元亀戦記 江北の虎

西村重紀

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第二章 家督

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 十月に入ったある日のことだった。
 北近江の山々が紅色に染まり始めた頃、浅井家三代目当主となった賢政は、安養寺親子を本丸主殿の書院に呼び寄せた。
「六角入道承禎殿からの偏諱である賢の文字を捨てようと思う」
「それはまことに良きお考え」
 氏秀が恭しく言った。
「して何という諱に……」
 氏秀が尋ねると、賢政は先ほど自らの手で書いた諱を記した紙を、安養寺親子に披露した。
「長政……」
「そこでじゃ、三郎左衛門、其方に一つ頼み事がある。尾張の織田弾正殿の許に遣いに行ってはくれぬか……」
「織田の許に、でござるか?」
 氏種は訝し気に首を捻った。
「ああ、この長政、織田信長殿の武勇に肖りたいと思うておる、是非とも偏諱を頂戴したい。織田弾正殿にそう申し伝えよ。子細は文に認めてある」
「……承知仕った」
 氏種は、まだ何か引っ掛かるような素振りであったが、長政に頭を下げた。
 翌朝、卯の刻(午前六時)、氏種は旅装束姿で小谷城下を発ち、一路尾張清須城へ向かった。午の刻限(正午)には国境を越え美濃国に入った。関ケ原から養老へ向かい、更に南下して揖斐川、次いで長良川、最後に木曽川を渡り、尾張国に入ったのは戌の上刻(午後七時)を少し回った頃だった。その日は、清須城下の外れの宿屋に泊まることにした。
 次の日の朝、氏種は清須城を訪れた。
「某、江州小谷城主浅井新九郎の家臣、安養寺三郎左衛門と申しまする。織田弾正忠殿にお目通りを」
 大手門を護る門衛に、用件を伝える。
「安養寺殿、ここにて暫し待たれよ」
 具足を纏った門衛は、氏種にそう伝えると一旦城内へ消えた。
 言われた通り暫く待っていると、先ほどの門衛と萌黄色の直垂姿の侍が現れた。
「ご貴殿が安養寺殿か……浅井新九郎殿の遣いで参ったと申されたが……拙者、織田家家臣の斎藤新五郎と申す」
 若武者が名乗った。
 新五郎は、諱を利興といった。信長の岳父斎藤道三の末子で、父道三が長兄義龍に討たれる前に美濃を脱し、信長の許に寄寓した。歳は数え年で、天文七年(一五三八)生まれの氏種より三つ若い天文十年(一五四一)生まれの二十歳になる。
「安養寺三郎左衛門でござる。本日は我が主浅井新九郎の遣いで参った。織田弾正忠殿にお目通りを願いたい」
「案内致そう。拙者について参られよ」
「忝い」
 一礼すると氏種は、利興の後ろについて城内に足を踏み入れた。
 本丸主殿の謁見の間に通された。
「暫しここでお待ち下され」
「承知致した」
 四半刻(三十分)ほど待たされた。
 渡り廊下を数人の者が歩く音が、氏種の耳に届いた。
 氏種は、平伏して信長が現れるのを待った。
 彼の直ぐ横を誰が通り過ぎた。
「面を上げよ」
 甲高い声がした。
 氏種はゆっくりと顔を上げた。眼前には、鮮やかな朱色と漆黒の色に染めた直垂を着た青年が胡坐を掻いていた。直垂には織田木瓜の紋が入っていた。特に両胸や背中、両袖に家紋が入っている直垂を大紋といった。
 目と目があった。精鍛で瓜実顔をした青年だった。だがその目つきだけは異常に鋭いものがあった。
 氏種は背筋に寒いものを感じた。
 尾張清須城主の織田弾正忠信長殿だ。あの今川治部を討った……。
 氏種は緊張のあまり、生唾を飲み込んだ。
「予が、織田弾正忠信長である」
「江北小谷城主浅井新九郎が家臣安養寺三郎左衛門氏種でござりまする」
 氏種は恭しく信長に名乗った。
「して、本日の用件は……?」
 冷たい瞳で信長は氏種を睨みつけた。
 すると氏種は、懐の中から持参した文を取り出し、側近の利興に手渡した。
「お屋形様」
 と利興は氏種から受け取った文を、信長に差し出した。
「ふむ」
 利興から文を受け取ると、信長は黙読した。
「……予の武勇に肖りたいとは、浅井殿もまこと殊勝なお心掛けじゃ。安養寺とやら、国許に戻ったならば、予に異存はござらんと浅井殿に伝えよ」
「ははぁっ、ご承諾頂き恐悦至極」
 氏種は深々と頭を下げた。
 そのあと、菓子が出され、半刻(一時間)近く世間話をして時間を潰すことになった。
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