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第八章 姉川の戦い
一
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信長に浅井長政離反を伝えたのは、お市ではなかった。お市が長政の許に嫁ぐ折、彼女のお付きの供侍として浅井家に仕えることになった雑兵が、お市に断りなしに勝手にしたことだった。所謂返り忠であった。
これを裏で画策した人物がいた。一時期、長政に客分として仕え、東浅井郡草野に三千貫の禄を得た竹中半兵衛重治だ。
重治は、一半ほどで浅井家を去り、旧領の美濃国不破郡岩手で隠遁した。隠遁中の重治を、諸葛孔明の三顧の礼の故事に倣って迎えた人物がいる。木下藤吉郎秀吉だ。
嘗て浅井家に三千貫で仕えていた重治は、浅井家の中、特に先代の久政を中心とした重臣(おとな)たちが、織田家をよく思っていないことを知っていた。そこで重治は、お市が嫁ぐ折、自分の息の掛かった者を、お市の供侍に加え浅井家に送り込んだのである。
また、明智光秀も、浅井・朝倉の内情を熟知していて、独自の視点から両家の動きに眼を光らせ警戒していたのだ。
間一髪でことなきを得た信長は、翌五月九日岐阜に戻るため京を発ち帰途に就いた。
江北浅井領を避け、信長は伊勢方面に抜ける千種街道を通過中の十九日に、付近の山中に潜んでいた杉谷善住坊なる鉄砲の名手に狙撃された。幸いにして信長はかすり傷程度で済んだ。
この時信長を狙撃した杉谷善住坊は、甲賀五十三家の一つである杉谷家の出身の忍者であると伝わる。
二十一日、岐阜城に戻ると、信長は早速竹中半兵衛重治を召し出した。
「先の越前入りでの一件、そちの働き見事であった。浅井を討とうと思っておる。そこでじゃ半兵衛、浅井の者に手を伸ばせ」
信長は体温の低い声で、重治に浅井家臣団の調略を命じるのであった。
「承知致しました。早速手を伸ばし始めます」
『浅井三代記』によると、重治はこののち、浅井方の長亭軒城や長比城を、調略によって織田方に寝返らせている。
金ヶ崎で義兄信長を取り逃がすという大失態を演じた長政は、清水谷の浅井屋敷の奥座敷に足を運んだ。
「お市、義兄上が無事に岐阜に戻られたそうじゃ」
長政は、乳母に抱かれた次女お初に一瞥をくれ、妻お市の方に告げた。
長女茶々とお手玉などをして遊ぶお市は、目顔でお初の乳母と侍女に退室するよう指示を出した。
娘たちが部屋を離れると、お市は改めて夫長政の顔を凝視した。
「然様ですか……」
お市は感心なさ気に素っ気なく言った。
「あの兄のことです。ただでは済まないと存じ上げます」
「朝倉殿と南近江の六角殿に使者を送った。京におわす公方様も我らの見方じゃ。案ずるなお市」
「……はい。それにしても迂闊でございました。まさか、あの安槻平助が兄の差し向けた間者であったとは……兄はやはりこの私すら疑っていた」
「否、お市よ、義兄上が疑っていたのはお前ではなくこの俺じゃ」
「ところで殿、国境の備えは?」
「万全じゃ。垂井、赤坂に火を放った。長比、苅安尾の砦も改修し、人を入れた」
長政が織田勢の来襲に備え、修築を施した長比、苅安尾の両城に入った堀次郎左衛門尉秀村、樋口三郎左衛門直房は、間もなく竹中半兵衛重治の手が伸び、織田方に寝返ることになった。
一報が、小谷城に伝わったのは六月十九日の夕刻だった。
「またしても竹中半兵衛めに図られた。あ奴が牢人しておった頃、この俺が情けを掛け三千貫の禄を以って召し抱えた恩を仇で返すとは」
長政は悔しそうに言った。
「義に悖る者は必ず天罰が下ります」
お市は真顔で言った。
お市の予言通り、竹中半兵衛重治という男は、その後、当時不治の病とされる結核に罹患し、六年後の天正七年(一五七九)六月十三日に死去した。結核などの不治の病は、前世の行いが祟った業病とされている。
これを裏で画策した人物がいた。一時期、長政に客分として仕え、東浅井郡草野に三千貫の禄を得た竹中半兵衛重治だ。
重治は、一半ほどで浅井家を去り、旧領の美濃国不破郡岩手で隠遁した。隠遁中の重治を、諸葛孔明の三顧の礼の故事に倣って迎えた人物がいる。木下藤吉郎秀吉だ。
嘗て浅井家に三千貫で仕えていた重治は、浅井家の中、特に先代の久政を中心とした重臣(おとな)たちが、織田家をよく思っていないことを知っていた。そこで重治は、お市が嫁ぐ折、自分の息の掛かった者を、お市の供侍に加え浅井家に送り込んだのである。
また、明智光秀も、浅井・朝倉の内情を熟知していて、独自の視点から両家の動きに眼を光らせ警戒していたのだ。
間一髪でことなきを得た信長は、翌五月九日岐阜に戻るため京を発ち帰途に就いた。
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二十一日、岐阜城に戻ると、信長は早速竹中半兵衛重治を召し出した。
「先の越前入りでの一件、そちの働き見事であった。浅井を討とうと思っておる。そこでじゃ半兵衛、浅井の者に手を伸ばせ」
信長は体温の低い声で、重治に浅井家臣団の調略を命じるのであった。
「承知致しました。早速手を伸ばし始めます」
『浅井三代記』によると、重治はこののち、浅井方の長亭軒城や長比城を、調略によって織田方に寝返らせている。
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「お市、義兄上が無事に岐阜に戻られたそうじゃ」
長政は、乳母に抱かれた次女お初に一瞥をくれ、妻お市の方に告げた。
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「……はい。それにしても迂闊でございました。まさか、あの安槻平助が兄の差し向けた間者であったとは……兄はやはりこの私すら疑っていた」
「否、お市よ、義兄上が疑っていたのはお前ではなくこの俺じゃ」
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