた。その目は涙で充血し、真っ赤に染まっていた。
「……おいはどげんなっ。どげん処分を受くっことにな」
 伏目勝ちの吉之助は、正助の目も見ず小声で訊ねた。
「おいが、国府様と大殿様に掛け合うてみる」
「正助どんにそげんこっが出来っとな」
 吉之助は半信半疑であった。
「ああ、おいはそんために喜三左衛門どんの兄さぁの許で碁を習うちょい」
 頷きつつ正助は答えた。
「碁か……まあ、それもよか」
 吉之助は、正助が幼い頃から聡明で碁が得意であったことも知っていた。
「おいがないとかすっで、諦むっんじゃなか吉之助さぁ」
 真剣な眼差しを向ける友に、吉之助は小さく首肯した。

 税所喜三左衛門の実兄吉祥院住職乗願という伝を利用して、正助は久光に接近することが叶った。
「あん西郷ん命を救えち申すとな」
 久光は上擦った声を上げた。
 碁盤を挟んで対局中の乗願を睨み付ける。
「はい、国府様。我が弟子に大久保正助ち申す者がおりまする」
 乗願が碁盤の上に黒石を置きながら言った。
「大久保正助、知らん名じゃな」
「御蔵役を務むっ下士にござりますっ」
「そん下士がないごて西郷ん命を救うてくれち申すとな」
「大久保が申すには、西郷は我が薩摩藩にとっちょらんではならん男、何れ国府様んお役に立つ時が参っと」
 言いながら乗願は沖に黒石を置いた。
「然様か……ん? ちと待てくれ」
 久光は顏を上げると、まじまじと乗願を見やった。
 盤上の勝負は、先ほどまで白石の久光が優勢だった。しかし、乗願が沖に黒石を置いたため、不利な局面になった。
 待ったを掛けた久光を見やり、乗願はにんまりと笑った。
「考えて頂くっるか」
 乗願は久光に談判する。
 久光は苦しげな表情になった。
「分かった父上に頼んでみる」
 久光は、乗願を通じての正助の願いを聞くことにした。
 後日久光は鹿児島城の二の丸御殿で、隠居の身である父斉興に会った。
「何用じゃ、三郎。おいは忙しか、用があっなら早よ申せ」
 斉興は、趣味の一つである茶器を眺めながら、息子の顔も見ずに言った。
「父上は、御蔵役を務むっ下士に大久保正助なっ者がおり申すことをご存知じゃしか」
 久光が正助の名を口にした途端、斉興の顔色が変わった。
 斉興が側近たちと一緒に、斉彬暗殺を企てた折、名前が出た人物だった。
「大久保ちゅう男がどげんした」
 斉興は上擦った声を張っ発した。
「おいは、吉祥院の住職であっ乗願を通じ、そん大久保から頼まれ事を受け申した」
「下士ん分際で生意気な……で、ないを頼まれた。ゆてみぃ」
「先日、月照と共に錦江湾へ身投げした西郷吉之助ち申す当藩ん下士んござっどん」
「西郷吉之助。あん蘭癖者ん懐刀か」
 斉興は忽ち不機嫌になり、露骨に眉を顰める。
「父上、亡くなられた兄上んこっを悪う申さるったぁ止めたもんせ」
 久光は亡き兄斉彬を心の底から敬愛していた。
 息子に諫められ、斉興は不愉快な気分になった。しかし、井伊直弼から手渡された毒を用いてしまったことに対する後ろめたさの方が勝っていた。
 斉興は、手にした天目茶碗を木箱の中に片付け、面倒くさそうに口を開いた。
「分かった分かった。で、そん西郷とやらをどうすりゃえとじゃ」
「ご公儀ん追手から救うて頂こごたっでござっ」
「つまり西郷とやらん命を助けよ申すか」
 斉興は次の木箱を手に取って、紐を解きはじめる。箱の中には、嘗て老中阿部正弘から渡されたあの茶器が入っている。棗だ。
 一瞬、斉興の顔が強張った。
「はい」
 久光は首肯した。
「分かった考えちょく」
 斉興は冷たく言い捨てた。
 しかし、心の中では結論が出ていた。
 大久保正助の願いを聞き受け、斉興は西郷吉之助の命を助けることにした。せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
 その後、西郷吉之助に、当時薩摩藩の支配下にあった奄美大島への遠島が申し渡された。だがこれは正式には遠島ではなく、大島の銅山を管理する目付役として派遣された方が正しい。
 なお、薩摩藩は幕府の目を誤魔化すために、吉之助の名を菊池源吾と改めさせ大島へ赴任させた。更に西郷吉之助の名で墓を建て、行き倒れの死体をその中に埋めるといった手の込んだことを行っている。
 安政六年(一八五九)一月四日、吉之助は正助ら精忠組の仲間に見送られ山川港を出航した。
 吉之助は大島で、有力者龍佐栄志の娘愛加那を島妻に迎え、一男一女を儲けている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

元亀戦記 江北の虎

西村重紀
歴史・時代
浅井長政の一代記です

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...