9 / 39
第二章 家督
四
しおりを挟む
十月に入ったある日のことだった。
北近江の山々が紅色に染まり始めた頃、浅井家三代目当主となった賢政は、安養寺親子を本丸主殿の書院に呼び寄せた。
「六角入道承禎殿からの偏諱である賢の文字を捨てようと思う」
「それはまことに良きお考え」
氏秀が恭しく言った。
「して何という諱に……」
氏秀が尋ねると、賢政は先ほど自らの手で書いた諱を記した紙を、安養寺親子に披露した。
「長政……」
「そこでじゃ、三郎左衛門、其方に一つ頼み事がある。尾張の織田弾正殿の許に遣いに行ってはくれぬか……」
「織田の許に、でござるか?」
氏種は訝し気に首を捻った。
「ああ、この長政、織田信長殿の武勇に肖りたいと思うておる、是非とも偏諱を頂戴したい。織田弾正殿にそう申し伝えよ。子細は文に認めてある」
「……承知仕った」
氏種は、まだ何か引っ掛かるような素振りであったが、長政に頭を下げた。
翌朝、卯の刻(午前六時)、氏種は旅装束姿で小谷城下を発ち、一路尾張清須城へ向かった。午の刻限(正午)には国境を越え美濃国に入った。関ケ原から養老へ向かい、更に南下して揖斐川、次いで長良川、最後に木曽川を渡り、尾張国に入ったのは戌の上刻(午後七時)を少し回った頃だった。その日は、清須城下の外れの宿屋に泊まることにした。
次の日の朝、氏種は清須城を訪れた。
「某、江州小谷城主浅井新九郎の家臣、安養寺三郎左衛門と申しまする。織田弾正忠殿にお目通りを」
大手門を護る門衛に、用件を伝える。
「安養寺殿、ここにて暫し待たれよ」
具足を纏った門衛は、氏種にそう伝えると一旦城内へ消えた。
言われた通り暫く待っていると、先ほどの門衛と萌黄色の直垂姿の侍が現れた。
「ご貴殿が安養寺殿か……浅井新九郎殿の遣いで参ったと申されたが……拙者、織田家家臣の斎藤新五郎と申す」
若武者が名乗った。
新五郎は、諱を利興といった。信長の岳父斎藤道三の末子で、父道三が長兄義龍に討たれる前に美濃を脱し、信長の許に寄寓した。歳は数え年で、天文七年(一五三八)生まれの氏種より三つ若い天文十年(一五四一)生まれの二十歳になる。
「安養寺三郎左衛門でござる。本日は我が主浅井新九郎の遣いで参った。織田弾正忠殿にお目通りを願いたい」
「案内致そう。拙者について参られよ」
「忝い」
一礼すると氏種は、利興の後ろについて城内に足を踏み入れた。
本丸主殿の謁見の間に通された。
「暫しここでお待ち下され」
「承知致した」
四半刻(三十分)ほど待たされた。
渡り廊下を数人の者が歩く音が、氏種の耳に届いた。
氏種は、平伏して信長が現れるのを待った。
彼の直ぐ横を誰が通り過ぎた。
「面を上げよ」
甲高い声がした。
氏種はゆっくりと顔を上げた。眼前には、鮮やかな朱色と漆黒の色に染めた直垂を着た青年が胡坐を掻いていた。直垂には織田木瓜の紋が入っていた。特に両胸や背中、両袖に家紋が入っている直垂を大紋といった。
目と目があった。精鍛で瓜実顔をした青年だった。だがその目つきだけは異常に鋭いものがあった。
氏種は背筋に寒いものを感じた。
尾張清須城主の織田弾正忠信長殿だ。あの今川治部を討った……。
氏種は緊張のあまり、生唾を飲み込んだ。
「予が、織田弾正忠信長である」
「江北小谷城主浅井新九郎が家臣安養寺三郎左衛門氏種でござりまする」
氏種は恭しく信長に名乗った。
「して、本日の用件は……?」
冷たい瞳で信長は氏種を睨みつけた。
すると氏種は、懐の中から持参した文を取り出し、側近の利興に手渡した。
「お屋形様」
と利興は氏種から受け取った文を、信長に差し出した。
「ふむ」
利興から文を受け取ると、信長は黙読した。
「……予の武勇に肖りたいとは、浅井殿もまこと殊勝なお心掛けじゃ。安養寺とやら、国許に戻ったならば、予に異存はござらんと浅井殿に伝えよ」
「ははぁっ、ご承諾頂き恐悦至極」
氏種は深々と頭を下げた。
そのあと、菓子が出され、半刻(一時間)近く世間話をして時間を潰すことになった。
北近江の山々が紅色に染まり始めた頃、浅井家三代目当主となった賢政は、安養寺親子を本丸主殿の書院に呼び寄せた。
「六角入道承禎殿からの偏諱である賢の文字を捨てようと思う」
「それはまことに良きお考え」
氏秀が恭しく言った。
「して何という諱に……」
氏秀が尋ねると、賢政は先ほど自らの手で書いた諱を記した紙を、安養寺親子に披露した。
「長政……」
「そこでじゃ、三郎左衛門、其方に一つ頼み事がある。尾張の織田弾正殿の許に遣いに行ってはくれぬか……」
「織田の許に、でござるか?」
氏種は訝し気に首を捻った。
「ああ、この長政、織田信長殿の武勇に肖りたいと思うておる、是非とも偏諱を頂戴したい。織田弾正殿にそう申し伝えよ。子細は文に認めてある」
「……承知仕った」
氏種は、まだ何か引っ掛かるような素振りであったが、長政に頭を下げた。
翌朝、卯の刻(午前六時)、氏種は旅装束姿で小谷城下を発ち、一路尾張清須城へ向かった。午の刻限(正午)には国境を越え美濃国に入った。関ケ原から養老へ向かい、更に南下して揖斐川、次いで長良川、最後に木曽川を渡り、尾張国に入ったのは戌の上刻(午後七時)を少し回った頃だった。その日は、清須城下の外れの宿屋に泊まることにした。
次の日の朝、氏種は清須城を訪れた。
「某、江州小谷城主浅井新九郎の家臣、安養寺三郎左衛門と申しまする。織田弾正忠殿にお目通りを」
大手門を護る門衛に、用件を伝える。
「安養寺殿、ここにて暫し待たれよ」
具足を纏った門衛は、氏種にそう伝えると一旦城内へ消えた。
言われた通り暫く待っていると、先ほどの門衛と萌黄色の直垂姿の侍が現れた。
「ご貴殿が安養寺殿か……浅井新九郎殿の遣いで参ったと申されたが……拙者、織田家家臣の斎藤新五郎と申す」
若武者が名乗った。
新五郎は、諱を利興といった。信長の岳父斎藤道三の末子で、父道三が長兄義龍に討たれる前に美濃を脱し、信長の許に寄寓した。歳は数え年で、天文七年(一五三八)生まれの氏種より三つ若い天文十年(一五四一)生まれの二十歳になる。
「安養寺三郎左衛門でござる。本日は我が主浅井新九郎の遣いで参った。織田弾正忠殿にお目通りを願いたい」
「案内致そう。拙者について参られよ」
「忝い」
一礼すると氏種は、利興の後ろについて城内に足を踏み入れた。
本丸主殿の謁見の間に通された。
「暫しここでお待ち下され」
「承知致した」
四半刻(三十分)ほど待たされた。
渡り廊下を数人の者が歩く音が、氏種の耳に届いた。
氏種は、平伏して信長が現れるのを待った。
彼の直ぐ横を誰が通り過ぎた。
「面を上げよ」
甲高い声がした。
氏種はゆっくりと顔を上げた。眼前には、鮮やかな朱色と漆黒の色に染めた直垂を着た青年が胡坐を掻いていた。直垂には織田木瓜の紋が入っていた。特に両胸や背中、両袖に家紋が入っている直垂を大紋といった。
目と目があった。精鍛で瓜実顔をした青年だった。だがその目つきだけは異常に鋭いものがあった。
氏種は背筋に寒いものを感じた。
尾張清須城主の織田弾正忠信長殿だ。あの今川治部を討った……。
氏種は緊張のあまり、生唾を飲み込んだ。
「予が、織田弾正忠信長である」
「江北小谷城主浅井新九郎が家臣安養寺三郎左衛門氏種でござりまする」
氏種は恭しく信長に名乗った。
「して、本日の用件は……?」
冷たい瞳で信長は氏種を睨みつけた。
すると氏種は、懐の中から持参した文を取り出し、側近の利興に手渡した。
「お屋形様」
と利興は氏種から受け取った文を、信長に差し出した。
「ふむ」
利興から文を受け取ると、信長は黙読した。
「……予の武勇に肖りたいとは、浅井殿もまこと殊勝なお心掛けじゃ。安養寺とやら、国許に戻ったならば、予に異存はござらんと浅井殿に伝えよ」
「ははぁっ、ご承諾頂き恐悦至極」
氏種は深々と頭を下げた。
そのあと、菓子が出され、半刻(一時間)近く世間話をして時間を潰すことになった。
12
あなたにおすすめの小説
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】
3巻からは戦争編になります。
戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。
※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる