暗殺 志士たちの群像

西村重紀

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第二章 大老暗殺

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 場所は、彦根藩上屋敷内に設けられた茶室である。
 時刻は既に、戌の刻(午後八時)を回っていた。辺りは静まり返っていた。
「やはり西郷は死んだようで」
 長野主膳は主君井伊直弼を前にして言った。
 四畳もないこの狭い空間に二人きりであった。他に誰も居ない。
「然様か……西郷のことはもうよい。それよりも水戸じゃ」
「水戸」
 怪訝気味に主膳が首を傾げた。
「儂が聞き及んだところでは、何やから怪しげな動きがあるそうじゃ」
「怪しい動きとは」
「この井伊掃部頭を亡き者にせんと企む輩がおるそうじゃ」
 直弼は、石州流の茶道を究めている。曜変天目茶碗に薄茶を点て、主膳に差し出した。
「……まさか」
 主膳は茶碗を手に取りつつ、首を捻った。
 水戸の不満分子が大老の命を狙っている。普通に考えてみるとあり得ないことではない。
 今回の安政の大獄で、直弼と主膳が水戸徳川家に行った仕打ちは非常に厳しいものであった。水戸藩から恨みを受けていたことは紛れも居ない事実で、復讐されることを主膳としてもそれなりに警戒していた。
 しかし、主膳の耳には水戸藩士が不穏な行動をしているという情報が入っていなかったのだ。
 主膳は薄茶を飲み干した。
「結構なお点前でござりました」
 点前座の直弼は黙礼で返した。
「殿、一体何処からそのことをお知りになられたのござるか」
 改めて主膳は直弼に訊ねた。
「水戸の者からじゃ」
「水戸の……」
 主膳は怪訝そうに眉根を寄せた。
「水戸の中にも、この儂に近い者がおる」
 直弼は涼しい顔で平然と告げた。
「な、何とっ!?」
 主膳は素っ頓狂な声を発した。
「別に驚くことではない。水戸の者は全てが皆尊王攘夷にかぶれておる訳でない」
 直弼は唇の端に薄い笑みを浮かべた。

 前藩主徳川斉昭、現藩主慶篤父子が処分された水戸藩では、一部の過激な家臣たちによる動きが活発化した。
 結果、藩内は二つに割れた。
 水戸藩に下された密勅を返納せよという幕府の圧力に屈する穏健派と、それを阻止しようとする過激派によって藩論は紛糾した。
「吾は起つっ、志しある者は、吾と共に起てっ!」
 水戸藩郡奉行の要職に就く金子孫二郎は、興奮気味に言い放った。
「落ち着けっ、まずは落ち着くのじゃ」
 穏健派である水戸藩執政市川三左衛門弘美は、ことを穏便に済ませようと孫二郎らの説得に取り掛かった。
「これが落ち着いていられようかっ、井伊を許すまじっ。素っ首叩き落としてやろうぞっ」
「逸ってはならぬ。ことを起こしてはならぬ。取り返しのつかぬことになる」
「我らとてこのままでは捨て置けん。姦賊井伊の赤鬼に一太刀浴びせようぞっ」
「待て、血気に逸るな。それこそ井伊の思う壺。我が水戸藩がお取り潰しとなるぞ」
「何を申すか、この腰抜けがっ。我が水戸徳川家は御三家の一つ。井伊などは家来筋ではないかっ」
「まあ、皆落ち着け。そう興奮するな」
「くうっ、話にならん。ご家老、我らは其処許らと袂を分かつっ」
「おい、待てっ」
「待てぬ。ご免っ」
 孫二郎は、三左衛門の説得も効かず席を立った。
 後に、市川三左衛門は水戸藩内佐幕派諸生党の領袖となり、尊王攘夷派で過激な活動を繰り広げる水戸天狗党の弾圧に力を入れることになる。
 一方、市川三左衛門らと袂を分かった金子孫二郎は、奥右筆頭取高橋多一郎、北郡務方関鉄之介、格式馬廻組住谷寅之介らを西国雄藩へ向かわせ、密勅の写しを回達させようと企てた。

 安政六年(一八五九)八月二十七日。
 初秋のこの日、前代未聞のお沙汰が下った。
 御三家の家老格の人物に、切腹の命が下された。
「安島様が腹を召された」
 水戸藩士関鉄之介は同志の住谷寅之介に、水戸藩家老安島帯刀がお預け先の三田藩九鬼家にて切腹したことを伝えた。
 評定所で詮議した結果、一度は無罪となった安島帯刀であったが、大老井伊直弼が直に取り調べ、切腹を申し渡したのだ。
 安島帯刀は、水戸の両田と謳われた戸田蓬軒の実弟である。母方の叔父安島彦之允信順の養子となり、安島家を継いだ。
 次期水戸藩主として、斉昭擁立に兄蓬軒と共に尽力した人物である。無論、彼も尊王攘夷派に違いはない。
 帯刀はその性質及び性格上、他藩の尊王攘夷派の志士たちと繋がりを持っていた。
 戊午の密勅が水戸藩に下賜される前、一度は西郷吉之助を拒否したものの、幕府からこれに関わった人物と目を付けられたのだ。
 結果、帯刀は評定所に召喚され、その身柄を三田藩九鬼家にお預けとなった。
 御三家の家老格が、幕府によってその身柄を軟禁され、切腹するという事態になったこと考えて、幕政を牛耳る直弼の傲慢ぶりが窺い知れる。
 鉄之介と寅之介の二人は、潜伏先の大坂の商家の二階の屋根裏部屋にいた。
「な、何と執政殿がっ!?」
 驚く寅之介を前にして、鉄之介は憮然と頷いた。
「そればかりではない。当家京都お留守居役の鵜飼殿とご子息も、それぞれ斬首、獄門となった」
 鉄之介は怒りと悲しみのため声を震わせた。
「それはまことか関殿……!?」
 愕然とする寅之介が訊ねた。
「ああ」
 鉄之介は頷くとその場で咽び泣いた。
「……おのれ井伊掃部っ許すまじっ!」
 顔を紅潮させた寅之介は唇を噛み締めた。余りにも強く噛んだため、唇が切れて血が滲んでいた。
「国許では市川率いる書生党の者共が、幅を利かせておるそうじゃ。井伊の赤鬼のいいなりになって、殿に密勅を返上するように働きかけておるらしい」
「武田様は何と仰っておる」
 寅之介は、斉昭に近い尊王攘夷派の武田耕雲斎の名を口にした。武田耕雲斎はのちに水戸天狗党の頭目となって佐幕派諸生党と闘争を繰り広げる。
「分からぬ……」
 鉄之介は虚しくかぶりを振ってみせた。
 ちょうどそこへ、梯子を使って奥右筆頭取の高橋多一郎が屋根裏部屋に上がって来た。
「寅之介、声が大きいぞ。下まで洩れておる」
「申し訳ござらん」
 寅之介は軽く頭を下げた。
「まあよい。それより方々、先ほど国許から金子殿の使いの者が参った。方々心して聞かれよ」
 この多一郎の口調から、鉄之介は良くない報せであると悟った。
「申されよ」
「ご隠居(斉昭)様と一橋様にも幕府からお沙汰があった」
「まさか切腹では」
 愕然となった鉄之介が問い掛ける。
 多一郎は短く首を横に振ってから、
「ご隠居(斉昭)様は国許にて永蟄居。一橋様は隠居謹慎のお沙汰が下った」
 と声を震わせた。
「姦賊井伊掃部っ、このままでは捨て置かぬっ。必ずやその首撥ねてやるっ!」
 血気盛んな寅之助が大声で唸った。
「これ、寅之介。先ほどから申しておるであろう。声が大きい」
 多一郎が寅之介を諫めた。
「当家以外の方々はどのようなご処分となり申した」
 鉄之介が多一郎に問うた。
「よくは分からぬが、越前藩の橋本殿や他の方々も斬首のお沙汰が下った」
「橋本左内殿が斬首……」
「ああ」
 多一郎は無念の表情のまま頷いた。
「薩摩の西郷殿は、亡き島津斉彬公の懐刀であった西郷吉之助殿、やはりお噂通り、清水寺成就院の月照殿と入水なさったのか」
「お二人の墓まであったそうじゃ」
「……墓が」
 鉄之介が問うと、多一郎は首肯してから、
「間違いないであろうな、墓まであるのじゃから、恐らく西郷殿は既に死んでおられる。それより、薩摩の方々とは話が付いたのか」
「ああ、土佐へ向かったあと、その足で薩摩へ行く。そこで、精忠組を束ねる大久保正助殿という人物と会う手筈が整っておる」
「大久保正助殿か……」
「何でも西郷殿の幼馴染であったそうな」
「然様か、それは心強い」
 多一郎は力強く頷いた。
「寅之介は、長州の高杉晋作殿、桂小五郎殿に会って来るそうじゃ」
 鉄之介は視線を多一郎から寅之介に移しながら語った。
「必ずや我らにご賛同頂ける違いない」
 寅之介は熱く語った。
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